一 変身、再び
── 天之家
七月ももう終わろうというジメッとした夏の夜。
打って変わって、キンキンに冷やされた室内で着崩れた甚兵衛姿で少年がすやすやと眠る。
タイマーを三時間に設定したクーラーと扇風機だけが彼の部屋に音を立てている。
朝が来たら強制参加の夏季課外授業に参加するため自身の高校に登校せねばならない。そのため、世間が夏休みだろうと夜更かしをせずに──一時半まで起きていることを夜更かしと呼ばないのであれば、せずに──夜になると漲る
少年・
カーテンの隙間から街灯の明かりが僅かに差し込む薄暗闇の中、唐突に廊下へと続く扉が開いた。
やおら部屋に入ってきたのは、ひとりの女性。
安息の地への侵入者ながら、その歩く様はゆかしく思われる。
「まったく、
口を尖らせてそう呟く。
どうやら、伊弉冉尊に不満があるらしかった。
国生みの女神に怖めず臆せず接し、あろうことか不平を直接つきつけることができる者は多くない。
光の部屋に現れた女神・
長いこと怒りに支配され、終ぞ人間の憤怒の怨念にまで晒された伊弉冉尊。
それらから解放された妹分に、しばらくぶりに会ってみようと思い立ったが吉日。黄泉の神殿を訪れた綾惶根が見たのは伊弉冉の傍に侍る一人の女性であった。
素晴らしい。
一目見てそう思った。
顔立ちの良さもさながら、柔和な笑みの中に一本の芯も見える。
女性の素晴らしさを讃える女神をして、とても気に入った。
なぜ自分はこの子を知らなかったのだろうと訊ねてみれば、この十二年程、封鎖された黄泉の神殿にいたという。
つまりは、伊弉冉が隠していたのだ。独り占めして愛でていたのだと頬を膨らませる。
自身の元へ来ないかと勧誘してみても「私は伊弉冉尊の秘書ですので」とつれない言葉をもらってしまった。
高天原に戻り侍女に聞いたところ、あの素晴らしき女性には子がいて、それは以前、
これはもう行くしかないと、うきうきと弾む心で中津国へと降りてきた。
母があれならば、やはり娘であったなら大変可愛らしいものになっただろう。
綾惶根は飄然とした面差しで眠る少年を見下ろした。
「えい」
軽い掛け声と共に自身の力を注ぐと、少年はゆっくりと姿を変えた。
変化を見届けた女神はうんうんと頷き、やはり見立ては間違っていなかった、良いことをしたと言わんばかりに嫣然と微笑んだ。
咎める者はなく、扇風機だけがただ首を横に振る。
無聊を慰めることができた綾惶根は高天原へと戻っていく。
呑気に眠る光を残して……
「暑……」
開け放たれたドアから廊下を冷やしに冷気が飛び出していった自室で光は目を覚ました。
静かな朝。まだ眠い。
アラームは鳴っていないが後どれくらい夢の世界に戻れるだろうかとスマートフォンを手に取った。
電源ボタンを押したが画面は暗いまま。
寝ぼけ眼をもう少しだけ開けて再度押してみるも暗いまま。
嫌な予感がして電源ボタンを長押しすると電池残量が空であることを報せてきた。
他に時間の確認できるもの、アナログの目覚まし時計はスマホを所持して以降使うこともなくなり秒針が動きを止めて久しい。
スマホと同じく枕元に置いてあるゲーム機のスリープを解除してみれば画面右上に時刻が表示された。
『7月29日(火) 08:02』
ドクンと心臓が跳ね上がり、一気に覚醒した。
八時半には教室にいなければならないというのに。遅刻確定……いや、全力で電停に向かえばギリギリ間に合いそうなのがたちが悪い。
急いで甚兵衛を脱ぎ捨てて、制服に着替える。
電源の入らないスマホも学生鞄に突っ込んで、リュックを引っ提げて階段をドタドタと駆け下りる。
玄関を飛び出て、鞄を自転車の籠に突っ込んで勢いよく漕ぎ出した。
自転車通学の許可など取っていないが駅までなら、見つかることもあるまい、後は信号機のタイミングを祈りつつ全力で走るのみ──
── 鹿児島市 中心市街地・県立高校
午前八時三〇分、光は息を切らしながら、それでもなるべく目立たぬようにゆっくりと深呼吸をしながら教室の自分の席に座っていた。
なんとか市電にギリギリで飛び込み、学校最寄りの電停を降りてからもひたすら走り、もはや人影も見当たらない廊下を軋ませながら走りにくい室内履きのスリッパで駆けてきた。
教室では既に教師が教壇に立ち出席簿を構えていたがすんでの所で間に合った。
息を荒げるのを必死で抑えようとしているのだ、出席確認の返事が擦れたとしてもご愛嬌であろう。
額に伝う汗を拭って光はようやく人心地ついたのだった。
珍しいこともあるものだと教室後方の扉を見ていると、チャイムの寸前に光は姿を現した。
いや、これは自分の知る天之光であろうか?
当然のように自身の後ろの席、つまり光の席にまっすぐ向かい座ったので、他の誰かという訳ではないだろうが、どうも違う気がする。
(艶っぽい?)
一瞬、頭に過った言葉を頭を振って打ち消した。同性の友人に抱く感情ではない。汗に濡れた髪が少し扇情的に見えただけ。
(いや、それもおかしい。というか髪、校則違反じゃね?)
ホームルームが始まったので、振り返って確認するのは憚られるが昨日より髪が長かった気がした。
今はただ、担任の話が終わるのを待つのみ。
ホームルームが終わると同時に振り返り、啓介は光をまじまじと見つめた。
「なに?」
問いには答えず、確認作業を続ける。
「なんか今日、かわいくね?」
「は? 何言ってんの?」
「しまった」と思ったがもう遅い。つい口に出してしまったが、湧いた疑問の答えはまさにそれであった。
なんとなくかわいく思えた。普段とて見目は悪くないが、今までそんな事を思ったことはなかった。だが、本日は何故かそう見えた。
引かれただろうかと顔色を窺うと、やはり光は怪訝な顔をしている。
「悪い。変なこと言ったな」
「まったくだ。僕はいつだってかわいいだろ?」
「そういう感じじゃないんだけどな」
気にしていないなら、それで良いかと内心胸をなで下ろす。
「ちょっと御手洗。起きたら遅刻しそうな時間だったから、若干我慢してたんだよね」
「ああ、俺も行っとこ」
並んで席を立つと、またも違和感が生じる。この天之光はどうも自分の知る男とは違う気がした。
トイレで用を足していると、視界の端で何やら光がてこずっているのが見えた。
「あれぇ、ないぞ?」
「ないわけあるか、もっとよく探せ」
ふざけている場合ではない、授業開始までそう間もないのだ。
「……本当にないんだけど。あれぇ、あれぇ?」
真に迫る動揺っぷりであった。社会の窓に手を突っ込み弄る様は滑稽ではあるが、長いこと見ていたい光景ではない。
「おい、人目につくとこで辞めろよ。ほら、中で確認しろ」
光を個室に追いやり、水道水で手を洗いながら一笑に付す。何をか言わんや。光にしては面白い冗談であったが、そんな馬鹿な話はない。
「はあ!?」
個室から聞こえた光の叫び声は聞こえないふりをするのだった。
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