終章    彼の妻である自分が好きだ

 ふぅ、初めてにしては上出来だったのではないか? 誰かの魔法に相乗りして、このような規模のイタズラをしたのは、生まれて初めてだ。なかなかわくわくしたし、兄のあの怯えた顔が水槽にぼんやりと映りこんだときは、なかなか胸がすく思いだった。


「そんな程度の仕返しで良かったの?」


 部屋の隅で壁に背中を預けていたベネットが、不満そうな声だった。ベネットが兄に抱く感情が、手に取るようにわかって、少しおかしかった。


 私の足下に散乱する紙の束を眺めながら、口をとんがらせている。ちなみにこの紙を用意してくれたのもベネットだ。文字は、あの老夫婦から教わっていたから難しい文章でないなら書くことができた。


「ああ、充分だ。ありがとう、ベネット」


「僕はやり足りないと思うけどな」


 散らかした紙をまとめて拾いながら、私はベネットの正直な感想にどこか救われていた。私の生い立ちに、誰も興味関心などないと思っていたから。


「まるで自分のことのように、むくれるのだな」


「だって、ヒューリはもう大事な友達なんだから、その友達がひどく傷つけられた名場面を見せつけられたらねー、僕も腹の虫が収まらなかったっていうか、なんというか?」


「友達? 違うな」


 私は紙を処分しやすいように、小さく小さく折り畳んで、まとめて手の平の炎で燃やしてやった。


「私はお前の妻なのだぞ」


 ベネットがギョッと肩を跳ね上げた。


「そ、その設定は……君の復讐が済むまでの話だろ? このまま続けて、君にどんなメリットがあるの?」


「私は嬉しいぞ。お前といると、いろいろ学べるし、とても楽しい。だが、お前がどうしても嫌だと言うなら、あきらめるが……」


 自分で言ってみて、すごく悲しくなってしょんぼりとうなだれてしまった。


 同じ部屋にいたラファエルが、その手に包まれている球体ガラスを大事そうに撫でながら、太い眉毛を寄せて見守っている。上半身、裸で。私が紙に文字を書いている作業の合間に、筋トレとやらをしていたそうで、現在パンツしか履いていない姿であった。


 横目でラファエルの様子だけ確認できたが、ベネットの反応は……私がうなだれていては、彼の表情が確認できない。


 壁際にいたベネットが、特にゆっくりでもない足取りで、近付いてくる。


 重たい頭を、勇気を出して上げてみると、ベネットが困った子供に苦笑するような笑みを浮かべて、目の前に立っていた。


「嫌なわけないじゃないか! こんなに刺激的でおもしろい魔女が僕の奥さんだなんて、夢みたいだよ」


 何を言われたのか、わからなかった。おもしろいだと? 私はベネットの期待するような事を、ことごとく小規模にして裏切ってばかりいた記憶しかないのだが。お前にとって私は、期待外れのつまらん女としか、思われてないのかと、てっきり……。


 私が上手く返せないでいると、ベネットが急に明後日のほうへ顔を向けてしまった。


「で、でも、君って実年齢がすごく低いそうだから、そのー……子供ができるような事するのは、もっとずっと先にしようね。えっとー、まずは友達から始めたい、かな」


「交尾のことか?」


「だ! だから、そういうことは軽々しく言っちゃダメなんだって」


 そんなに慌てるとは。さっきからずっとベネットがおもしろい。


「軽く言ったつもりはないぞ。大事なことだと、ちゃんとわかっている」


 以前は見上げて微笑んでいた、その相手はもういなくて、今はほとんど背丈の変わらない、この謎の多い青年に向けて笑顔になれるのが、不思議と嬉しくて満たされる。


 血の海を生み出したいほど乞い願った復讐の機会を、思い留まった私は、きっと未来の私からものすごく恨まれることもあるだろう。どうしてあの時、式場に参加して兄にビンタの一つでも喰らわせてやらなかったのかと、過去の私を呪う日もくるんだろう。


「えっと、それじゃあ……ヒューリは僕の奥さんのままでいるってことで、いいんだよね」


「無論だ」


「僕は普段ラファエルと組んで仕事してるから、君と自由な時間はなかなか取れないよ。空いた時間を作りたくても、領土で起きる事件はいつも突発的だから、すごく不定期になる」


「ならば、共に過ごせる時間ができるまでは、フォンデュと私だけで出掛けていよう。私でもお前の仕事が手伝えるならば、積極的に参加したいぞ」


 何もわからないからこそ、なんにでも首を突っ込んでみたいぞ! こやつとなら、がんばれる気がする。言葉にしただけで、こんなに張り切ってしまうのが自分でもおかしかった。


 対して、ベネットはなんだか呆れていた。


「君は誰かの奥さんになる前に、誰かといろんな場所や物に触れる必要があるね」


「私もそう思うぞ」


「それじゃあ、時間ができたら一緒にいろんな所に行こうね」


「ああ、待ち遠しいな」


 待つのは得意だ。さすがに五年も待たされるなんてこと、二度は起こらないはず――


「明日行く? ヒューリに見せたい資料が納まった書庫があるんだ。ここから少し遠いけど、移動魔法を使えばすぐだから、行ってみる?」


「ええ……?」


 びっくりして、ベネットの顔を見つめてしまった。ベネットも気がついて、私に驚いていた。


「どうしたの? 嫌だった?」


「な、なぜ、すぐに一緒に行こうって提案してくれるんだ」


「え? だって君とフォンデュだけじゃ、行ってもわかんないだろ?」


「それは、そうなのだが……」


 私はいつも留守を任され、誰かの帰りを待っている側だった。祖母には置いていかれた。どんなに大変でも、いつも自分が判断して対処に追われていた。それが当たり前のようになっていた。


 本当は初めてのことに対して、不安で怖くて、ずっと誰かに頼りたくて仕方なかったのだと、溢れた涙とともに初めて自覚した。


「すぐに、一緒に行こうって、言ってくれて……うれじかった」


「ええ? 泣くほどぉ? じゃあ一人でどこかに出かけるとき、どうするの?」


「フォンデュを連れて行く……」


 袖でべしゃべしゃに涙をぬぐう。ぼやけた視界が少しはっきりしてきて、ベネットが何か思案しているような顔が見えた。


「それじゃあ、僕が仕事で忙しくて、一緒にお出かけできない日があってさ、ヒューリが遠くまで何日もお出かけするときがあったら、一日の終わりに葉書を書いて、使い魔で送ってよ。それが途切れたら、僕が捜しに行くからね」


 捜しに、行く……?


 連絡が途切れたら? 私たちのことを心配して……?


「わかった! 必ず捜しに来てくれ!」


「うわあ!」


 思わず、ベネットの胸に飛び込んでしまった。


 何年も待ち人からの音信不通に、慣れきってしまった私の心は、感動に熱く茹だった涙でいっぱいになった。



 夫婦というものが、どういう形を示すのか、よくわからない。いろいろな夫婦を観察してみたけれど、それぞれ形が違った。


「できたぞ!」


「なになに!? どんな魔法を開発したの!? それとも何か破壊したのー!?」


「形の良いオムライスだ! この米というツブツブも上手く炊けたし、卵で綺麗に包めたんだ」


「……そうなんだ。すごいねー」


 またある時は、


「大変だー! 時計塔が自爆されちゃう〜!」


「それは大変ではないか! なのに、どうして笑ってるんだお前は!」


「何が原因で故障したんだろ、原因を解明してもっと最強の時計塔を造らないと!」


「……そうか。そういえば、強固なものに改造してゆくのがお前の楽しみだったな」


 ラファエル邸でベネットの仕事を手伝いながら、たまのすれ違いでケンカになったり、そこもまぁ本人の魅力でもあるかと妥協してみたり、私とフォンデュだけで、遠出してみたり。一度だけ帰り道がわからなくなったとき、ベネットがちゃんと迎えに来てくれて、嬉しかった。


「お前はいいヤツだから、他の女に取られないようにしないとな」


「僕は君が変なヤツに騙されて誘拐されないかが心配だよ」


 手を繋いで、帰り道を並んで歩いていった。あの時に見た夕日と、壮大な麦畑が、今でもまぶたの裏に蘇ってくる。私の宝物だ。



                           おわり


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