四 小兎
── 光の部屋
光は自室のベッドで目を覚ました。
穏やかな目覚めだった。
部屋着にしている甚兵衛を身に纏い、昼寝でもした後のよう。
挫いた足の痛みも、血を流していたはずの掌の傷も無くなっていた。
ハンガーに掛けられた制服。その下にはリュックサックと校章のついた学生鞄。
おかしな所はない。そして帰宅時の記憶もない。
学校を出たところの記憶はあるが、帰り着いた覚えがなかった。
これはどうしたことかと考える。
帰宅途中の記憶。鬼に殺されかけたことは覚えている。しかし、記憶の中では怪我をしたが、この身体に傷はない。
この相違が、夢か現か、光を困惑させる。
夢にしては、はっきりとしている記憶を辿る。
(姉さん、意外と力持ちだったな……)
記憶の途切れ際、光は卯月の腕の中にいた。
華奢というほどでもないが、その細い腕で男子高校生を苦もなく抱えていた。
やはり夢ではないかと考えていると、部屋の中で微かに音がする。
「ん?」
リュックサックが揺れていた。
なんだろうと思い、ファスナーを開け中身を取り出していく。中には、体育で使ったハーフパンツ、学生鞄に入りきらなかった教科書・ノート類、そして……小さな兎が入っていた。
「君は……」
どうやら夢は夢でなかったらしい。
小兎は、出会ったときも物怖じしない豪胆な様子だったが、その性格は今も遺憾なく発揮され、初めての場所でも落ち着いた様子だった。
「ちゃっかりさんだったか」
あの騒ぎの中で、そこが一番安全だと判断したのだろうか。いつの間にやら姿を消した小兎はリュックサックに潜り込んで身を潜めていたのだった。
連れ帰ってしまったこの小兎をさてどうしようかと光は苦笑いを浮かべた。
……。
廊下を挟んで向かいの部屋から卯月の声がわずかに漏れる。
『……怪我に反応して既に治癒が始まっておりました。そろそろ抑えは効かなくなるやもしれませんな』
『あちゃ~、どうしましょう。もう止めたのよね?』
『ええ、そうお望みだと思いましたのでね。力を最低限残して治療しましたよ』
『そう。なら様子を見ましょう。ちゃんとレーテの効果があるといいのだけど……お父様には怒られるかしら』
『でしょうなあ。しかし、常にわし等がついていられる訳ではないでしょう。時期が来たのですよ』
『……嬉しそうね? 姉としてはずっと平穏に暮らしてほしいのだけど』
─────
── 鹿児島市 上町
「えっ光ちゃん現場にいたの!? 怪我してない?」
「なんとかね」
翌日、登校中の話題は昨日の事件についてであった。
原因不明の破壊痕、交通事故、そして死傷者。通り魔事件だと世間で報道された。
(みんな何があったか覚えていないんだ。これが通り魔事件か)
自分は、鬼を目撃し襲われた事を覚えているが、世間はさっぱりと忘れてしまったようだった。
「彩ちゃんは無事に帰れた?」
「うん、問題なく。ちょっと時間がずれてたみたい」
「そっか、良かった」
「でも、四人亡くなったって聞いたし、うちの病院にも何人か運ばれたらしいの。お父さんも昨日は帰ってこなかったし……無事で良かった」
彩音は光の目をじっと見つめてそう告げる。
光は何も答えず、ただ微笑みを返した。
(無事……だったかなあ)
事実でもあり、嘘でもある回答を、光は少しだけ後ろめたく思った。
夕方。
「光ちゃん、ありがとね。最近物騒だから、やっぱり心配でね。しばらく一緒に帰ってきてくれると嬉しいなぁ」
「いやそんな、気にしないで」
迫田家の前で、二人が別れようとすると彩音の母・
家が近所とあって、一緒に登校することは多いものの、彩音の部活の関係上、下校はバラバラになるのが常だった。
しかし、危ないからしばらく光と帰ってきなさいと送り出されたのが今朝のこと。
そして佳織里が心配しているのは愛娘のことだけではない。
佳織里は、光の母とは幼馴染みだった。その忘れ形見である輝と光についても我が子と同じくらい気にかけていた。
子供達が安全に帰ってきてくれることを望む。
「じゃあ、これで」
「ああ、待って。これ持ってって」
光は紙袋を受け取り、ちらりと中を覗くとお菓子が入っている。
光の方も自分の親と同等の信頼を以て遠慮無く受け取った。
「わあ、ありがとうございます。じゃあまた明日ね」
彩音に別れを告げて、迫田家の玄関を離れる。そして、右隣の家の玄関の戸をくぐる。
「ただいま」
もらったお菓子を三等分し、輝と卯月の分をリビングのテーブルに置く。しかし、卯月は出張中でいないことを思い出し、それを折半して、自分の分を持って自室に上がる。
さて、いつもの如く制服を雑に片し、少しばかり自室を掃除していると小兎が顔を出した。
「やあ、快適だったようだねえ? 今日からは檻の中だぞ」
部屋を散らかした犯人はちょこんと首を傾げた。
……。
「君の先輩を紹介しよう」
既に一羽いるからこそ、新入りの餌の用意も容易であった。
ハクトの縄張り意識が極端に強ければ、以降なるべく顔を合わせないように配慮しなければならない。
先住民との顔合わせはあっけなく終わった。
ハクトは新しく現れた小兎にはじめ、驚いた顔を見せたが、小兎の周囲を歩き回り、眺めたかと思えば、光の足をひと撫でしてケージに戻っていった。
小兎も自分より身体の大きな兎に四方八方から見つめられても気にした様子もない。
ケージの前でしゃがみ込み、ハクトに話しかける。
「拾った子でね。ずっといるのか、一時の間かわからないけど仲良くしてくれよ」
ハクトはそっぽをむいた。
───
── 鹿児島市 上町
後日、光は将史とともに近所の交番を訪ねた。
「ありがとう、助かったよ」
「いや、構わないよ」
人に慣れた兎、ペットであったことも考えて交番に届け出た。拾得物届を記入し、正式に家で小兎を預かることとなった。捨て犬を保護したことのある将史の知識が役に立つ。
「で、どうやって拾ったって?」
光は、小兎と出会った経緯を将史に再度説明する。
「まず、野生の小兎が現れるだろ。そして晴れ、所により自動車。そんでもって鬼に勝負を挑まれる。目の前がまっくらになって、気づいたら僕の部屋にいて、リュックに入ってた小兎と再会」
「それで、その事を覚えてる人は他にいない、と?」
「うん。この子が手元にいるんだ。夢じゃあない筈だけど、他の誰も覚えていないってのはなかなか、頭がおかしくなりそうだ」
ため息交じりに語る光に小兎は小首を傾げる。
「卯月さんはなんて?」
「話してない、家にいないんだ。兄さん曰く出張中だろって」
「そっか、いやしかし通り魔事件ってのは見えない何かによる災害かと考えていたけど、一連の事件の後に記憶が消されたものだったか」
「でも、誰がどうやって」
「うーん、人々の記憶から消える……例えば、その魔物が地球外生命体で、メンインブラックが世間から記憶を消した、とか」
「なるほど、トミー・リー・ジョーンズがよく来日するわけだ」
「いや、映画だけの話じゃないんだ。もともとメンインブラックは都市伝説でね、それをもとに映画ができたんだ。都市伝説のメンインブラックは日本でも目撃例があるそうだよ」
「そうなの? 杜撰にもここに記憶の消し忘れがいるからね。そのエージェントは始末書もんだね」
とぼけた調子の冗談に将史は軽く笑った。
「まあ、聞いてくれて良かった。未だに、もやもやしてるけど」
「それは仕方ないよ。世間から事件の記憶が消えた理由、分かったら教えて。何か世界の秘密を知れそうだ」
将史は口角を上げてニッと笑う。
将史が様々な話題に詳しいのは、その知的好奇心の高さにあった。
……。
小兎は『こはく』と名付けられた。
名付けというのは兄弟姉妹間である種、統一性を持たせることがある。天之家のペットも同様で、兄妹ではないが先住兎に合わせて毛色にちなんで名付けられた。
琥珀色に似た鮮やかなオレンジの毛並みの小兎。
観察してみると、人に興味のない様であったり、そのおとなしさ、ふてぶてしさがどことなくハクトに似ていた。並べてみると、こはくはハクトの仕草を真似たりもする。その様子はまるで、小さなハクトであった。
ただ、小さい身体から発するその態度はハクトと違い嫌味を感じず大変にかわいらしかった。
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