七 怨嗟

 ── 天之家


 「またこれか」


 光は薄暗がりの中で目を覚ました。例の如く傷は癒えて痛みもない。

 前回と違うのは手のひらの感触。


「おはよ、どうやって抜け出したんだ?」


 小兎が手の下に潜り込んで頭を擦りつけていた。

 ケージの扉が開けられた様子はなかったが、脱走する手段を得たようだ。

 床に伏す光が気になったのか、はたまた、ただ遊びたいだけなのか、こはくは盛んに甘えてきた。

 光もその様子にふっと笑い、頭から背中にかけて撫でてやる。こはくは目を細めてリラックスし、ベッドに溶けるように背を伸ばすのだった。


 さて、ずっとベッドに佇んでもいられない。

 光はこはくを片手に携え、階下へと降りた。


 「私は、あの子の安全を君達に託した。私のエゴに巻き込んですまないが、君達になら任せられる、そう考えていたんだが。荷が重かったかい? 鈿女うづめ

「返す言葉もございません……」


 リビングの扉ごしに父と姉の声が聞こえる。


「しかし月読つくよみ様、やはり自国に適任者がいながら外界の力を頼るというのも」

「くどいぞ白兎はくと。私は、沙織に誓った言葉を違えることはできん」

「でも、ご存じでしょう? ただ囲い込むことだけが護ることではないと」

「そんなことは…… ああ、光。起きたか」


 扉を開けると、二人が光に気づいた。いやもう一羽、ハクトもこの場にいたようでこちらを振り向く。そしてもう一人、輝だけは光に気づいていないのか惚けた顔でじっと座っている。


「うん。父さん、仕事は良かったの? 姉さんも」

「心配するな。怖い思いをしたな」

「いや…… うん、ちょっとね」

「ごめんね、近くにいなくて」

「まあしかし、無事で何よりだ」

「うん。うん?」


 父と姉に続き、知らない声が混じっていた。しかし、どこかで聞いたことがあるような。そして、偶然だろうか、その声とともにハクトが口をぱくぱくとさせていた。


「今、思えばあれは誰かの妨害だったのかも」

「妨害? 光が襲われたのは意図されたものだと?」

「ねえ、いまハクト喋った?」

「ああ、喋るとも。そこいらの兔とは違うのでね」


 ぶっきらぼうな声が光の問いに答えた。

 声の主を理解できず、しばし惚けたが誰の声か理解した途端光の身体は衝撃に包まれた。


「うさぎが喋った。うさぎが喋った! 気持ち悪!」

「何を言うか、小僧が。誰に対して気持ち悪いなどと!」

「白兎」

「……失礼いたしました」


 満の制す声に、白兎が渋々と頭を下げる。

 目の前の光景を受け入れられず唖然とする。なるほど、兄にも同じ事が起こっているのだろう。


「光。君の身に何が起きているのか説明しなければならない」

「いいの?」気遣わしげな表情で卯月が尋ねる。

「もはや、やむを得ん」

「もしかして、これのこと?」


 自身に起きた変化はこれからおかしかった。光は水球を作りだして見せた。


「それも含めてな」


 満は優しく微笑んだ。



「君たち兄弟は、私の養子となり、天之を名乗るようになったが、天之満というのは私の本当の名前じゃない。この地で過ごす際の仮の名だ。月讀、これが私の本当の名だ」


 改めて父が名乗る。


「月讀、日本神話の?」輝が尋ねる。

「そう、その月讀が私だ」

「父さんが、月の神様?」光も尋ねる。

「ああ。父・伊弉諾いざなぎから夜を統べるよう命じられた、夜の神、月の神だ」


 父が突然、信じられないようなことを口にして、兄弟は戸惑いを隠せなかった。


「ええ……じゃあ、姉さんは?」


 父が娘と称して連れてきた姉についても訊ねる。


「私の卯月も仮の名前。本当の名前は天鈿女あまのうづめ。ほとんど変わらないでしょ?」


 笑いながら告げる。

 天鈿女、こちらの名前にも聞き覚えがあった。

 岩戸隠れの神話。高天原にて岩の中に隠れて出て来なくなった天照大御神を外に誘い出すために開かれた偽の宴。その際、上半身を顕にし、官能的な踊りで場を盛り上げた女神。月讀との関係はよく覚えていないが、そういった知識は頭にあった。


「あっ、だから普段家であんな際どい格好してるのか」

「は?」

「あっ……」


 よく見かける姉の格好について得心がいった。

 姉弟とはいえ、年頃の異性に対してあまりにもラフな格好を見せてきた。しかし恥じらいは一切見せなかった卯月。

 わずかに眉間に皺を作る月讀。あせる鈿女。

 

(恥ずかしくないんかなと思ってたけど、もっと凄いことやってりゃ気にならないのか)


 合点がいったと不意に出した言葉であったが、鈿女にとっては居たたまれない。

 楽だからと月読の目の届かない所で好き放題してたことが暴露された瞬間であった。


「鈿女、お前は子供の前でいったい何をしてるんだ」


 呆れ声で月讀にお叱りを賜り、表面上は粛々と受け取った。



「じゃあ、この喋ってるハクトは……」


 じっと固まっていた輝が、情報の処理を終えたのか動き出しハクトを指差して尋ねる。


「白兎はわしの名前だ」

「捻りがないな」

「やかましいわ、このガキが」


 もとより輝に好意を見せない兎だったが、言葉を発せられる状況となると、より顕著となった。


「白兎のことは二人とも知ってると思うよ。因幡の白兎。あの兎」

「だからそんな尊大な態度なのか」

「ほおう? ぶちのめされたいと見た」


 白兎は拳を構えて二、三発、空を切ってみせる。

 その人間的な動きが、やはりただの兔ではない異様なものに見えた。じっと静かにしていれば兔のフォルム由来のかわいさがあったものの、それも吹き飛んでゆく。


「じゃあ、あれか? 僕らから餌を受け取らなかったのは人間にペット扱いされるのが嫌だったと?」

「その餌という言い方も気に入らん」

「すれ違い様に足を踏みつけていくのは?」

「憂さ晴らしだ」

「陰湿兔……」


 神話の生物と聞いても、生意気なことには変わらない。いや、人間によるか弱い動物への一方的な虐待にあたらないとわかり、輝としては状況はやや好転したといえる。



「光のその力だが、それは神の、というより私の力の一部だな」


 月讀が光の異能について語る。


「父さんの…… 父さんとは呼ばない方が良いですか?」

「そうだな。"父上"の方がそれらしく聞こえるかもな。ふっ、まあ気にするな。今まで通りでいい」


 月讀は二人の息子を見て優しく告げた。



「その水は、変若水だな」

「おちみず?」

「若返りの水だよ。私はそれを生み出すことができる」


 若変水、若返りの水。記紀にその記述はないが昔より月讀尊との関係を信じられてきた霊水。古くは万葉集にも月讀より若変水を賜りたいとの歌がいくつか詠まれている。


 光は体育のあと、生成した水を飲むと疲れが抜け、身体が軽くなった事を思い出した。

 霊水を生み出す神力を冷水機代わりにしたのは、なんとも贅沢な仕草だった。



「では、なぜ君たちが私の子となったのか。なぜ、光が私の力を受け継いでいるのか話そう」


 月讀が語り出す。


「私と君たちの母親・沙織との出会いはおよそ四十年前だ。幼い頃、沙織は桜島の麓に住んでいてね。よく月讀神社に遊びに来ていたんだ。」


 一言で言えば、沙織は愛される星のもとに生まれた人であった。この世界には時折、そういった人間が生まれてくる。その内の一人。

 愛されて育った人間は人の愛し方を知っている。

 少女は初めて見る大人相手でも物怖じせず、元気に挨拶してまわる明るく溌剌な子であった。


 それは、神社に顕現した月讀に対してもそうだった。通常、人が知覚することができない、気配を隠して歩いていた月讀に対して。

 沙織の特別な点をあげるならば、第六感の鋭さにあった。


 始めは、元気な氏子がいるのは頼もしい限りと眺めていたのだが、無邪気な少女は今日何があった等と話かけてくる。

 中津国の様子を聞くことも仕事の内だろうと、官僚的に会話に付き合っていた。しかし何度も会話を重ねる内に、いつの間にやら沙織と話すことは仕事ではなく個人的な楽しみになっていった。

 いつしか月讀は、自分も沙織の愛の魅了にかかってしまったのだと気づき笑った。悪い気分ではなかった。

 

 月讀はその成長を見届けた。

 沙織は部活の大会や、受験、就職活動、そして恋愛。大事なイベントの前には神社を訪れ、願掛けをしていった。私の挑戦を見守ってほしいと。

 お礼参りに訪れ、宣言通りに成し遂げたことを聞くとやはり嬉しく思った。ともに祀られる木花咲耶姫などは、結婚の報告を聞いた際はキャッキャとはしゃいでいた。

 第一子、輝の誕生を聞いた時は喜び。そして、光をお腹に残し、夫が海難事故で死んだと伝え聞いた時は悲しんだ。



「また、話は今から二十年前に遡るんだが」


 オリンポスから高天原に一通の手紙が届く。

 人類が神々に対し侵攻してきたので、ともに神罰を下そうという要請だった。


 これはオリンポスで起きた一つの事件に起因する。ある時、ヘスティアが気力をなくし部屋を出ることが少なくなったのだ。元来、のんびり屋であったため、表に出ないのはそうおかしなことではないのだが、ネガティブな言動を取るので他の神々が訝しんだ。


 調べてみると、ヘスティアに人間の悪意によって生み出された瘴気が巣くっていることがわかった。人間達が自身の不幸を嘆く、怨嗟の感情が神に向いていると。

 これを聞いた、ゼウスは人間からの侵攻だと考えた。神を呪うなど天に仇なす大罪であると。


 神々の評議会が開かれ、エジプト、北欧、インド、アステカ、日本、世界中の神々が集った。

 ゼウスがこの神罰に賛同を求める。

 神々は神罰には否定的であったが、その結論に到った経緯を聞き、その脅威を理解した。


 ヘスティアの信仰者、神殿跡地・女神像付近の人々が同じように堕落し始めたのである。

 堕落した人々によって、悪意は増幅され、作られた瘴気がさらに女神を蝕む。

 ヘスティアを解呪しようと近づけば、その神に瘴気が乗り移り、今度はその神の信仰者を堕落させた。

 試行を重ね、なんとかオリンポスから瘴気を追い出すことには成功したが随分と手こずらされたゼウスはご立腹であった。


 しかし他の神々に、そもそも人間に悪意が蔓延ったのは、貴殿が徒にパンドラに箱を渡したからだ等と言われれば黙るしかない。

 結局、人間への神罰は行われなかったが、これ以上の被害拡大を防ぐべく努めることとなった。


 評議会から天照と建御雷が戻り、平穏に時が過ぎ、怨念について忘れかけた頃、その脅威を実感することとなった。

 日本においても、人の世に悪意が蔓延ったのである。

 見せた感情は怒り。ヘスティアを蝕んだ怠惰の怨念よりも凶暴性を発揮した。

 街には、罵りあう声が響き、理性が鈍り、殴り合いへのハードルが下がった。

 この光景は日本各地で見られた。


 では、どの神が怨念に取り憑かれたのか。

 伊弉冉尊であった。

 怒りの感情に囚われた女神は、地上に怨念を集め生み出した魔物を放つ。それは狼、猿、鼬といった憤怒を表す動物達を模していた。

 膂力のある神々はこれらを祓うべく奔走した。これを鎮めた後は、神々に悪意が向かぬよう襲われた記憶を消した。オリンポスから取り寄せた、死後転生前に記憶を消すために飲むというレーテの川の水を希釈し霧状にして街に撒いたのである。


「だから災害の結果だけが残る通り魔事件が起きるんだね」

「その通り」


 日本の至る所に神社はある。近くで異変があればすぐにわかる。


 月讀が魔物を祓っている時、別の場所で沙織は子供達とともに魔物に襲われていた。三歳の光を抱え上げ、九歳の輝の手を引き走る。自身の怪我など気にも留めずにひたすら我が子の安全を思う。

 他の神に報告を受け、駆けつけた時、沙織は地に伏して虫の息だった。月讀の姿を見かけると血にまみれた光を差し出す。


「この子達をお願いします、神様」


 そう言って二人の子に笑みを贈り、沙織は動かなくなった。自分から神だとも月讀だとも名乗ったことはないが、十年、二十年と変わらない姿に何か感じていたのだろうか。

 最期まで子供達ををじっと見つめた沙織の目蓋をそっと閉じてやった。


 全てのものに愛された少女は不幸にも愛された。



「おじさん、光が!」


 輝が月讀の服を握り締めて訴える。身を挺して幼子を守ろうとした母だったが怪物の暴力すべてを防ぐことは叶わなかった。

 月讀は片膝をつき、光を抱きかかえ戸惑いの表情を浮かべる。

 幼い身体から止めどなく流れる血。心の内に忌避感を覚える。神は穢れを嫌う。

 もはや人の力では助けることは適わないであろうこの子をここに置き。この場を離れることもできる。


 しかし、この子の母の最期の願いを聞いた。しかと聞き届けた。人の力では助けることは適わなくても、命を救う方法はある。


 しかしそれは、幸にも不幸にも繋がる道だった。


 息絶え絶えの弟を、涙を浮かべ沈痛な面持ちで見つめる兄。命の灯火が今にも消えそうな瞬間に、子らに浮かべた母の微笑みが頭をよぎる。


 静かに息を吐き、覚悟を決めた。

 右腕に光の頭を乗せ、その手に小刀を持つ。

 そして左の掌に一筋の傷線を入れた。

 傷口から輝きを放つ血が泉のごとく溢れる。そのまま手を器にして血を溜める。

 光を抱え起こし、右腕で頭を支え、左手から流れる血を飲ませた。


「そして、私の血が身体中に行き渡り、溢れる生命力が傷を塞いだんだ。その後は、私や鈿女、白兎が時折力を吸って身体がさらに作り変わるのを防いでいたんだが…… 怨念から生み出された鬼に襲われた際、酷い怪我をしたそうだな。防衛反応で血が活性化したようだ。私の権能の一部が現れたらしい」

「そんなことが」

「覚えてなかった。母さんの最後の思い出なのに……」


 光も輝も初めて聞く母の最期にしんみりとしてしまった。


「さあ、この話はここでおしまいだ。早く寝なさい」

「いや、そんな絵本の読み聞かせの後みたいな。無理だよ、寝れないよ」


 輝が月讀にもの申した。


「その後は、母上の神殿を注連縄で囲み封印した。それで魔物が地上に現れるのは一旦落ち着いた」

「最近、通り魔事件増えてるじゃないか」

「ああ、そうだ。この数ヶ月てんてこまいだ」


 月讀はくたびれたように溜息を吐いた。


 ……。


「月讀様、変若水を見てなにやら嬉しそうでしたな」


 光が水球を作り出した時の月讀の表情を、白兎は見逃さなかった。


「もともと二人のこと可愛がっていたけど、自分の能力を子供が使うのを見て、より実感したのかしらね。自分の子供だって」

「ほう、では兄の方にも血を与えて戦力を増やしましょうぞ」

「簡単に言わないでよ。きっとこれから、光には神の気配に気づいた魔物共が寄ってくるはずよ」


 姉の憂いは絶えなかった。

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