六 狼

 ばしゃり。


「うぇっ」


 光が目を覚ました時、寝間着がびっしょりと濡れていた。

 寝汗が酷かったのかとも思ったが、それにしてはべたつかずさっぱりとした感覚があった。

 火照りも気怠さも一新し、若返ったかのような快適な気分であった。とはいえ、もとより十六歳なのでわずかな差であったのだが、普段よりも身体が軽く感じられた。


(さて、シャワーですかね)



「よお光! 冴えない顔してるな。ひょっとして、ひっかぶったか?」


 一時間目、朝っぱらから行われる体育を前に、教室内ではクラスメイト達が体育服に着替えている。憂鬱ながら着替えようとする光に、何がそんなに楽しいのかすこぶる元気な啓介が声をかけた。

 ひっかぶる。つまり、漏らしでもしたかとからかっている。

 怠い絡みだ。いくつだと思っているのだろうか。高校生だぞと言ってやろうとしたが、


「……そんな訳ないだろ?」


 今朝のベッドを思い出す。

 いや、決して啓介の言う如く、ひっかぶった訳ではないとは思うが、びしょびしょに濡れていたのは事実。

 無臭であったし、清涼感もあった。しかし、原因不明ということは可能性はゼロとも言い難い。

 一瞬返事に窮したとしても致し方ないことであった。


「ん、どした?」

「なんでもないよ」

「ええ? お前まさか高校生にもなって……」

「違うわ! ふっ、まあ冗談は置いといて、ん?」

「……」


 騒がしかった声が急に聞こえなくなる。

 何事かと見てみれば、啓介は目の前で、髪も制服も濡らして立っていた。


「君、なんでそんな濡れてんの?」

「冗談じゃん、水かけることある?」

「え、いや僕なんもしてないけど」

「現に濡れてるじゃん。自分でやったとでも?」

「いやでも水なんて持ってないけど」


 やった、やってないの水掛け論が始まった。


「なんだ、お前。じゃああれだ能力にでも目覚めたか?」

「水を生成する能力? へえ、じゃあこれでもくらえや! ……おーっと?」

「……」


 突如として、現れた水が再び啓介を襲う。

 前髪から滴る水滴が仏頂面の前を落ちていく。


「ふっ、ほっ…… 何これ!? なんか目覚めてんだけど!」


 掌の上に、水球が浮いている。振り払うと、投げ出されたように飛んでいった。自身に生じた異能に光は混乱し、慌てふためく。


「うるさい。うるさい! とりあえずだ」

「うん」

「謝れ」

「ごめんね」


─────


「よっしゃこい!」


 一時間目、体育。本日のメニューはソフトボール。キャッチボールから始まった。


(重いし、持ちにくいし、投げにくいんだよなあ)


 光は運動はどちらかと言えば得意ではない。まして帰宅部、運動部で常日頃から身体を鍛えている連中と一緒に受ける体育では顕著にそれが窺える。

 器械運動や武道といった個人競技ならばと、僅かに張り合いを見せるのだが、それでもやはりスポーツ全般、自他ともに認めるポンコツぶりであった。

 なかでも特に苦手なのが球技。体力測定のハンドボール投げでは見事クラス最下位を記録していた。

 あまり楽しいものではないが、授業である以上ある程度真面目に取り組まなければならない。

 振りかぶり、投げた。


「ふっ!」

「わあ、どこ投げてんだ!」


 肩慣らしの筈が大暴投した。


「ノーバンであんなとこまで?」


 普段であれば、投げると同時に肩に痛みが走り、ボールも相手まで届かず転がってきたものを拾わせることになっていた。

 やはり今日は朝から身体が軽い。



「次は天之だ。もっと前でいいぞ」

 クラスメイトもひと月あれば誰が運動が得意で誰がそうでないかは自ずとわかってくる。当然、光は後者である。守備も手前で守るのは妥当な帰結。


「とお!」

「は!? ボールいったぞ、気をつけろ!」

「きゃっ」「危なっ!」


 打ったボールがファールラインを大きく越えて女子がハンドボールを行っているコートまで飛んでいった。


「ごめーん!」

「ちょっと下がるか」


 守備が下がって、次の球。


「きゃっ」


 その次の球。


「ちょっと、いい加減にしてよ!」


 グラウンドを仕切る防球ネットに打球を叩きつけて、奥にいた内気な女子生徒を驚かしたり、またもハンドボールコートに乱入させ試合を邪魔したりと散々な結果をもたらし申し訳なく思う。


「なあんでえ……?」


 次こそ慎重に打つべく構える。


「ふっ!」

「……アウト!」


 高く空に吸い込まれたボールはピッチャーフライに終わった。


 



「はー、あっつ」


 授業終わり、校庭の端にある冷水機、及び水道の蛇口に男女問わず級友が群がる。

 自宅では浄水器を通った水でなければ気になる生徒も、体育の後ではそんなこと気にしていられない。学校の古い水道管を通ってきた水だろうとお構いなしだ。


「はあ、疲れた。光、水いいのか?」


 喉の渇きを存分に癒した啓介が、水道に近づこうとしない光に声をかけた。


「……ごくん。いま飲んでる」


 なんのことかと眉をひそめる啓介だったが、授業前の事を思い出したのだろうか、はっと表情を変えた。


「そうだ、お前! なんで水が…… どっから出てんだ?」

「わかんない。なんとなく指先から。ちなみに水道水よりおいしい」

「うへえ、大丈夫かよ」


 怪訝な顔をするので、光は水を啓介の口に放り込んでやった。


「むぐっ! ……確かに。飲み心地も悪くない」


 運動で火照った身体がリフレッシュした。


─────


「水と、筋力と……他に変わった所は?」


 自転車を押す啓介と並んで歩き、光は帰宅の途についた。


「んん? 若干視力が良くなった気がしないでもないけど、そもそもそんなに悪くなかったからなあ」

「いつからだ?」

「気づいたのは君にぶちまけてから。いやでも、起きた時びしょ濡れだったから、もしかしたら寝てる間に」

「なんだよ、どうやったんだよ。お前だけずりいなあ」

「いやあ、こんな能力あった所でなあ…… ごくん」

「これ見よがしに飲んでんじゃねえよ!」


 目の前で異能を自慢され、啓介が小突く。


「ん?」


 不意に光は足を止めた。何かを探るような顔つきで辺りを見回す。


「どうした?」


 心がなんとなくざわつくようだった。その正体はわからなかったが心地の良いものではないことは確かであった。


「なーんか嫌な感じ。自分の悪口聞いちゃったみたいな」

「そんなことが?」

「いや、ないけど」


 ジトリと見つめてくる啓介を尻目に耳を澄ませる。


「ん~、いやわからん」


 ざわめきの元を探す光の横で啓介が駄弁を続ける。


「まあいいや、お前、どっか蜘蛛に噛まれた?」

「糸は出せないみたいだけど」


 ぴゅっと水を射出してみせる。


「じゃあ、水蜘蛛だ」

「忍術がどうやって噛みつくんだよ」

「ああ、水蜘蛛ってあれか。水の上歩くやつ」


 一人、納得の表情を浮かべる啓介を突然、光が手で制した。


「正体がわかったぞ。あの視線を感じていたんだ」


 普段通学路では目にすることのなかった、異物を発見した。


「なんだ、ストーカーでもいたか?」

「遠からずってとこ、あれだ」

「あら、かわいい」


 光が指さす方向、電柱の影に膝丈に満たないほどの黒色の犬が見えた。鋭い目つきでこちらを見つめている。


「まあ、見た目は悪くないんだけど、どうも嫌な感じがする」

「ふむ、めちゃくちゃ唸りだしたな。何したんだよお前」

「身に覚えがない」

「おい、こいつリードついてないぞ、俺離れていいか?」


 啓介が距離を取ろうとする。


「いやいや、二対一の方が良い。相手は動物だ、分の悪い喧嘩は仕掛けてこないだろ」


 実際のところどうなのかは光は知らなかったが、一人で狂犬に対峙したくなかったので尤もらしいことを言って説得した。

 一理あり、離れたとて自身に向かって来ないとも限らない。啓介はその場に留まった。

 さて、二人して黒色の犬に向き直り、視線を交わす。


「ほら、あっちいけ」

「キャン! キャン!」

「めっちゃ吠えだした。やる気かこいつ」

「ふん、お前なんざ怖くねえやい、ちび助め」


 子犬程度、未成年といえど大人の仲間入りをしつつある高校生男子が二人いればなんとかなる。

 勇ましい言葉を発した直後、光に悪寒が走った。目の前の犬とは比べものにならない身の危険を感じる。


「啓介…… ちょっと、後ろ見てくんない?」

「ん? うお!?」


 そこには、中型バイク程の大きさの獣がこちらの様子を伺っていた。


「ああ、お迎えが来たみたいだな」

「あの子の?」

「いや、俺らの」


 光も、おそるおそる振り返る。そして鼓動が高まる。

 天へのお迎え。いや、容貌からは地獄からのお迎えのように思えた。


「やっぱ、怖いかも」 


 二体の獣は、唸るでもなく、吠えるでもなく、静かに光の様子を窺っている。姿勢は低く、いつでも飛びかかれる体勢で。真っ黒の毛並みはボサボサでそれがまた厳めしく見える。この大きさは、ひょっとして犬ではなく狼なんじゃなかろうかと冷や汗をかく。どちらにしても関係なかった。犬だろうが狼だろうが危機的状況に変わりはない。


「啓介、狼に会った時の対処法知ってる?」

「知ってると思うか? なんで街中で狼に出くわすんだよ」

「だよね。あの~僕ら、ご子息に何かしたわけじゃなくてですね。ただちょっと、ちょーっと驚かせちゃったのかなぁなんて。ごめんなさいね、今すぐ消えますんで」


 子狼に近づかぬよう端に寄りつつ前へ進む。


「グルルル……」

「ごめんね、おちびちゃん。気に障っちゃったのかな」


 跳ねる心臓を押さえつつ軽口を言ってみる。

 啓介は正面の子狼を、光は後方の二体を警戒しながら足を進める。


「なあ光。あいつらずっと着いてくるぞ」

「うーん、家の中入ったら安全だと思うかい? あの化け物に我が家を知られるのは御免被りたいところなんだけど」

「どうするよ、走って巻いてみるか?」

「急な動きがよくないだろう事は僕にもわかるけどね。うおっ!?」


 思案中、何かに足を取られ躓き倒れた。


「あ、ごめん」


 その刹那、待っていたと言わんばかりに黒狼が光に飛びかかった。


「ぐうう」


 首筋に向かう牙を左腕を犠牲に食い止める。

 ばたばたと藻掻くが、黒狼は一向に離れない。


「ぐあっ」


 もう一頭が右脚の太腿に牙を突き立てた。


「くっ、このっ……離せ!」

「キャヒン」


 痛みに耐えつつ、足元の一頭を蹴り飛ばした。

 そして、光の胸を爪で抉りながら、腕を噛み砕かんとする目の前の一頭。その喉元を殴りつけることで引き離す。


「はあ、はあ」


 立ち上がり、肩で息をする。狼共は先ほどの反撃に警戒し、少し距離を取る。

 ふと、啓介はどうしたかと目をやると。


(あいつ逃げやがった)


 遠くに走り去る後ろ姿が見えた。

 その手前では子狼がこちらに跳びかかる。光は精一杯の力を込めて蹴りつけ近隣の塀に叩きつけた。子狼は少しの悲鳴を上げたきり、動かなくなった。

 空の茜色がなりを潜め始める。もう日が沈もうとしている。

 迫り来る黒狼に対して学生鞄を振り回し近づかせまいと抵抗する。それでも、防ぎきれず光の身体には傷が増えていった。

 とどめを刺すべく、二頭同時に跳びかかる。

 もう耐えきれないかと光が諦めたその時、日が沈み、


 夜が訪れた。


 光は右から迫る狼の前足を左手で掴み、振り上げて、自分の後ろの地面に叩きつけた。もう一頭は左腕を振り下ろした反動のままに、右脚を叩き込んだ。

 蹴り飛ばされた黒狼は塀を破壊し、庭先へお邪魔することとなった。

 一方地面に横たわる一頭は、フラつきながらも立ち上がろうとする。その姿に危機感を覚えた光は、これでもかと殴る蹴るの暴行を加え、黙らせる事に成功した。

 静かになった狼は、驚くことに黒い煙となって姿を消した。

 見渡すと、子狼の姿はなく、庭先へ飛んだ狼も煙へと変わっていた。


「やったか?」


 辺りは静寂に包まれた。

 化け物に勝利したという事実が光の胸を躍らせる。息を整えつつ、生を実感していると自然と笑みがこぼれた。身体中怪我だらけだが、今は痛みよりも高揚感が優っていた。

 脳内で歓喜の渦が巻き起こっている中、曲がり角から啓介が走ってこちらに向かってきた。


「啓介、お前よくも」

「いや、あれ! あれ!」


 啓介に続いて、七人乗り自家用車ほどの大きさの狼が唸り声をあげつつ歩いてくる。


「さっきのは、お兄ちゃんお姉ちゃんでしたか」

「もう無理だ。こんなの無理だ」


 啓介にしがみつかれ、動けない光。

 野太く吠え、襲いかからんとする大狼。

 絶望の中で足掻こうしたその時、不意に大狼の首が落ちた。

 何が起きたのかわからなかった。大狼の巨体が煙と化して消える、その煙の中から歩いてくる人物に驚きと安堵を覚えた。


「父さん」

「大丈夫か、光」

「うん……うっ」


 家族を前にして安堵すると、身体が怪我の痛みをはっきりと思い出し、またも意識を手放すこととなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る