一 崩れていく平穏

「ただいま」


 暖かい陽射しの降り注ぐ四月、されども時折吹き付ける冷たい風から逃げるように少年は扉を開けた。

 廊下を抜け、二階にある自室へと入り、部屋着に着替える。

 脱いだ制服は椅子に掛けられており、ハンガーを使うことも手間と考えるものぐさな性格が窺える。

 少年、天之光あまの ひかるは怠惰に日々を送っていた。

 ゲーム機、スマートフォンを手に、階段を降りれば、リビングの戸の向こうから水の流れる音と共に食器のかち合う音が聞こえてくる。


「ん? おお、お帰り」


 戸が開いたことで光の帰宅に気づいた兄・てるが洗い物の手を止めてキッチンから顔を覗かせて声をかけた。

 勉強や部活動に励むでもなく、これまた怠惰に過ごした春休みが昨日で終わり、高校二年生に進級した光だが、未だ春休み気分が抜けきらずにいた。

 三人掛けソファを独占すべく倒れ込もうとしたところ、足下を白い影が駆け抜けた。


「おわっ! 姉さん、ハクトがまた逃げてるよ」


 踏みつけそうになった白兎を咄嗟に避けて、飼い主に告げる。天之家に唯一いるペット、文字通り白兎の「ハクト」は、二人の姉・卯月うづきの部屋のケージで飼われている。兄弟にはあまり懐かなかったハクトは我が物顔でリビングを闊歩していた。


「姉さんなら今、シャワー浴びてるよ」

「じゃあ後でいっか」


 自分達でケージに戻さないのには訳があった。

 ハクトに二人が手を近づければすぐさま蹴り上げてくる。不意をついて持ち上げてみれば身体をくねらせて凄まじい抵抗をみせる。

 しかし、姉にはそんな態度は一切見せない。なんなら、言って聞かせるだけで自らケージへと戻っていく。

 であれば、対応は姉に任せるしかない。

 兄などは、「女好きの面食い兔」だと内心で吐き捨てる。

 兔は一時放置することに兄弟間で同意を得たところで、キッチンに着信音が鳴り響いた。


「ん? 高志たかしからだ。ちょっと出てくる」


 部屋を出て自室に向かう輝を見やり、光は改めてソファに倒れ込みテレビをつけた。

『……ちらのマットレス、今から三十分以内……月を追うごとに相談件数が増えているようです……はい、私はいま天文館に来ています! この先に話題の……えー今回、熊本県人吉市で起きた事件ですが、島根県松江市、兵庫県明石市で起きた事例とだいぶ似ているように思えますね。街中で突然、身体中に怪我をされたという話ですが』

 チャンネルを順番に切り替える。気になる番組も見当たらず、ワイドショーを環境音程度に聞き流し、ゲームに興じていると、


「お、光ちゃんお帰り~」


 後ろを卯月が通った。濡れた髪をタオルで拭きながら冷蔵庫へ向かう。

 おっとりと優しい性格で人に好まれる卯月。

 女優か、はたまたアイドルかというルックスも相まって、その嫋やかな姿を見た者はたちまち心奪われる。そんな女性であるが、ずぼらな一面もあるのだった。今も、家族とはいえあまり人に見せるべきではない非常にラフな格好をしている。


「ただいまー」

「今日は早かったね」

「まあ、新学期のあれこれで終わったからね」

「おや、自習してきても良かったのに。春休みの宿題終わってないでしょ?」

「期限は初回の授業。時間はまだあるから大丈夫」


 ソファの後ろから光の髪をくしゃくしゃにかき乱しながらからかう卯月。光はされるがままに頭を揺らす。

 そこに、心底気怠そうに輝がリビングに戻ってきた。


「……はあ。高志がうるさいから、ちょっと大学に行ってくる」

「あら、遅くなりそう?」


 嫌々といった渋い表情で自身の通う大学に向かうことにしたと話す輝に卯月が訊ねる。

 普段、天之家では輝が夕食を作る。

 しかし、光はともかく卯月は家事ができない訳ではないので、遅くなるようであれば自分が作ろうかと聞いた訳だ。

 輝が夕食を外で済ませてくるようならば、作る量も考慮しなければならない。


「いや、すぐ帰るよ。じゃあ行ってくる。ああそうだ、ハクトがまた逃げてるよ」

「え~、どこ?」


 卯月がハクトを探してまわる。

 たわいもない会話、怠惰な生活習慣もいつもと変わらぬ新年度が幕を開けた。


─────


 光には幼馴染みと呼べる友人が何人かいた。親同士が友人であった迫田彩音さこだ あやね、幼稚園で出会った宮路将史みやじ まだふみ、小学校で出会った山元啓介やまもと けいすけ、およびその兄弟達である。この三人は光と同じ高校に通う同期であった。


 結局、課題の提出が間に合わずいくつかの教科で担当教師にしっかりと叱られてから数週間が経ち、四月もそろそろ終わろうかという頃。

 共に登校した彩音と教室の前で別れ、光は自分の席で伏して寝ていた。

 時刻は朝、七時を過ぎた頃。

 光は睡眠を八時間とった時が最も一日を快適に過ごせると考えているが、夜型の人間らしくなかなか早く寝ようとはしなかった。

 睡眠に飢えた光に、啓介が声をかける。


「よお光。今年も帰宅部で終わりそうだな」


 昨年に引き続き、同じクラスになった啓介。付き合いも古く、光をよく知る人物の一人。当然、いま何をしてほしくないかも知っているが、お構いなしに話しかける。


「うるさいなあ」

「勧誘期間も終わるからな。自然に馴染める最後のチャンスだったのに。卒業アルバムを見て寂しく思うだろうね。クラス写真にしか載ってない……ああ僕は、高校時代にいったい何をしてたんだろうってね」


 啓介は、何かにつけて光をからかうのが好きであり、この瞬間も生き生きとしていた。


「わかったから。君も大して変わんないだろ。写真部? いつ活動してんだよ」

「おい貴様、我が化学部写真班を馬鹿にしたのか?」

「うるさい、うるさい。もうあっち行けよ」


 寝ぼけ眼で、啓介をしっしと追いやる。

 今はこれ以上話して睡眠を妨害しても面白い反応は見られそうにないと、啓介も別のクラスメイトと駄弁りにいった。


 朝課外をこくりこくりと船を漕ぎながら受け、がくりと身を震わせては目覚める。

 これを三度ほど、繰り返したところでチャイムが鳴った。


「はい、じゃあここまで。この後、全校朝会があるから、準備するように。では日直、号令」

「起立、姿勢、礼」


 不揃いの挨拶とともに授業は終わり、体育館に移動するため光は教室の外へ出た。

 各クラス、廊下で列を作る中、横を通り抜ける人影が二つ、彩音と将史。

 生徒会執行部などという大仰な名の組織の一員。つまるところ生徒会役員である二人は、先行して移動する最中であった。


「宮路のやつ、ずりいなあ。俺も迫田さんと仲良くなりてえよ」

「迫田ちゃんさ。モテるんだから宮路くんじゃなくたっていいのに。なんでいつも一緒なの」


 文系の成績優秀クラスに在籍し、頭も良く見目も良い二人には羨望と嫉妬の声が散見された。

 昨年は、あまり見ることはなかったように思う光景に、治安の悪化を感じながら二人を見送る。ご苦労様と心でねぎらいつつ、光は欠伸を噛み殺した。


 全校朝会が始まる。

 通常、よくもまあ優秀な生徒が毎度毎度いるものだと不思議に思う表彰式から始まるが、今日はどうも様子が違った。生徒会役員として脇に控える彩音、将史も戸惑っているのが見え、教員達も心なしか慌ただしくしている。

 進行も生徒会役員が行うのが通例だが、今日は日直の教員の声が体育館に響く。


「静かに。ええ、校長先生から大事なお話があります。校長先生、お願いします」


 いつもと異なる始まり方に何事かと、生徒達は顔を見合わせた。

 校長が演台に立ち、座るように手で指示する。


(やった、有能!)


 校長に不遜な評価をしつつ、睡眠不足で立たされる全校朝会ほどつらいこともないと言わんばかりに、光は嬉々として座る。

 生徒全員が着座したことを確認し、校長が話し始めた。


「ええまず、皆さんにお報せしなければなりません。皆さんも報道で見聞きしている事でしょう。昨今、世間を騒がせている通り魔事件について。非常に残念な事に、今朝、登校中の我が校の生徒が一人。その被害に遭いました」


 体育館内はざわめきたった。

 通り魔事件。テレビや新聞を注視せずとも、SNSを利用していれば誰の目にも勝手に情報が入ってくる。

 "何かが起き、気がついた時には人々が怪我をし、街に破壊の痕が残っている。しかし、誰もその何かを覚えていない"。一瞬にして災害の惨状のみが生じるので、「通り魔」の本義を用いてそう呼ばれた。

 このように呼ばれ始めたのは今年一月に起きた、島根県松江市の事件からであった。二人が死亡、十三人が重傷でみつかり、付近では、アスファルトが割れ、家屋が数軒半壊となっていた。被害者の症状は、鈍器で殴られたようなもの、象にでも踏みつぶされたようなもの等、様々であった。

 しかし、何が起きたのか被害者自身でさえも覚えてはいなかった。

 その後、西日本を中心に、道路や建物が破壊される原因不明の事件が度々起こった。

 松江市のように死に至ることは稀であったが、時折、重傷者が出て全国に報道されることとなった。

 肉を抉られたような怪我、身体中に噛みちぎられたような跡がある者、人間の仕業とも思えず捜査は難航した。


 光達の住む鹿児島県内では致傷事件は起きていなかったが、ここにきて第一例目。それも学舎を同じくする身近な人間が重傷を負ったという報告を聞き、生徒達に動揺が広がった。


「幸いにも、命に別状はないとのことで、現在は病院にて治療を受けています。学友が、このような事件に遭い、皆さんも心配、不安の中にあると思います。私も同じ思いです」


 沈痛な面持ちで校長が語る。


「本日は、しばらくは校内で待機し、警察からの連絡を待ちます。校外には出ないように。状況によりますが、午前で授業を切り上げ、下校していただこうと考えています。なるべく一人にならないように、集団で下校してください。保護者の方を呼んでいただいても構いません。では、本日の朝礼は以上となります。解散」


 しんとした体育館に再び、教員の声が響く。


「はいじゃあ、各学年八組から順に教室に戻って!」


 止まっていた時が再び動き出したかのようにざわめきが蘇った。

 光の周囲では、「ちゃんと帰れるかな」「早く帰れる、ラッキー!」「やめとけ不謹慎だろ」「お母さんもお父さんも仕事なんだけど、どうしよう」と様々な声が飛び交っている。

 校長の話を聞いても、どこか遠い場所での出来事のように実感のない光であったが、もはや眠気はなく目は冴えていた。


 午前中、予定通り授業は行われた。進学校は時間を無駄にはしないのだ。

 しかしながら、自校の生徒の登校中の被害。学校周辺に通り魔が潜んでいるかもしれないという事実。

 「待機にしても自習で良いじゃないか、集中出来るか」というのが生徒の総意であった。

 そわそわと集中を乱していても今日ばかりは教師陣も咎めはしなかった。

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