第2章 不幸の手紙

第11話 鬼の仕業 一

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 那美川優飛なみかわゆうとは、底知れぬ不安に絡め取られていた。絶えず片足を揺すりながら、既に小一時間、薄暗い自室に閉じ籠もって執務机の上に拡げられた一通の便箋を注視し続けている。照明に照らし出された白い文面は、人間味の感じられない筆跡で一言のみ綴られていた。


『貴方は何も知らない。けれど私は知っている』


 文面を読み返すにつけ、優飛は空恐ろしさを感じずにはいられない。背中に走る鈍い寒気は、暖春の夜気にあらざるものだ。宛名も差出人も不明の便箋は、手の込んだ悪戯か、はたまた愉快犯の全く無関係な嫌がらせか、或いは新手の詐欺行為か……何にせよ、一顧だにせず切り捨てるべきものである。だというのに……


 奇怪な投書は、二週間に亘って数回続けられた。当初は歯牙にもかけなかった優飛も、日を追うに連れて問答無用に無視し続ける事が出来なくなってしまった。


 勿論、それは彼が騙されやすい気質だったからではない。何か疾しい隠し事があるが故に、第三者に暴露される恐怖を感じている訳でもない。彼が心中穏やかでないのは、偏に家族に対する疑念が、この一通の便箋によって励起されてしまったからである。


 優飛には、十年来連れ添った愛妻が居た。子はないが、近所でも仲睦まじいと評判のおしどり夫婦であった。持て囃される当人達も、これまで深刻ないさかいや性格の不一致を経験する事も無く、名実共に良き夫婦として人生を共に歩んできたと自負している。いや、していたはずだった。


 愛する妻への信頼と、愛されているだろう夫としての自信は、予期せぬ不気味な投書によって揺さぶられてしまったのだ。


 優飛には、これまで気付かぬ振りをしてきた気懸りがあった。といっても、何の確証もない、漠然とした不安だったに過ぎない。それ故に、今日までその不安は具体的に表面化することがなかった。


 妻は専業主婦だった。そして、優飛は一家の大黒柱として、昼となく夜となく働く企業戦士だった。同じような境遇の家庭は世間にありふれている。恐らくそれは、家の外に出て日々の方便たずきを得る側が家に残る者に覚える、ありきたりな不安でしかない。


 ありきたりな不安――日中の妻の行動について、優飛は何も知らなかった。その無知に危機感を覚え始めたのはつい二か月ほど前である。俄かに化粧も装いも派手になった妻に対して、優飛は一度不信を抱いたことがある。浮気などする女ではないと思っていたが、魔が差したということもある。それとなく理由を尋ねてみると、生活に余裕が出来てきたから、少し自らも自分磨きをしたいということだった。優飛はすぐさま疑念を払しょくしようと努めた。


 彼は、これまで仕事の都合で不規則な生活を送り、妻には大分苦労と我慢を強いてきたことを負い目に感じていた。働き詰めの毎日で、日付が変わって帰宅することなどザラだった。それでも妻はぼやくこともなく自分の帰りを待っていてくれた。夕飯を用意し、風呂を焚き、翌日の弁当の準備までしてくれた。


 ようやく努力が実を結び、昇給によって生活は豊かになったし、部署も変わって帰宅も前より早くなった。規則的な生活に戻り、妻も自分の時間というものを持てるようになったはず。今の余裕ある暮らしは仕事に邁進したからだけではない。妻が家に残り、家事を引き受け、心身ともに疲れた自分を癒し、支えてくれたからの結果である。妻はその功労に見合った人生の楽しみを得ようとしているだけで、自分が自身の些細な不安からとやかく文句をつけるのは言語道断だ。そればかりか、下種な勘繰りをした自らを恥もした。これまで文句一つなく自分に尽くしてくれた妻に対し、疑いをかけるなどあんまりではないか、と。


 ――しかし、本当にそうなのだろうか。


 一時は納得しかけた優飛だったが、妻の言動を完全に受容することに本能的な恐怖があった。


 信じようとは思ったし、信じたいとも思ったが、妻の語る理由をすんなり飲み込むことは終に出来なかった。しつこく問い詰めることも出来ず、据わりの悪い感情が心の奥底にひっそりと根付き、日々の生活に自分を埋没させることでやり過ごすのが精一杯だった。


 仕事に集中すれば、そんな不安は感じなくて済む。知らなくていいことはこの世界にたくさんあるのだ。


 ――本当に知らなくていいのか? 真実を明らかにしなくていいのか?


 優飛は自問する。真実とは何だ。妻は不貞などしていない。あの時、彼女は毅然と否定していたではないか。


 ――こんな不安は、誰しも感じていることなのだ。皆、愛する者を信じることで、この厭らしい魔物を駆逐している。ありもしない軋轢を、あると錯覚させるこの魔物を、私は信頼と云う剣で退治しなければならないのに。


 だというのに、何なんだこの手紙は。


 優飛は苛立った。無意識に唇を噛み、口腔内に血の味が徐々に広がる。見ず知らずの誰かが無責任に放つ言葉によって励起された不安と、その不安を抱く夫としての自分の不誠実さに腹が立った。


 穏やかな日常を取り戻したい。いや、早く楽になりたい。その一心にせき立てられ、彼は行動を決めた。


 出勤と偽って近所の公園で目立たぬ格好に着替え、外出する妻――和咲を尾行する。新調したスマートカジュアルな装い、長い髪はきっちりと結い上げられており、明らかに近所をふらりと出歩く姿ではない。


 和咲は電車に乗り、隣町の駅で下りた。駅のすぐそばの喫茶店に入り、店内を見渡す。どうやら誰かと待ち合わせをしているらしい。


 待ち人を見つけ、和咲は早足でその席に向かう。彼女を迎え入れたのは、和咲と同年代と思われるスーツ姿の男性だった。


 店のガラス越しからその光景を目の当たりにした優飛は強い目眩と眼球が痺れるような痛みを感じ、なんとか堪えながらフラフラと店内へ入る。出入口近くの席に座り、手早く注文を終え、提供された水を一気に飲み干した。熱にうなされるように頭の中はぼんやりと取り留めがなく、喉は渇ききって灼けるようだった。狂ったように両手が震え、鼓動がざわめく。呼吸がうまくできず、息苦しかった。


 早く、楽になりたい。


 和咲と見知らぬ男性は談笑している。見慣れた笑顔が、声が、人ならざる何かの愉悦のようにしか認識できず、嫌悪感とともに酷く神経を逆撫でていく。


 あれは、人に化けた悪鬼だ。俺はずっと騙されていたんだ。


 憎しみを、苦しみを抱く度に、優飛は自らの内側から得体の知れない何かが這い出してくる感覚に恐怖した。心の奥底のずっと深い場所、底なしの深淵から、この世ならざるおぞましいものが優飛を内側から食い破って出てこようとしているようだ。


 早く……楽になりたい。


 震えは止まらない。喉はカラカラで呼吸する度に擦れるような痛みすら感じる。身体は熱いのに思考は酷く冷め切っている。まるで自分の身体ではないようだ。既に自分は、得体の知れない何かに取って代わられてしまったのかもしれない。そうでなければ、和咲を■したいなんて、思うはずがないのだから。


 和咲と男性が席を立つ。シュー、シューと機械のように口から排気音を響かせて、店を出ようとする二人の前に優飛が立ち塞がる。


 いるはずもない夫が見慣れぬ格好で行手を阻む驚きが和咲の表情を引き攣らせる。その不自然な筋肉の動きが疾しさ故の動揺だと受け取って、優飛は確信とともに前後不覚に陥る。数秒前まで確かにいた優飛という理性と人格は、彼が生み出した怪異に完全に乗っ取られてしまう。


「あ、貴方!? 何でこんなところに」


「切ったな」


「……え?」


「俺を、俺を裏切ったなぁ!」


 怨嗟に歪む咆哮が店内の喧騒を駆逐する。優飛は脇に抱えていた紙袋から拳銃を取り出し、恐怖に慄く彼の妻の腹腔に躊躇いなく弾丸を打ち込む。装填数を撃ち尽くすまで引鉄は引かれ続け、和咲と和咲が密会していた男性を殺意の鉛弾が貫いていく。血塗れの男女は死の舞踏を踊り切り、観客達はその姿を見届けることなく、悲鳴とともに我先へと店の外へ逃げ惑う。


 数刻後には、電波に乗って残虐非道な殺人鬼と喧伝される那美川優飛は、無惨な死体を前にして、満足気に嗤っていた。

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