第3章 その心から鬼が湧く

第20話 パラレルワールドシミュレーション

5


 僕は夢の中にいた。視界は四方の端に霞がかかったようにぼやけ、音はなく、コンクリを踏み締める感覚は不確かだけど、日中、近所の住宅街を歩いている状況らしい。

 

 これは明晰夢というやつである。何度も経験しているから、もはや驚くことも戸惑うこともない。僕はこういう夢を見やすい体質らしいし、数を重ねるうちに、ある程度制御するコツも会得していた。この夢を利用する目的はただ一つ、聞き込みで集めた情報を整理して、不幸の手紙が広まった状況をシミュレートするためである。現実で見聞きしたことを再構築した擬似体験であり、抽象的な知識のままでは気づかなかった思わぬ発見があったりして重宝している。


 しばらく歩いていると、那美川家の表札が掲げられた一軒家に辿り着く。まだ一度しか見ていないから家屋の細部はあやふやだが、この際、それはどうでもいい。重要なのは道路に面して設置されているインターフォン一体型の郵便受けである。一本足打法の野球選手のようなシャープな出立ちの郵便受けに近づく人影が現れては泡沫のように消えていく。


 新聞や郵便の配達。宅配業者。二人組の宗教勧誘。荷物をたくさん抱えた訪問販売。流れ作業のポスティング。乗り気じゃない自治会の集金役。このあたりは通常考えられる訪問者だ。


 次は那美川家周辺でよく見掛けられたり、郵便受けに近づいたことが確認された人々を登場させてみる。何をするでもない学校帰りの小学生達。不幸の手紙に関する注意喚起のチラシを配る警察官。たまたま知り合いと出会って話に花が咲く奥様達。散歩コースで必ず立ち止まるお婆さん……


 こうしてみると、他人の家の郵便受けに怪しまれずに近づき、不幸の手紙を投函することは意外に簡単だ。シミュレーション上は不審に思って通報されるケースは想定できなかったが、ほとんど誰もが容疑者である。加えて、実行犯がそのまま差出人であるとも限らない。黒幕は用心深く、姿をさらさないケースだってあり得るから、現状では手掛かりは無いに等しい。


 だからだろうか。無実を信じる思いとは裏腹に、稟までもが夢の中に登場してしまう。彼女は郵便受けに手紙をそっと投函して、危険な笑みを僕に向ける。


「昂良君も、こっちにおいでよ」




 夢から逃げるように目を覚ますと、稟の暗紫色の瞳が僕を覗き込んでいた。絹のような手触りの黒髪は僕の頬に落ちかかるほど至近だ。稟らしい色っぽい香水の匂いが香ってきて、覚醒早々クラクラしてしまう。


 状況を飲み込めず混乱している最中、かろうじて認識できたのは、稟が心配そうに僕の様子を気遣っているらしいということだ。


「ごめんなさい、呼吸が全然聞こえなかったから」


 稟に誘惑の意図がなくとも、息遣いが感じられるほど接近すれば胸の高鳴りを抑えきれないのはこれしようがない。平静を装い、この状況に至った経緯について考えを巡らせながら、身体を起こしてベッドに腰掛け、激しい動悸が治まるのを待った。


 明晰夢は脳が活発に活動しているレム睡眠時に見るものとされているそうだ。レム睡眠は“浅い眠り”とも言われ、一般的には覚醒しやすい状態だけど、僕の場合は全神経を夢見に投入でもしてしまっているのか、生命維持活動が極端に縮小してしまうらしい。とりあえず、これまで命の危険はなかったし、原因不明で医者からも匙を投げられてしまったから、僕も家人も慣れっ子になってしまったけれど、稟の反応を見るに、明晰夢を見ている僕は白雪姫ばりの仮死状態でよほど心配になるのだろう。それ故のゼロ距離接近というわけか。


「いつものことだから心配いらないよ。こういう就寝スタイルなんだ。そういえば、稟が僕の部屋にいるというのは新鮮というか、初めてだね」


「昂良君を起こしに来たら、花乃さんが鍵を開けてくれたから」


 一生直りそうにない花乃の悪癖はともかく、気になるのは昨日までと打って変わって砕けた稟の口調だ。


「……なんだか普段の稟と印象が大分違う。言葉遣いのせいかな?」


「同い歳だし、二人きりの時なら良いかなって。ちょっと馴れ馴れしい?」


 試すような笑みは不敵というか豪胆だ。時と場を弁えた積極性は稟の美点である。僕としても同級生に畏まられ続けるのはあまり気持ち良いものではないから、束の間でも気兼ねなく話せる間柄の方が良い。


「全然構わないよ。むしろこの方が僕も落ち着く。ちょっと稟と仲良くなれた気もするしね」


 稟は満足気に口角を上げる。罠にかかった獲物を見るような目つきでゆっくりとベッドに近づき、僕の隣に腰掛けた。


「ねぇ昂良君。どれくらい仲良くなれたら、あの鍵のかかった部屋について教えてくれる?」


 穏やかではあっても、適当にあしらうことのできない意志の強さを感じる。稟はどうしてここまであの部屋に拘泥こだわるのだろう。


「えらくご執心だね。僕の恥ずかしい何かが隠されている部屋ってわけでもないから、大して面白くないと思うけど」


「貴方しか開けられない扉の向こうって興味あるな」


 グイグイ積極的に来る稟から距離を取ろうと不恰好な体勢になってしまう。稟がようやく思惑の一端を開陳してくれたのは一歩前進だが、個人的な興味か、それとも柊家の何かを探っているのかは判断がつかない。とりあえず、いくら仲良くなったとしても、現状では友人として明け透けに語り合うわけにもいかないだろう。


 どう切り抜けようか思案していたところ、唐突に稟はドア付近まで遠ざかった。程なくして、ノックとともにラムネが入室してくる。稟は危機察知能力も高いらしい。


「兄さん! 大丈夫ですか!?」


 何故か切迫した様子で稟を警戒するラムネ。自室で稟と二人きりになってしまったから機嫌が悪いのだろうか。それにしても「大丈夫ですか」というのはちょっと文脈が掴めない。まるで稟が僕に危害を加える可能性を危惧していたかのようだ。


「大丈夫って何が?」


「えっと……大丈夫ですかっていうのはその……古戸森さんに起こしに来てもらったからって変に浮かれて羽目を外してないですよね大丈夫ですかっていうことです!」


「分かりづらいなぁ。思春期真っ只中の中二じゃないんだし、お前のお兄ちゃんをもうちょっと信用しなさい」


「それはそうなんですけど……とにかく! 早く朝ご飯を食べましょう! ほら、古戸森さんも行きますよ」

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