第10話 妹は姉の喜ぶ顔が見たい


 家族というものは、私にとって他人と大した違いはない。


 血の繋がり、日常の共有、親密さ……そういった目に見えない不確かなものの有無による線引きでしかないから、私とは異質で、その全てを理解することはできないという本質になんら変わりがない。


 だから、お互いを慈しみ、信頼し、自己犠牲すら厭わない――そんな完璧な、理想的な『家族』とやらの在り様は歪だ。家族であろうと理由なく愛することはできないし、理由さえあれば憎しみすら抱く。偶然性の産物である家族に、理想という必然性の鋳型をはめることで、吐き気を催すほどの違和感が湧いて出てくる。


 ――本当に、無性に、気味が悪い。


 聖者を称える教義や儀礼が、信仰を共有できない者にとって理解し難く、嫌悪感をもたらすのと同じように、ありもしない理想を盲目的に演じる狂態と欺瞞に全身があわ立つ。


 シェイクスピア曰く、この世は一つの舞台、誰もが与えられた役を演じている。子どもも親も、男も女も、若者も老人も例外なく演者であることを強いられているのだとお姉ちゃんは言っていた。演じ切れなければ壇上から排除されてしまうから、真実、自分の母親の死に際に涙を流せないような異邦人は処刑される運命にあるのだそうだ。たとえそれが、自分の心に誠実であろうとした清廉さ故であったとしても。


 なら、人の世は不誠実な騙し合いにすぎないということだ。自分を、家族を、社会を欺き続ける日常の連続によって誰もが神経をすり減らし、心を摩耗させていく。嘘と偽りだらけの世界で、正しい確かなものを追い求め、人は知らなくてよいことを知りたがるし、隠されたものを暴きたがる。そんなことをしても誰も幸せにはなれないと知りながら、鍵のかかった部屋は開けずにはいられない。


 扉の先にあるのは真実。けれど、真実はありのままの事実とは異なる、脳が恣意的に見せる幻想でしかない。人がその時々に見たいと思うもの、信じたいと願うものを現実に投影する錯覚。


 真実を見つめすぎれば目が眩み、足を踏み外して舞台日常から転げ堕ちていく。壇上の常識も、規範も、倫理も通用しない暗夜行路に放り出され、不安と恐怖に支配された時、ありもしない妄想におののいて、ありふれた誰も彼にもさしたる意味や目的なく人を殺せる瞬間がやってくる。家族であろうと、友人であろうと、恋人であろうと、殺意を抱く相手に例外はない。


 ――人間は、誰かの犠牲がなければ生きることも全うできない悲しい獣なんだということをあの人に見せてあげよう?


 お姉ちゃんは私に道を示してくれた。嬉しそうに微笑む姿を見て、私はとても幸せだった。


(第1章 了)

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