一 崩れていく平穏
── 鹿児島市 上町
「はあ、ただいま帰りましたっと」
暖かい陽射しの降り注ぐ四月、されども時折吹き付ける冷たい風から逃げるように少年は扉を開けた。
誰に聞かせるでもない帰宅の挨拶をこぼして、自室のある二階へと上がる。
部屋着に着替えるために脱いだ制服は椅子の背に掛けられており、ハンガーを使うのも手間と考えるものぐさな性格が窺える。
少年・
ラフな格好となって、スマートフォンを片手に階段を降りれば、リビングの戸の向こうから水の流れる音とともに食器のかち合う音が聞こえてくる。
「ん? おう、お帰り」
「うん、ただいま……」
リビングに入ってきた光に気づき、光の兄・
そして、弟が目をしょぼつかせていのを目にする。
「なんだ、また徹夜したのか?」
「いやあ、一時間くらいは寝たけどね」
勉強や部活動に励むでもなく、これまた怠惰に過ごした春休みが昨日で終わり、高校二年生に進級した光だが、未だ春休み気分が抜けきらずにいた。
特に、春休みの間慣れ親しんだ昼夜逆転生活は、今朝になって突如として牙を剥いたのだった。
「ああ眠い、ふう」
三人掛けソファを独占すべく倒れ込む。
ひと息ついた所で、光の目に入ってきたものはリビングを我が物顔で闊歩する兔の姿だった。
「……ハクトが逃げてるんだが? 姉さんは?」
「シャワー浴びてる」
天之家に唯一いるペット、文字通り白兎の「ハクト」は、リビングのケージで飼われている。
「しょうがないなあ。ほらハクト、ケージに戻ろうか。痛っ」
光がソファから立ち上がり抱え上げようと手を伸ばすと、ハクトははね除けるように後ろ脚で蹴り上げた。
「だから嫌なんだ……ほっ」
不意をついて持ち上げてみれば、身体をくねらせて凄まじい抵抗を見せた末にスルリと抜け出した。
「ああ、もういい」
光は諦めて再びソファに寝転がった。
「女好きの面食い兎はどうなった?」
「逃げ仰せたよ」
ハクトは兄弟のどちらにも懐かなかった。
しかし、二人の姉・
言って聞かせるだけで、自ずとケージに戻っていくのだった。
「どうせ、悪さするわけじゃないし。いいでしょ」
「抜け毛が落ちるだろ? あてっ、こいつ……」
ハクトが輝の足を踏みつけて走り去った。
この兎は時折、家族の会話を聞いているのではないかと錯覚するような行動をするのだ。
自由奔放な兎はさておき、光はなんとはなしにテレビをつけた。
『……ちらのマットレス、今から三十分以内……月を追うごとに相談件数が増えているようです……はい、私はいま天文館に来ています! この先に話題の……ここ花岡八幡宮に納められている破邪の御太刀、全長はなんと……』
チャンネルを順番に切り替えるも、気になる番組は見当たらない。
特に興味もないニュースの特集を子守歌にすべく垂れ流す。
「おっ、光ちゃんお帰り~」
うつらうつらと閉じかけた目蓋を再び開かせたのは姉の声だった。
女優かアイドルかというルックスでありながら、家庭内ではずぼらな様子を見せる。
オーバーサイズのTシャツ一枚を着て、濡れた髪をタオルで拭きながら卯月は冷蔵庫へ向かう。
「ただいま~」
「今日は早いね」
「始業式とか新学期のあれこれで終わったよ」
「おや、自習してきても良かったのに。春休みの宿題終わってないでしょ?」
「期限は初回の授業だから。時間はまだあるから大丈夫」
卯月はソファの傍に来て、光の髪をくしゃくしゃにかき乱しながらからかった。
光は力が抜けたように、されるがままに頭を揺らす。
「始業式といえば、クラス替えあったろ。あいつらとはどうだった?」
輝が問う『あいつら』。
光には幼馴染みと呼べる友人が何人かいた。
いずれも家が近く、幼少の頃から家族ぐるみの付き合いがある。
この三人は光と同じ高校に通う同期であった。
「啓介と一緒。他二人は文理選択の時点で違うよ」
「そうか。まあ、ぼっちにならずに済んだな」
「いや、他にも友達くらいいるけどね」
卯月は社会人、輝は大学四年生。
歳の離れた姉兄に光は、中々に可愛がられて育っていた。
輝にからかわれている光を、微笑ましく卯月が見ていると、テレビから独特な通知音が鳴り響く。
速報のテロップが画面上部に流れ、すぐに映像も切り替わりアナウンサーが映し出された。
『ただいま入った情報によりますと、熊本県人吉市の路上で、男女複数人が倒れているのが発見されました。住民の通報により消防が駆けつけたところ、男女複数人が倒れており、全身に切りつけられたような傷があったとのことです』
映像はまた切り替わり、現場だろうか警察の規制線と駅前広場の様子が流れる。
『怪我を負った男女はいずれも、「何が起きたのか、わからない」「気がついたら倒れていて、全身に痛みを感じた」と述べ、被害当時の状況を把握できていないとのことです。警察は、島根県松江市や兵庫県明石市で起きた"通り魔事件"との関連を調べる方針です』
大人しくニュースを見ていた三人だったが、切りのいい所で光が口を開いた。
「……切られた痕だって。いかにも通り魔って感じだね」
「いやしかし、複数人の全身にってなると、いわゆる通り魔には無理だろ」
隣県のできごととはいえ、所詮はテレビの向こう側の話。光も輝も本腰を入れて話題にするほどの興味はなかった。
しかし、卯月は食い入るようにアナウンサーの声に聞き入っていた。
「姉さん?」
「……えっ? どうかした?」
「いや、どうかしてたのはそっちなんだけど。もしかしてあの辺に知り合いとかいた?」
「ああ、いやあ。行ったことある所だったから気になっちゃって。知り合いも……知り合いって程でもないけどね。まあまあ離れたとこだったと思うけど、一応電話してみようかな」
そう言って卯月はリビングを出て行った。
残った兄弟は顔を見合わせる。
「まあ、あっちこっち仕事で回ってるしね」
「顔が広いと、気苦労もそれなりにあるよなあ」
輝はキッチンにて手を止めていた作業に戻り、光はソファにて思い出したように睡魔に襲われた。
「光、晩ご飯何がいい?」
「何でもいいよ」
「おっけ、庭の雑草盛り合わせね」
「カレーがいいです。よろしくお願いします。いつもありがとうございます」
たわいもない会話、怠惰な生活習慣もいつもと変わらぬ新年度が幕を開けた。
────
── 鹿児島市 中心市街地・県立高校
結局、課題の提出が間に合わずいくつかの教科で担当教師にしっかりと叱られてから数週間が経ち、四月もそろそろ終わろうかという頃。
共に登校した彩音と教室の前で別れ、光は自分の席で伏して寝ていた。
時刻は朝七時を過ぎた頃。
光は睡眠を八時間とった時が最も一日を快適に過ごせると考えているが、夜型の人間らしくなかなか早く寝ようとはしなかった。
睡眠に飢えた光に、啓介が声をかける。
「光ちゃんよお、部活の話はどうなったんだい。帰宅部継続か?」
付き合いが古い分、光がいま何をしてほしくないか当然知っているが、お構いなしに話しかける。
「うるさいなあ」
「なんかやりたいつってたくせに、口だけなんだもんな。この新入生の勧誘期間が自然に馴染めるチャンスだったのになあ。卒業アルバム見て嘆くだろうね。クラス写真にしか載ってない…… ああ、僕は高校時代いったい何やってたんだって」
帰宅部の称号を冠する光をおちょくって遊ぶ。
親しき仲であり普段の光なら許すだろう揶揄ではあるが、なけなしの睡眠時間を邪魔されるのは心穏やかとはいかなかった。
「わかったから。君も大して変わんないだろ。写真部? いつ活動してんだよ」
「おい貴様、我が化学部写真班を馬鹿にしたのか?」
「うるさい、うるさい。もうあっち行けよ」
寝ぼけ眼で、啓介をしっしと追いやる。
今はこれ以上話して睡眠を妨害しても面白い反応は見られそうにないと、啓介も別のクラスメイトと駄弁りにいった。
朝課外をこくりこくりと船を漕ぎながら受け、がくりと身を震わせては目覚める。
これを三度ほど、繰り返したところでチャイムが鳴った。
「はい、じゃあここまで。この後、全校朝会があるから、準備するように。では日直、号令」
「起立、姿勢、礼」
不揃いの挨拶とともに授業は終わり、体育館に移動するため光は教室の外へ出た。
各クラス、廊下で列を作る中、横を通り抜ける人影が二つ、彩音と将史。
生徒会執行部などという大仰な名の組織の一員。つまるところ生徒会役員である二人は、先行して移動する最中であった。
「宮路のやつ、ずりいよな。俺も迫田さんと仲良くなりてえよ」
「迫田ちゃんってさ。なんでいつも宮路くんと一緒なの」
文系の成績優秀クラスに在籍し、頭も良く見目も良い二人には羨望と嫉妬の声が散見された。
このような光景を昨年は見ることはなかったように思う。
治安の悪化を感じながら、特に声をかけることはなく二人を見送る。ご苦労様と心でねぎらいつつ、光は欠伸を噛み殺した。
全校朝会が始まる。
通常、よくもまあ優秀な生徒が毎度毎度いるものだと不思議に思う表彰式から始まるが、今日はどうも様子が違った。生徒会役員として脇に控える彩音、将史も戸惑っているのが見え、教員達も心なしか慌ただしくしている。
進行も生徒会役員が行うのが通例だが、今日は日直の教員の声が体育館に響く。
「静かに。ええ、校長先生から大事なお話があります。校長先生、お願いします」
いつもと異なる始まり方に何事かと、生徒達は顔を見合わせた。
校長が演台に立ち、座るように手で指示する。
(やった、有能!)
校長に不遜な評価をしつつ、睡眠不足で立たされる全校朝会ほどつらいこともないと言わんばかりに、光は嬉々として座る。
生徒全員が着座したことを確認し、校長が話し始めた。
「ええまず、皆さんにお報せしなければなりません。皆さんも報道で見聞きしている事でしょう。昨今、世間を騒がせている通り魔事件について。非常に残念な事に、今朝、登校中の我が校の生徒が一人。その被害に遭いました」
体育館内はざわめきたった。
通り魔事件。テレビや新聞を注視せずとも、SNSを利用していれば誰の目にも勝手に情報が入ってくる。
通り魔といえば、通りすがりに危害を加える輩を想像するだろうが、ここにおいては異なる。
"何かが起き、気がついた時には人々が怪我をし、街に破壊の痕が残っている。しかし、誰もその何かを覚えていない"。一瞬にして災害の惨状のみが生じるので、「通り魔」の本義を用いてそう呼ばれた。
このように呼ばれ始めたのは今年一月に起きた、島根県松江市の事件からであった。
二人が死亡、十三人が重傷でみつかり、付近では、アスファルトが割れ、家屋が数軒半壊となっていた。被害者の症状は、鈍器で殴られたようなもの、象にでも踏みつぶされたようなもの等、様々であった。
しかし、何が起きたのか被害者自身でさえも覚えてはいなかった。
その後、西日本を中心に、道路や建物が破壊される原因不明の事件が度々起こった。
松江市のように死に至ることは稀であったが、時折、重傷者が出て全国に報道されることとなった。
肉を抉られたような怪我、身体中に噛みちぎられたような跡がある者、人間の仕業とも思えず捜査は難航した。
県内においては致傷事件は起きていなかったが、ここにきて第一例目。それも学舎を同じくする身近な人間が重傷を負ったという報告を聞き、生徒達に動揺が広がった。
「幸いにも、命に別状はないとのことで、現在は病院にて治療を受けています。学友が、このような事件に遭い、皆さんも心配、不安の中にあると思います。私も同じ思いです」
沈痛な面持ちで校長が語る。
「本日は、しばらくは校内で待機し、警察からの連絡を待ちます。校外には出ないように。状況によりますが、午前で授業を切り上げ、下校していただこうと考えています。なるべく一人にならないように、集団で下校してください。保護者の方を呼んでいただいても構いません。では、本日の朝礼は以上となります。解散」
しんとした体育館に再び、教員の声が響く。
「はいじゃあ、各学年八組から順に教室に戻って!」
止まっていた時が再び動き出したかのようにざわめきが蘇った。
光の周囲では、「ちゃんと帰れるかな」「早く帰れる、ラッキー!」「やめとけ不謹慎だろ」「お母さんもお父さんも仕事なんだけど、どうしよう」と様々な声が飛び交っている。
校長の話を聞いても、どこか遠い場所での出来事のように実感のない光であったが、もはや眠気はなく目は冴えていた。
午前中、予定通り授業は行われた。
進学校の自負があるのか、時間を無駄にはしないとのこと。
しかしながら、自校の生徒の登校中の被害。学校周辺に通り魔が潜んでいるかもしれないという事実。
「待機にしても自習で良いじゃないか、集中出来るか」というのが生徒の総意であった。
そわそわと集中を乱していても今日ばかりは教師陣も咎めはしなかった。
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