十二 黄泉の国

 ── 島根県松江市揖屋 黄泉比良坂


 辺りは木々に囲まれ町の喧騒は遠く離れている。

 光達の耳には、枝葉が風に揺れる音だけが届いた。


「駐車場もあるし、観光地なんだな」

「うん。しかしまあ、賑わってはなさそうだね」

「そんなに有名じゃないのかな?」

「出雲大社からはだいぶ離れてるからね。でも、あの世に思いを馳せるには静かな方が良いのかも」


 心穏やかに死者に思いを馳せるには適した環境であると、将史の考察に三人も納得した。


 二つの石柱に結ばれた注連縄のもとに向かう。これが神社における鳥居のようなものだろう。


「ちょっと怖いところだと思ってたから、おどろおどろしくなくて良かったよ」

「そう? この泥で淀んだ池なんて、底もなくあの世まで繋がってそうな雰囲気だけど」

「なんでそんなこと言うの?」


 光の余計な一言によって、前向きで明るかった彩音の表情は一瞬にして曇る。

 この男は昔からそういう悪癖があった。


 一行は、注連縄をくぐり千曳岩ちびきのいわの前に立つ。


「さて、この岩の下に入口があるって?」


 光は、岩の周りをぐるりと回り、


「思ったより大きくはないけど、動かせそうにないね」


 そう結論づけた。

 千人の力で引いてようやく動く岩とあって、四人でどうこうできそうにない。


「さて、どうしようか」

「手詰まりか? 学校さぼって観光に来ただけ?」

「そもそも出入りできないように塞いだのがこの岩なんでしょ? 入口としては機能してないんじゃ」

「いや、神話にはこの岩が設置された後も、黄泉の国に行った記述があるんだ。素戔嗚尊や大国主命なんかのね」


 光三人の会話を聞きながら岩の表面をぺたぺたと触る。

 そして、少し体重を乗せると光の身体は吸い込まれるように岩の中へ消えていった。


「光!?」「うおえ!?」「光ちゃん!」


 驚きの声をあげ、将史が千曳岩を押したり叩いたりするが何も起こらない。

 今度は勢いを込めて千曳岩に体当たりをする。


「痛っ!」


 一瞬、光の姿が見えたがすぐにまた、岩の向こうへと消えていった。


「いま、光いなかった?」

「一瞬見えたと思ったけど、将史くんに当たって……」

「押し戻しちゃった! どうしよう」


 せっかくこちら側に戻ってきた光を叩き出してしまい、珍しく将史が慌てた様子を見せた。

 すると今度は、様子を探るようにゆっくりと光が岩の中から全身を出して口を開く。


「大丈夫。無事だよ」

「ああ、光。良かった」

「この先にちょっとした空間があって、門があるんだ。そこから先が黄泉の国だと思う」

「でも僕ら、岩の中に入れないんだ」

「そうなの?」


 光は岩をすり抜けられるほうが異常であることを棚に置き、まさかそんなという表情を浮かべた。

 できるわけないと思いつつ彩音や啓介も岩に触れて中に入れるか試すが、やはり適わなかった。


「となると、この血が鍵になってるのかな」


 光と他三人の違いといえばそれしかないだろう。

 神々の血が、岩を通り抜ける鍵となっている。


「一緒なら入れないかな?」

「ふむ」


 彩音問いに応えるように、手を取って千曳岩に入ると、二人揃ってするりと抜ける。


「いけたね」


 あとの二人も同様に招き入れようと手だけを外に出し、まず将史を引っ張り入れる。

 再度、手を外に伸ばすと、手を取る事なく啓介が入ってきた。


「お前が岩に触れてたら出入りできるみたいだな。ドアボーイご苦労」

「どうも」


 外の陽光が薄く感じられる不思議な洞窟。岩肌が透けて外の木々と木漏れ日が目に映る。

 幻想的ともとれる景色に見惚れる四人の目の前では、門が閉ざされている。


「じゃあ、行こうか」


 閂を取り外し黄泉の門を開くと、洞窟が下り坂となって続いていた。

 木々のざわめきも今は遠く、聞こえるのは自分たちの息と足音のみ。


「この先、目的地までどれくらいかかる? 今日中には行けるよな」


 少し湧いてきた不安な気持ちを払うように啓介がぼやいた。 


「僕らみんな、あの世は初めてなんだぞ。正直わかんないよ」

「伊弉諾尊は黄泉神よもつかみの神殿から地上まで走って逃げたことを考えると、そう遠くないとは思うけどね」

「そうだといいな。あまり長居したくないかも」


 緊張した面持ちのまま、歩みを進めると洞窟の終わりが見えた。


 ── 黄泉の国


 外に出ると、明るい光が差し込む。

 この辺りは木々に囲まれ、先を見ると青々とした草原が続いており、途中で大きな川に別たれている。

 さらに遠くには街のようなものが見え、大きな神殿のようなものが点在している。


「ここ、本当にあの世? なんか思ってたのと違う」

「うん、ここは黄泉の国。間違いなくあの世だよ」

「あの辺はそれっぽいな」


 啓介が指差す方向には暗雲立ち込める神殿も見えた。

 おどろおどろしい感じがしてまさしく死者の国といった雰囲気がある。


「この辺は桃源郷の名にふさわしい場所だね」


 彩音が言うように、四人の立つ周囲にある木には桃の果実が生っていた。


「お、美味そうな桃。もらいっ」


 啓介が桃を一つ手に取り、皮を剥いて食べようとすると、「馬鹿、食べるな!」と普段は口に出さない乱暴な言葉を使い、将史が慌てて止めた。


「な、なんだよ?」

「伊弉冉尊の神話を知らないのかい? ここの食べ物を口にしたら最後。黄泉の国の住人になるんだ。つまり……」

「みなまで言うな」


 光の説明も半ば、死者の仲間入りすることを悟り啓介は桃を放り投げた。

 その様子を見て、将史は安堵のため息を吐く。


「とはいえ、桃は役に立つかもしれない。持てるだけ持っていこう」


 古来より神聖な果物とされる桃。記紀には伊弉諾尊が桃を投げて黄泉の怪物を撃退した記述もある。

 木になっている新鮮な桃をナイフで切り取り、バッグに仕舞っていく。


「俺達の武器は桃だけか? なんだかなあ」

「一応、以前光が使ってたサバイバルナイフもあるけど、ここの怪物にどれだけ通用するかわからないからね」

「人工物じゃ、神話生物に敵わねえか」


 銃刀法違反が見つからないよう隠していたナイフを、もはや隠す必要はないと一応取りだしやすいよう将史は腰に身につけた。


「人の手で作られた物でも、例えば神社に奉納されて、長い間、信仰や祈りを集めた刀剣は魔を滅する力を持つみたいだよ。当然、用意できなかったけどね」


 部屋から消え去る前に、将史が男神から聞き出した情報を共有する。


「まあ、神社で大事にされてる物じゃね」

「新幹線で話してた日本一大きい刀。破邪の御太刀っていうんだって。江戸時代に奉納された太刀なんだけど。いかにもって名前だよね。いつか見てみたいな」


 各々の鞄に可能性な限り桃を詰め込んだ。


「で、どこに行きゃあいいんだ?」

「……さあ?」

「おい、本当に無計画だな」

「しょうがないだろ。黄泉の国の地図なんてあると思うか?」


 光と啓介が言い合っていると、光のリュックサックが揺れ動いた。

 ファスナーがこじ開けられ、こはくがするりと抜け出す。くんかくんかと鼻をひくつかせたかと思えば一目散に走っていった。


「ちょっ、こはく!」


 光が慌ててこはくを追う。


「私達も行こ!」


 こはくと四人は不吉な気配が漂う方へ、闇の中へと向かって行く。


 ……。


 ── 黄泉の国 黄泉津大神よもつおおかみの神殿


「ここに伊弉冉尊がいるのかい? こはく」


 光は、また飛び出さぬように抱え上げて小兎に尋ねる。

 小兎は何も答えず、毛繕いだろうか前脚で額をくしくしと擦っている。


「まあ、ここが一番怪しかったよね」


 こはくは、まるで道案内でもするかのように、時折後ろを確認しながらここまで走ってきた。

 四人は黄泉の国に降り立った時に見た不気味な神殿の前で息を整えている。


 神殿は警察の規制線のように注連縄で囲われており、見えない何かを閉じ込めているかのよう。

 正面に一カ所ある鳥居を除けば、結界のごとく張り巡らされている。


「そういえば、父さんが伊弉冉尊は神殿ごと封印されてるって言ってた」

「じゃあ、きっとここだね」


 鳥居をくぐれば、瘴気の魔物がそこかしこに現れたかのような感覚に陥った。強い怒りに満ちた悪意を感じる。

 光に限らず、彩音達も心霊スポットに足を踏み入れてしまったような不安と違和感を覚えた。


 さりとて、ここに来た目的に向け先に進まねばならず、神殿に近づく。

 石造りの神殿には、ガラスの嵌まっていない窓が並んでいる。

 外廊下を散策しながら様子を窺う。


「さて、伊弉冉尊はどこかなあ」


 いくつか、扉を開ける。


「この辺りは部屋に何もないな。さては持て余してるな」


 がらんどうの部屋が続き、啓介が軽口を叩いた。


「しかし、石造りって事は黄泉の国に地震はないのかね」

「さあ、どうだろう。素戔嗚尊の神殿は岩肌を削って造ったらしいよ。日本じゃあ…… あー、地上じゃ崩れるのが心配だろうけど、そんな想定はしてないようだし、ないのかもね」


 階段を下りると廊下が続く。


「ここは、倉庫かな。こっちは食料庫。うわあ、なんだか良い匂い」

「良いもの食べてるんだなあ」

「じゃあ、こっちは調理場かな……うっ」


 啓介はすぐさま扉を閉じた。


「どうした啓介」

「なんかゾンビみたいなのがいる」

「ゾンビ?」


 あまりに西洋的な表現におもわず光が聞き返した。


「ゾンビ、ゾンビ……泉津醜女よもつしこめかな?」


 将史は、黄泉の国の化け物に思い当たるものがあるようだった。

 その名前を聞き、光も得心がいく。


「泉津醜女って?」

「伊弉冉尊が使役してる部下と言うか怪物というか」

「伊弉諾尊がここから逃げる時に追ってきた奴だね」


 彩音の問に将史が答え、光も補足した。

 神話生物かもしれないとわかると、やはり興味が出てくるもので四人縦に顔を並べて、今度はこっそりと厨房を覗き見る。


「確かに、おっかないモンスターみたいだ」


 それらは、くすんだ顔色で呼吸していないだろうに時折くぐもった声を漏らしている。

 気味が悪いものを見てざわめく心を慰めるべく、光は腕の中のこはくの頭を撫でた。

 化け物の観察を終え、そっと扉を閉めた。


「……ここらは使用人のエリアらしいね。上に戻ろう」


 将史の提案に賛成し、四人は階段を戻り元の階へ、そして更に上階へ登った。

 この階には装飾がなされた少し豪華な扉が並んでいる。

 近くの扉をいくつか開けて中を覗くと、テーブルとソファ、鏡台、ベッドなどが同じように置かれていた。


「ここは、寝室? ゲストルームか?」

「へえ、こんな所にお客さんが来るのかね」

「しばらく使われてなさそう」


 一室に入り、机を指で撫でると埃がまとわりついてきた。

 長い間、人の手が入っていないことが窺える。


 立派ではあるが、誂えられた家具を見て啓介が僅かに眉根を下げた。


「なんか…… 石造りの時点で和風っぽくはないけどさ」

「うん。これが日本神話の世界かって感じだよな」


 西洋的な家具が並べられた部屋は、少年たちの期待に添ったものではなかった。


「私たちだって布団じゃなくてベッド使うし、そりゃ神様だってふかふかのベッド使いたいでしょ」

「勝手に上がりこんで、家具にケチつけるのは良くないよ」


 彩音や将史にとっても想像と異なる光景ではあったが、行儀よくなだめるのだった。

 話を変えるように、彩音が部屋の奥を指差す。


「この壁の穴は換気用かな?」

「やっぱりそうかな。僕もそう思ったんだ。他の部屋でも見たよ」


 この部屋に窓はない。しかし奥の壁、天井近くに肩幅ほどの大きさの長方形の穴が三つ並んでいる。

 壁が壊れてできた様には見えない、綺麗に整えられたものだった。


「死者も、空調に気を遣うんだな」


 かつての伊弉諾のように、まだ生きている者が黄泉の国に訪れることもある。かつて黄泉神が生者のためにした配慮のおかげで光達は酸欠の心配なく活動できるのだった。


 このフロアからは自分達以外の気配がしない。

 光達はもう一つ階を上がることにした。

 黄泉の神殿・三階に足を踏み入れた途端に皆、背筋に寒気が走った。


「うっ。多分この階だ」

「ああ、僕らにもわかる」


 いままで以上に強い悪意を感じ取った。フロア全体が震えているような、そんな印象も受ける。

 光の腕の中から飛び出たこはくが廊下を歩き出す。

 しかし、今回はこはくの道案内は不要であった。心が怖じ気づく方に進めば良い。


「この部屋だ」

「おっけー。で、作戦は」

「聞いた限りだと、これまでと同じだと」


 光は伯父を名乗る神の言葉を思い出す。


「僕が近づいたら、伊弉冉尊に取り憑いた怨念がこちらを襲おうと実体化してくるから、これを叩く。そう、今まで通り」


 日緋色の短刀を引き抜き振り下ろす仕草をしてみせた。


 人に取り憑いた悪意の瘴気は、光が近づけば姿を現し襲ってくる。その瞬間を幾度か目にしており、実体化した魔物は何度も牙を剥いてきた。そして、それらを倒してきた経験がある。

 伯父神の言うとおりならば今回もやることは同様である。


「じゃあ行くよ。この扉の近くにいて」


 ともにいて大変心強かったが、ここからしばらくは光一人の仕事であった。

 こはくを抱え上げ、リュックに入ってもらい、彩音に預けた。



 扉を開けると、悪意の潮流に飲まれる。

 部屋の奥では、ひとりの女性が円鏡を覗きながら何やら呟いている。


「ああ、腹立たしい。腹立たしい。朽ち果て醜いこの身体も。私の前から去っていったあの男も」


 背後に近づく。まだ瘴気は実体化しない。


「ああ、腹立たしい。腹立たしい。呑気に生を謳歌する人間共も。不躾に我が城に入り込む子供らも!」


 突如振り返り怒りの眼差しを向ける。蛇に睨まれた蛙のごとく怯んでしまう。

 実体化を待つ。


「何しにきた。月読の子よ」


 光はごくりと唾を飲み込む。伊弉冉の身体から怨念が姿を現した瞬間が勝負の時だ。


「……貴女を止めに、いや、お願いに来ました」


 伊弉冉の問いに光は努めて落ち着いて答えた。

 その内心は、


(いや、全然実体化しない! ええ、なんでえ!? どうしよう、どうしよう)


 怨念が実体化するまで、とりあえず時間を稼ぐことにした。


「ほう?」

「いま日本中が、いつ現れるかわからない魔物に怯えながら暮らしています。そして、いさかいが絶えません。どうか、怒りを静めてもらえませんか?」

「ふん、愚かな。私が聞き入れると思うか? 人間など滅んでしまえばいい。あの中津国の大地を造ったのは誰だと思う? 恩を忘れて、悪意を以て仇でで返したのは人間共の方だ」


 伊弉冉尊の立場ではもっともな話だと思ったが、それでも場を繋ぐために言葉を続ける。

 実体化した怨念を打ち倒したいのであって、伊弉冉尊と対峙したい訳ではない。

 一触即発、緊張の糸は張り詰めている。


「いやあ、でも…… ほら、貴女は繁栄を願いながらこの大地を作った。そうでしょう? 人を傷つけようというのは本心ではないのではないかと。怨念に取り憑かれて、思考が歪められてませんか?」


 光は正直、自分が綺麗事を言っている自覚があった。

 しかし、他に言葉が思いつかない。

 自身の語彙力の貧弱さを恨むが、ここに至ってはもう遅い。


「うるさい! これは私の意思。怨念が私を包んだとき、聞こえてきた。なぜ自分だけがこんな酷い目に。どうして自分が苦しい思いを。神よ、あなたを恨むとね。人間共も満足でしょうよ。望みどおり、神に抗い傷をつけた」

「それは…… とんでもない奴がいたもん、ですね。ええと、あの…… そろそろ怒気が薄まってきたとか、力が抜けてくとか、ないですか?」


 光はまだ、怨念が瘴気となって滲み出て、魔物として実体化する可能性を捨てていなかった。

 というよりも、その可能性に縋っていた。


「は?」

「ああ、今のなし!」


 ひょっとしたらと伯父に騙されたのではという考えが頭を過るが蓋をする。

 かたかたと震えて湯気の如く漏れ出てくるが、それでもなんとか押さえつけた。


「じゃなくて。いやしかし……ね、希望を胸に日々、努力する人間もおりまして。一緒くたに罰を受けるというのも……何とかなりませんかね」

「知ったことではないわ。愚かな事をした同胞を恨むのね」


 何が起こるかわからない死後の世界に友人まで引き連れてやってきた、嘘であっては困るのだ。


「このまま双方、怒りというか怨念をぶつけ合えば、留まることなく悪意が膨れ上がってしまいます」

「それを人間共に伝えてはどうじゃ? 私の怒りも鎮まるやもしれんぞ。はあ、この問答も煩わしい! 早う去ね。いや、お前たち四人。この神殿で働かせてやろうか。黄泉の住人にしてやろう。ここは生者の居るところではない!」


 伊弉冉尊が殺気を放つ。

 これは駄目だ、もう無理だなと、なんとか引き延ばしていた損切りのタイミングをここに定めた。


「国生みの女神に仕える、大変光栄ですが…… 私どもでは力不足かと。今日の所はお暇しますね」

「遠慮しなくて良い。醜女共、此奴らを捕らえよ!」


 光は一目散に扉に駆け出し、三人と共に部屋を飛び出した。



「おい、実体化しなかったじゃねえか!」

「騙された! 騙された!」


 そもそも、明らかに影響力のある神から自分に怨念が乗り移るメリットもないし、より良い獲物を捕食している最中なのに矮小な獲物に牙を剥く必要もない。

 考えればわかることが、どうしてか思い至らなかった。まるで催眠にでもかかったかのようだった。


「光、怒ってる人はね、一見正しい意見でも癪に障ることがあるんだ。物言いは考えた方がいいよ。今回はその、人類の方にも非があるようだし」

「怨念も実体化しないし、会話がつきそうだったんだよ! もうちょっと余裕があれば考えて話せてるよ!!」

「きゃあっ、すごい追ってきてる!」


 言い訳をしながら走り二階に降り、さらに階段を駆け下りる。

 一階へと向かう途中で泉津醜女が階段を登ってくるのに気づく。このままでは、かち合ってしまう。


「わあ! 上がれ上がれ」

「そうだ、こんな時の桃だ」


 将史がバッグから桃を取り出して放った。泉津醜女が桃に夢中になって歩みを止める。


「今のうちに」


 一行は二階に戻った。


「どうしよう、どうしよう」

「この部屋に隠れよう」


 先程、見て回ったゲストルームの一室に逃げ込んだ。

 廊下からは、どたどた走る音が聞こえる。


「ここも、いずれみつかるんじゃ」


 彩音が不安の声をあげた。

 将史が何か脱出の取っ掛かりがないか周囲を急いで見て回ると一瞬手がひやりとした。

 屈んでその付近を確認すると壁から僅かに風を感じた。


「この先に空間があるみたいだ! この壁の石をどこか外せないかな」

「よしきた!」


 通気口のある天井近くにダクトが設置されているわけでなく、壁の向こうに広い空間があるとあたりをつけた。

 将史が風を感じた隙間のある石をまず押し出そうと力を込める。

 光がその二つ左隣の石も触れると揺れ動いた。外せる余地があると考えこちらにも力を込める。


 どちらかが外れてくれれば良かったが幸いにも両方押し出すことができた。

 壁に開いた人ひとり何とか通れそうな穴に将史が頭を突っ込む。左右を見回して確認し頭を引っこ抜いた。


「この壁の向こう、廊下みたいになってる。埃っぽいけど、きっと普段は使われてないんだ。見つかりにくいかも。風があるから外には通じてる。ここから逃げよう」

「よっしゃ」


 実際にそこは緊急脱出用の避難経路だった。

 ここは死者の国の王の宮殿であり、緊急時に備えていくつかの脱出ルートが建設時に仕込まれている。使われる事はいまだ一度も無いまま封印され、お呼びの客もお呼びでない客も来なくなり、さらに使われる可能性の減った通路だった。

 実のところ本来の入口もあったのだが、招かれざる客が知る由もない。


 壁に空いた二つの穴からまず、将史と啓介が壁の向こうへ出た。


「次、光。彩ちゃん!」

「おう」


 腰に差した短刀を手に持ち換え、狭い穴をなんとか腰までくぐる。


「んっ…… ん~。んん?」

「光、何してる。早く」

「んんー! ……ふう、どうやら僕はここまでみたいだ」

「はあ!?」

「お尻が抜けない」

「なんでそんなでかいケツしてんだよ! ばか! 痩せろ! 尻相撲チャンピオン!」

「別に太ってないだろ! あれだよ、骨格だよ! ぐぬぅ。はあ…… んん! 駄目だ…… 彩ちゃん?」


 ふと横を見ると、同様に腰から先が抜けない者がもう一人。


「そう、もちろん。これは骨格の問題。でしょ?」

「わかったから、早く抜けよう!」


 変に落ち着いた二人を前に、焦る気持ちをなんとか抑えようと自身の頭をかき乱した後、将史がなだめる。


「引っ張ってみるか?」そう言って啓介が光の腕を力任せに引っ張る。


「痛ててて!」


 これは通り抜けるのは無理そうだと、光は一旦後退して部屋に戻った。


「光! そっちから押してみてくれないか!?」

「わかった」

「え?」


 前後から力を込めればあるいは。

 将史の要望に応え、彩音の足元に立った。


「ちょっと待って! さすがにお尻触られるのは恥ずかしいんだけど」

「掌じゃ触らないようにするから!」


 右前腕を臀部に押し当てて、左手で腕ごと押し込んでみる。


「いたたた! これちょっと駄目かも」


 前後で押し引く方法も失敗に終わった。

 次の手段を考えていると、廊下から足音が近づいてくる。

 時間はあまり残されていないようだった。


「将史! 啓介! 醜女が来る。こっちはなんとかするから、外で合流しよう。鳥居の外にいて!」

「……わかった、後で!」

「もたもたしてると置いてくぜ」


 将史は少し迷ったが啓介とともに、ほんのりと光の差す方へ走っていった。

 その音を聞き、彩音を部屋にに引っ張りだす。


 部屋を出ようと扉を開くと、二体の泉津醜女がこちらに気づく。

 扉を一度しめて、再び勢いよく開け、二体に叩きつけた。


 醜女共が倒れたのを見て、廊下へ飛び出し走り出す。

 廊下を曲がった先には、複数の醜女が闊歩しており、すぐさま引き返す。

 では今来た道を戻り、逆方向へ行こうと思えば向こうの曲がり角からも、こちらに向かってくる影が見える。


「どうする!?」

「どうしよう? どうしよう!」


 考えても、考えても良いビジョンが浮かばない。

 前方も後方も塞がれて、二人はあたふたするしかなかった。


 すると、


「こっちへ!」


 背後で開いた扉の中へ二人は女性に引き込まれた。


 ……。




「人間の子? ここでは見てませんよ」


 部屋に訪ねてきた泉津醜女を女性があしらう。

 醜女は探るような目つきで、しばし女性を睨めつけて去って行った。

 物陰に隠れて耳をすませていた光と彩音は、扉の閉まる音を聞いて、ほっと胸をなで下ろす。


「あの、ありがとうございました」


 物陰を出て恩人に向き直る。


「まったく、ここは生きた人間が来るところじゃないの。わかって……」

「はい、それはもう…… 母さん?」


 女性は、光が幼い頃に見た母親にそっくりだった。

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