第12話 海の見える喫茶店
大きな市場には、そのまま住めそうなほど大きくてしっかりしたテントの下で、新鮮な魚が並んで直売されていた。魚介類と磯の香りに慣れない私は、獲れたての魚と何度も目が合うたびに、何をしにここへ来たのか、逐一記憶が飛んでいた。見たこともない鱗の色だ、装飾品に使えないだろうか。どういう経緯でそのような形に進化したのか、問いたくなるほど奇妙な頭部も、ぶつ切りにされて並んでいる。
「初めて見る……祖母から話では聞いていたが、本物はこうなのだな」
「山間の街から出たことないんだっけ? でも街の出身じゃないんだよね?」
いつの間に購入していたのか、ベネットが白身フライなる狐色の串物を食べていた。私は無一文というわけではないのだが、視界に入る食べ物の多さに圧倒されてしまい、何も決められないでいた。
暑さのせいか、食欲が、湧かない……。
靴が痛くなってきた。
でももう少し、景色を眺めていたい。釣具を時間制で貸しているテントがある。武器にも使えそうな形状をしているが、あれは人間に向けて使う物ではない。こうして海から恵みを引き出し、皆と分け合うためだ。
道具だって、そういう使い方をされたほうが穏やかでいられる。
「のど乾いたし、少し休もうか」
「暑い日に、揚げたてを食べるからだ」
それと、その厚着はいったいなんだ。まるでこれから、どこかへ仕事に向かうようではないか。
ベネットが選んだ喫茶店に、少し緊張しながら入ってみると、
「いらっしゃいませ」
カップを洗っていた中年の男が手を止めて、席まで案内した。窓辺から海が見える。バルコニーからも、海が見えた。
「ん? ベネット博士んとこの。戻ってたのか」
店員がベネットに声をかけ、次いで私を一瞥した。
ベネット博士だぁ?
どういうことかと気になったけれど、後ろから他の客がぎゅうぎゅうと入ってきたので、案内された席へと座ることにした。
昼食どきに賑わう店内で耳をすますと、波の音がした。誰だろうか、豆を洗うような音だなんて世間知らずな感想を抱いたのは。
テーブルに水が運ばれてくるまで、私は窓から海を眺めた。ときおり、あれは何かとベネットに尋ねると、丁寧な解説が返ってきた。初耳な内容ばかりで、それがよけいに、ここは異国の彼方なんだと自覚させられてしまった……。
「ずいぶん、遠い場所なんだな……。もしも私に何かあっても、こんなに離れていては急いで駆けつけるなんて不可能だ」
注文したレモネードが二人分、テーブルに運ばれた。メニュー表にある文字だけの料理を頼む勇気がなくて、ベネットと同じ物を頼んでいた。
飲んでみると、すごく酸っぱくて……涙が出そうになった。
「まだ子供だった私を置き去りにして、兄はこんなに、遠くまで……。私が病気や怪我で絶命しても、そのまま腐っていっても、構わないと思っていたのだろうか」
「そんなヤツ、もう捨てちゃえばー?」
面倒臭そうにジュースをすするベネット。簡単にポイと捨てられたら、五年分を恨んでここまで来ていないぞ、と反論しようとした私を遮るように、ベネットは「僕がいてよかったね」と店内を一瞥した。
「君が一人でここに来てたら、今頃相席したがる連中で満席になっちゃうよ」
「んん? どういう意味だ」
「君は数年分を無駄にされたって怒ってるけどさ、まだまだ充分に余裕があるよ。年齢制限のある何かのコンクールに応募してるわけでもないんだろ? なら、幾つになっても前を向いてりゃいいじゃん。今の君、すっごくイケてるよ」
そのイケてるという言葉なんだが、祖母が使っているのを聞いて以来、耳にしたことがない。一周回って、流行りだしたのだろうか。
私も店内をざっと一瞥してみると、少し離れた席から露骨にこちらを指差している若い男共がいた。
「あれ、彼氏かな。めっちゃ仕事着だけど」
「ワンチャン、兄弟とか。お前、声かけて確かめてこいよ」
「え〜、彼氏だったらどうするんだよ〜。俺上手くごまかせないよ〜」
……。
私自身が私を美しいと思えないかぎりは、何を聞いても雑音にしか思えないものだな。私はベネットへと視線を戻した。む、ヤツめ、もう飲み終わってるのか。
「ベネットは今の私の格好が、素晴らしく見えるのか?」
「うん、絶対そっちのほうがいい。初対面のときなんか雑巾みたいなの着てたよね。アレは二度と着ないでほしいな」
雑巾って……人の傑作を……。
口直しにジュースを口にふくんだとたん、急におかしくなって危うくジュースを吹き出しそうになった。
「な、なに? なに笑ってんの?」
「ふふふ、ふふふふふ」
しばらく、笑っていた。
飲み物だけだったけれど、不思議と心と体が充分に満たされた。何が理由で、ここまで満足しているかわからないけれど、私なりに分析するならば、ベネットといるのが楽なのかもしれない。昨夜、責め立てられたことも、よくよく考えれば私の為を思って厳しいことを言ってくれたんだろう……そう思った途端、交尾という言葉は簡単に口にしない方が良いと理解できた。
あれはもっと、双方の心の深い所で同意し合う必要性があったのだ。復讐の片手間に相手の求めに応じるようなやり方は、ベネットに失礼だったんだろう。
今日はやたらと案内したがるのは、昨日の気まずさがあるからだろう。そんなの、べつに気にしなくていいと、言いかけたその時、
「ねぇヒューリ……あのさ、謝らなきゃいけないことがあるんだけど」
「うん?」
「じつは、僕の得意な移動魔法なんだけど……一つだけ、いや二つだけ困った欠点があってさ、一つは、遠ければ遠いほどたくさんの魔素を魔力に変換して使うから、僕がすんごく疲れちゃうこと。だから帰りは徒歩になるよ。もう腕も上がらないから、ヒューリが重たいお土産を買っちゃっても、持ってあげられないや」
「もとよりお前に荷物持ちなんて期待してないぞ。今だってベルトに提げた工具が重そうだし。それで、二つ目は?」
「二つ目はねー、僕が初めて魔法で移動する場所へは、移動距離が遠ければ遠いほど、不確定な日数がかかっちゃうんだ」
「え? 日数? ものの数分で到着したんじゃなかったのか?」
「ラファエルの領地を出発した日から、何日経過したかわからないんだ。確か、お兄さんの結婚式まで、あと十日くらいだったよね?」
……。
「なぁベネット、お前は私にこう言ったよな? すぐに兄に会わせてやると」
「うん。君が歩いてお兄さんに会うよりは、よっぽど早く着いたはずだよ。……そんな表情の消えた真顔で凝視しないでくれよ、悪かったって。近所の時計塔の修理に手間取っちゃってさぁ、君の願いを叶える時間が、なかなか取れなかったんだ。君のやりたいことって、たぶん数時間だけじゃ終わらないだろうし、まとまった時間が取りたかったんだけど、それが返って君との予定を先延ばしすることになっちゃって……言い訳ばっかりだね、ごめん」
そういえば、私が老夫婦のもとで世話になっている間中、ベネットからの連絡は一切なかった。男とは、みんなこうなのか? 兄もこいつも仕事が忙しくなると、待たせている相手の顔が記憶から消えるのか?
「今更、後出しで重大な情報を出すんだな」
「ほんとにごめ〜ん。昨日の夜に、説明し忘れたことを謝ろうと思ってたんだけど……」
「思ってるだけじゃ伝わらないぞ」
「だってさ〜、君が何の恥じらいもなく裸を見せるもんだから、僕もびっくりして、その〜、逃げちゃったんだよ。あのさぁ、僕だって男なんだよ? 冷静に切り替えて本題に入るなんて、無理だよ」
「なんで男だと、本題に入れないんだ?」
「……ハア。その説明は、また後日にしようか。とても長くなるから」
眉間を抑えてため息をつくな! 私がため息つきたいわ。
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