三 鬼

 ゴールデンウィーク明け。普段は市電を用いて登下校する光であったが、気分を変えて、歩いて帰宅していた。


(答え写しただろうって、決めつけなくてもいいだろうに)


 宿題に関して英語教師に謂われのない叱責を受けた光。晴れやかな気分とは言えなかった。

 教師曰く、解答を写したのではないかと。

 光は、昔から英語の成績が中途半端に良かった。話せる訳ではないが、なんとなく文章が読め、なんとなく言ってることがわかるのだ。

 しかし文型を説明してみせろと言われてしまえば、授業中に夢現を彷徨っていた光は閉口するしかなく、ほら見ろと言わんばかりの叱責を享受した。

 落ち込んだ気持ちのまま、車内で見ず知らずの人と二〇分ほどをともに過ごすのは耐えられず、一人になりたかった。

 鶴丸城の堀を抜けて、信号が変わるのを待つ。


「写真撮ったら、一旦ホテルに荷物置きにいこ」「うん、ちょっと疲れちゃったね」「あれ? なんだろう? ううん、なんか目も疲れてるのかな」


 観光客だろうか、若い女性二人の声が耳に入る。晴天に恵まれて、観光日和だったろう。

 しかしまあ、こちらとしては気が滅入っているので楽しげな二人から目をそらす。

 すると、ふと視界の端にオレンジの影が見えた。


(猫かな? こんな大通りで珍しい)


 近づいてみると、そこには小兎がいた。


(うさぎ……城山から? でも城山にうさぎなんていたかな?)


 鹿児島市の中心にあった鶴丸城。その背後には緑生い茂る城山がある。光も度々、猿を見ただの狸を見ただのと動物の目撃情報を耳にする自然あふれる山である。しかし、兔についての情報は聞いたことがなかった。

 光は小兎まであと三歩の所まで近づき、屈んだ。


「おいで、おいで~」


 期待半分、冗談半分で声をかけてみる。

 すると、どうだろう。小兎が小さく跳ねながら目の前まで近づいてきた。

 まさか本当にくるとは、光は驚嘆した。

 小兎は、クンクンと光の制服のズボンの匂いを嗅いでいる。


「怖いもの知らずだね。簡単に人に近づいちゃって。こんな車通りの多いとこにいるし」


 小兎を持ち上げて抱いてみる。


「うちにもね、うさぎがいるんだよ。真っ白い毛色でね。ハクトっていうんだ」


 腕の中で、小兎はひくひくと鼻を動かす。


「君もうちに来るかい? こんな危ないとこにいるよりはましだよ」



 そう言うや否や、横転しながら飛んできた車が光の背中を掠めた。



「危なっ!! はあ!? 何これ!」


 驚きに振り返ると、車が次々と四方に飛んでいくのが見えた。遅れて悲鳴も聞こえてくる。

 ひしゃげた自動車がいくつも転がっており、大規模な交通事故が起きたのだと朧気に思った。

 『ダンッ』と大きな音が鳴る。音の出所に向き直ると再度、自動車が天井を向けてこちらに突っ込んできている。


「おわっ!?」


 すぐさま腕からこぼれ落ちた小兎を再度拾い上げて、転がり込むようにその場を離れた。

 先程まで自分がいた所に、スクラップとなった自動車が転がっている事実に心臓が早鐘を打つ。

 乗用車、トラック、二輪車が四方八歩へ飛んでいくその中心には化け物がいた。豪腕を振るって、道路を破壊し、数トンある鉄の塊を投げ飛ばす。

 筋骨隆々、肌は赤黒く二つの角を蓄え、瘴気を発する、文字通り「鬼」がそこにいた。


 『グオオオオォォォ』と吠えた鬼は、城山入口と書かれた信号機の柱をへし折り振り回す。絡み取られた人は、身体をくの字に曲げて、ふき飛ばされている。

 命を弄ぶように人々を追いかけ、電柱を叩きつけた後、槍投げの要領で視界に入った建物に投擲し、雄叫びをあげる。

 この化け物が、倫理観を持ち合わせず、人の理にも縛られないことを、二階の窓に信号機の突き刺さった鹿児島地裁が物語る。


 惨状を目にし、光はしばし立ちすくんでいた。

 スクリーンの向こうにしか見たことのないような景色なのに、肌を襲う砂埃が、擦り傷の痛みが、お前もキャストの一人だと訴える。

 逃げ惑う人々の喧騒の中で、女性の甲高い悲鳴が一際大きく響いた時、立ちすくんでいる場合ではないと我に返った。  

 逃げなくては。鬼の様子を確認しつつ走り出した。



「助けて……」



 ほんの二十メートル程で足を止められた。

 ひっくり返り、屋根のつぶれた自動車の下敷きになった女性に呼び止められてしまった。

 ちらりと振り返る。今も荒れ狂う鬼が、いつこちらを標的にするかわからない。

 光は再び走り出した。


「待って、行かないで……」


 他人のことなど知ったことか、我が身がかわいかった。


(ここにいたら僕も危ないんだ……!)


 出来るだけ何も考えないように努めて疾走する。しかし、先程の女性の力ない声が頭でこだまする。



「誰か、助けて……」


 意識が朦朧として動けない女性は、ただ声をあげ続けるしかなかった。

 動こうにも肋が折れたのか、痛みでまともに動けない。

 辛くて、苦しくて仕方がなかった。


「大丈夫ですか?」


 光は尋ねた。

 どうしても女性の助けを求める声が頭から離れなかった。

 危険だと理解していたが、戻ってきてしまった。

 そして、絶対に大丈夫ではないだろうと思いつつも、他にかける言葉がわからずにそう声をかけた。


「助け…な……が」


 息絶え絶えの返事を聞き、女性を車の下から引き摺り出した。

「うう……助け…」


 腕を肩にまわして身体を支える。


「……」

「っ!?」


  すぐにでもこの場を離れたかったのに、耳元で囁かれた女性の嘆願に、光は頭を悩ませた。

『助けて、車の中に子供が』



「もう、いい加減にしてよ」


 言っても何も変わりやしないが、決死の思いで足を止め助けだしたのだ。それなのに、まだ行くなと言う。恨み節を口にしてやらねば気が済まなかった。

 女性を車の側に横たわらせ、跪いてひび割れた車窓を覗いた。

 運転席よりも比較的マシな被害である後部座席。反転したチャイルドシートに確かに子供が乗っていた。気を失い、ぐったりとしている。


「ん~、もう!」


 くしゃりと髪をかき乱し、覚悟を決めた。

 窓を叩き割って身を車内に乗り入れる。


「痛っ」


 割れたガラス片で手をざくりと切り、血が噴き出す。痛みに耐えながらなんとかチャイルドシートからベルトをはずして怪我をしないように慎重に車外に出した。

 ガラス片や瓦礫で怪我をしないように、通学に使うリュックサックから体育服を取り出して地面に敷きその上に子供を寝かせる。

 女性はすぐに、子供の手を取って握りしめた。


 すぐにでも逃げたかったのに時間を取られた。光はすぐさま鬼の様子を確認した。

 暴れ回っている鬼は、ふと、振り上げた拳を下ろし周囲のにおいを嗅ぎ始める、そしてピタリと止まった。

 目が合った。

 ゆうに一〇〇メートルは離れており、決して瞳など見えはしない。しかし、わかってしまった。


『グオオオォォォ!!!!』


 獲物を見つけた鬼は近くに落ちている瓦礫を蹴り上げながら猛進する。

 光は親子の元を離れて走った。


(ああ、関わらなければよかった。放っておけばよかった)


 良心に従った結果を悔やんだ。

 身を隠すべく、近くの建物へと駆け込む。

 旧鹿児島県庁舎を舞台にした鬼ごっこが始まった


─────




 駄目だった。

 鬼に鬼ごっこで勝てる訳もなく、光は追い詰められていた。館内を走り回り、他に逃げ場はないと二階から飛び降り、足を痛めた。

 後を追い、ずしんと音を立てて飛び降りてきた鬼が目の前に迫っている。

 元来の、体力のなさも災いしたが、それだけではなかった。鬼の視界の外で角を曲がろうと正確に追ってきたのだ。壁も、机も邪魔なものは破壊し、なぎ倒して追ってきた。

 他の人間には目もくれず、ただ光だけを。


(やだやだやだ、何なんだよぉ)


 もはやこれまで、逃げる力も沸かず、誰かが助けてくれないだろうかと期待する。しかし、近辺に人影はない。

 あとは神に祈るばかり。


 鬼が光の足を掴んだ。


「痛っ……!」


 痛めた足を圧迫されて、悲鳴を漏らす。

 握りつぶされたかのように感じた。

 鬼は、光を持ち上げ、そのまま地面に叩きつけようと振りかぶる。


 光は、もはや自分に何が起きているのかわからないほど気が動転していたが、不意に足の圧迫感が消え、浮遊感が生じた。

 その一瞬ののち、光は卯月の腕の中にいた。

 見慣れた姉の顔を見上げると、目が合った。


「大丈夫。少し眠ってなさい」


 その声を聞きまどろみの中に落ちていった。



 その日、街一帯が霧に包まれた。

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