第3話 ⑤

 空には一面を覆う灰色のぶ厚い雲が漂い、陽射しは一切を遮られて、冬の朝は底冷えの寒さとなっていた。ダッフルコートのボタンを上から下まで留め、マフラーと手袋を着用していても寒さには抗い切れず、小さな身体を丸めながら私は学校への坂道を登る。

 違和感は坂の途上からあった。普段も駅から校門に向かう坂道は登校途中の生徒たちが集まる合流地点であるため、賑やかな喧騒がそこここにあるのだが、この日は坂の上からひときわ大きいざわめきが漣のように坂を下り、奇妙な緊張感が生徒を包んでいた。


「元生徒会長が、何ものかに暴行を受けたらしいよ。」

 そんな噂を耳にしたのは、正門を潜ってすぐのことだった。

 卒業生を除けば、杜亜高校で元生徒会長に該当するのは前生徒会長の九条だけだ。昨日対面した時の印象が脳裏を過る。

 網辺ほどではないにしても、彼女もまた正しい行いをしている自負があるように感じた。もちろん、本当に正しき者ならば後輩に圧力をかけて、捜索の妨害を行うはずはない。何かしらの疚しさを持っているはずだ。


 その彼女がこのタイミングで何者かに襲われたというのならば、それはおそらくあの告発状と無関係ではない。囁かれる噂に耳を傾けながら昇降口に入ると、私の下駄箱の前で数人の生徒がたむろをしていた。

 ほとんど顔の知らない生徒だったが、ひとりだけ見知った人物がいた。

「網辺愛梨はまだ登校してないの?」

 丸い顔を緊張で強張らせながら、私とほぼ同じ身長の三品いちごが歩み寄ってきた。今、下駄箱で上履きに履き替えようとしているのだから、他の生徒が登校しているかなんて分かるわけがない。


「さあ、分からないですが、」

 率直に答えると、いちご以外の生徒の顔に苛立ちが浮き上がってくる。

「友達だったら、分かるでしょう。」

「ふざけた態度取ってないで、教えないよ。」

「アンタたちがやったんでしょう。」

 彼女たちは口々に罵るような口調で詰め寄ってくる。その怒りと恐怖に混濁した瞳が、私を咎めるように視線を突き刺し、にじりにじりと距離は縮まってくる。そして、ひとりの手が私の肩を掴んだ。

 人の掌が身体触れ、私の背筋を恐怖が瞬間的に駆け上る。


「いやっ、」

 上級生の手を私は力任せに振り払っていた。

「痛っ。何すんのよ。」叩かれた手をさすりながら、彼女は怒りを露わに顔を赤らめる。「そうやって、法子のことも殴ったんでしょうっ。」

 名前の知らない上級生は掌を振り上げ、感情のままにあたりかまわず叫ぶ。周囲には登校してきたばかりの多くの生徒が野次馬根性を発揮して見ているが、誰も止めに入ろうとする人間はいない。所詮、正義の心を持ち合わせている人間なんていないのだ。


 人が虐げられているのに止めようとしない人間。

 理由も経緯もなく人を罵り、暴力を振るう人間。

 網辺や、痴漢から守ってくれた彼のような人間が、何で少ないのだろうか。悲しさと悔しさで涙が自然と溢れてくる。しかし、このような状況で泣けば、相手に屈したように思われてしまう。それだけは嫌だった。

「一年のくせに、なに生意気な目をしてんのよっ。」

 掌が振り下ろされる。次の瞬間には私の頬を叩いているのだろうが、私は視線を背けなかった。逃げたくなかった。


「暴力行為は停学の対象ですよ、先輩。」しかし、上級生の平手は私を打つことはなく、その寸でで止められた。「卒業間際にそんな不名誉、嫌ですよね?」

 網辺愛梨が忽然と現れ、先輩の腕を掴んでいたのだ。

「出てきたわね。何処に隠れていたのよ。」

 掴まれた腕を振り払いながら、先輩は歯を剥き出しにして吠える。

「私は隠れたりも逃げたりもしないわよ。」

「嘘言わないで。昨日、法子を殴って逃げ出したくせに。」

「九条先輩を?」

 網辺もまだ囁かれている噂を把握していないらしく、首を傾げる。

「しらばっくれても無駄だよ。目撃者だっているんだから。」

 三品が離れた場所から小型犬脳に吠える。


 私と網辺は視線を交わして、再び首を傾げた。話の詳細は掴めないが、端々の情報を繋ぎ合わせると、昨日九条法子が何者かに襲われて殴られた。そして、その犯人は網辺愛梨だと証言する目撃者がいるらしい。

 九条が何処で襲われたか知らないが、網辺は昨日膨大な量の調べ物をしていたのだから、九条に暴行を働く暇なんてない。大体、何で彼女を網辺が襲わなければならないというのだ。口封じに暴力を行使するならば、逆ではないだろうか。


「網辺、ちょっと来なさい。」

 私が三品いちごたち先輩に反論しようとすると、昇降口を上がった校舎の奥から上背のある筋肉質な斎藤教諭が呼びかけてきた。

 教師が現れたことにより、先輩たちも先程のような居丈高な態度を取ることが出来なくなり、「絶対にとっちめてやるからね。」、「偉そうにしていること、後悔するから、」と捨て台詞を残して去っていく。

「網辺っ、」

 呼びかけに応じない網辺に、斎藤はもう一度声を大にして呼び付ける。先輩たちの様子から考えるに、教師の呼び出しの理由はおおよそ察しが付いた。

 細い肩を竦め、網辺は三度目の呼びかけでようやく教師の方へと向かった。

 一体何が起きているのか詳しいことが分からず、私は不安を抱きながら彼女の背中を見送った。


     ※


「大丈夫だった?」

 午前の授業が終わり、昼休みを告げる鐘の音が響くと網辺愛梨はようやく解放されたのか、教室へと戻ってきた。

 黙ったまま席に着き、頬杖を突いて窓の外を眺め彼女の姿は、冬の低い位置の日を浴びて、まるで一幅の絵画のように気高く美しく輝いて見えたが、孤高の飾り物として放置するには、私はすでに彼女に愛着を抱き過ぎていた。

 嫌いだと思っていたことが、まるで嘘のように、私は網辺に気遣いの言葉をかけていた。


「まったくもって大丈夫ではないわよ。」苛立ちにも近い声を上げるのは、珍しかった。「何で誰も彼も頭が回らないのかしら。」

 おそらく、彼女の思考の速度について行ける人間などこの杜亜高校にはいないだろう。

「何があったの?」考えのスピードには付いて行くのはむつかしくとも、話を聞くことならば私にも出来る。「私で良ければ、力になるよ。」

「ええ、もちろん。だって、私の手伝いをしてくれる約束でしょう?」

 確かに、昨日電話でそのような約束を交わしたが、目まぐるしい状況の変化で、私はつい忘れていた。

「薄情ね。」

 薄い笑みを浮かべて彼女は言う。

「申し訳ない、」私は頭を垂れるしか出来なかった。

「その分、働いてもらうわよ。」

「ええ、」

 頷き、私は彼女が教師から聞いた話に耳を傾けた。その内容は次の内容だった。


 昨日、最終下校時刻の見回り時に、二号棟一階の備品室で九条法子が頭から血を流して倒れているのが発見された。見回りをしていた生徒会役員はすぐに教師に伝え、救急車が呼ばれた。頭部を殴られて意識の混濁はあったものの、命に別状はないとのことだが、部屋が暗く記憶も曖昧で九条は犯人が誰なのか分からなかったらしい。しかし、目撃者の証言があった。一号棟から、偶然二号棟の遣り取りを見ていた人物がおり、その人物が網辺愛梨が九条を襲ったと証言をした。

 最終下校時まで校舎にいた生徒たちにその噂は瞬く間に広がり、九条法子が網辺愛梨を訪ねていたことを知る三品などは、噂を真実と確証し、今朝のような行動に出たようだ。

 教師たちも目撃証言がある中で、成績優秀な生徒会長だからと何もしないわけにはいかず、面談という体裁で事情聴取を行ったというのが実情らしい。


「最終下校時刻は、まだ図書館にいたの?」

 話を聞き終え、私はひとまず網辺の不在証明を確認することにした。

「ええ。昨日も話したけれども、調べる情報が多くて思ったよりも時間がかかって、閉館時間ギリギリまで調べていたわ。」

「なら、図書館に調べてもらえれば、アリバイは成立ね。」

「私もそう主張したけれども、教師の中には『それならば、何で目撃証言があるんだ?』って聞く耳を持たない人間もいたわ。私、珍しく頭に来ちゃってね、『なら、その証言がデマであると証明すれば良いのですね。』と買い言葉で応じてしまったの。」

 きっと彼女のことだ、頭に来た買い言葉も感情露わに言うのでなく、静かな口調で凄むように睨み付けたのだろう。


「でも、どうやってデマだと証明するの。さっきの話だと、誰が目撃者なのか教えてもらえていないのでしょう?」

「そうね、彼らは目撃者が不利益を被らないように氏名を秘匿していた。その点は評価するけれども、事件現場の様子を考えれば、誰が目撃者なのか予測は付くわ。」

「予測が付くって、あれだけの情報で?」

 網辺愛梨の観察眼や情報の取捨選択能力にはいつも驚かされるが、何故、他愛もない目撃証言からその人物を割り出すことが出来るのか、私にはさっぱり分からない。

「単純な話よ。私は目撃情報が嘘だと知っているけれども、仮に本当だとすれば、目撃者の条件はどのようなものかしら?」

 はて、教師から得た経緯で、目撃者を特定する条件などあったか知らん。

「最終下校時刻まで残っている生徒?」何とか私は答えを捻り出し、沈黙を回避した。

 しかし、網辺は無情にも首を横に振るう。

「一号棟から二号棟を目撃できる人物よ。」


「あっ、」確かに、先の話で目撃者は一号棟から事件の様子を見たことになっていた。日中はもちろん、暗くなる夕方以降、一号棟から二号棟を詳細に目撃することなんて出来ない。目撃情報の嘘を吐くのなら、もっとあり得べき状況での目撃を主張するだろう。しかし、目撃者は一号棟から見たと教師に伝えた。何故ならば、彼にとってそれは不思議なことではなかったからだ。

 私の頭の中で、目撃者の姿が像を結ぶ。

「骨川有、」


「私もそう考えたわ。」私の呟きに、網辺は静かに首肯する。

 視線は自然と教室内にいる身体の大きな男子生徒へと向けられる。頭のサイドを刈り上げ、前髪や頭頂部は固めて突き立てている。「ははははっ、」ひときわ大きい笑い声が、教室内に響いていた。

 網辺がその知性でクラスを統べているとすると、骨川はその頑強な肉体から放つ暴力によって他者を黙らせている。彼が身勝手な行動をとっても、窘める者などほぼいない。


「骨川くん、少し話を聞かせてもらってもいいかしら。」

 網辺はなんら躊躇することなく、巨体の男子に歩み寄る。

 二学期末のカンニング事件以来、骨川は網辺に対して敵意を剥き出しにしているので、当然彼女の呼びかけに対して素直に応じない。

「聞こえなかった? それとも言葉が分からなかったかしら。」薄い唇に蔑みの笑みを浮かべて、網辺は挑発する。「優れているのは視力だけで、耳も頭も悪いのかしら?」

「さっきから、ふざけんなよっ、」

 突っ立てた髪がまさに怒髪天を衝く勢いで、骨川は振り向きざま怒鳴る。

「良かった。聞こえていたのね。」

「いつもいつも人をバカにしやがって、」

 骨川の太い二の腕の筋肉が隆起し、鉄槌のように大きい拳が強く握り締められた。網辺は冷ややかにその拳を見下ろしながら、笑う。

「こんな大勢がいる場所で暴力を振るえば、信憑性の薄いちゃちな目撃証言とは違って、停学か、私の怪我の具合によっては退学でしょうね。」

 それでもかまわなければどうぞ、と言いたげに彼女は細く長い腕を身体の後ろで組み、無防備を装う。この状況下で、それでも暴力を振るえる人間はまずいない。骨川も悔しそうに歯噛みしながら、黙って網辺を睨み続けた。


「昨日の目撃した状況を教えてもらいたいのだけれども、良いかしら?」

 網辺は何事もなかったかのように問う。当然、骨川は「何でだよ、」と反発する。

「貴方が教師から信用されていないことを改善しようかと思って、」

「どういうことだよ、」

「貴方がせっかく目撃情報を教師に提供したのに、その犯人は解放されているのよ。それは、教師が貴方の話を信じていない証拠でしょう。」

「お前がそれを言うのか?」

「ええ。誰にだって、見間違いはあるわ。でも、勘違いと嘘は全く別物よ。このままでは、信用ならない嘘吐きとされてしまうのよ。だから、貴方が私以外の人間を見間違えていたのだと、私が証明してあげるの。」

「随分と上から目線だな。」歯軋りしていた口の口角が、にやりと吊り上げる。「もしも、証明できなかったら、どうするんだ?」

「証明できないのであれば、貴方の発言は正しいということでしょう。つまり、私が九条法子を殴った。」

「はははははっ、」骨川は大きな口を広げ、教室全体を震わせる勢いで大笑する。「バカだ。こいつ頭のいいくせに、バカだ。」


「どうするの?」

 耳障りな笑い声に眉一つ動かさずに、網辺は冷然と問う。

「ああ、良いぜ。受けて立つぜ。」にやにやと口許を緩めながら、骨川は教室を見回した。「おい、福家ちょっと来い。」

 自席でお弁当を広げていた福家を、骨川は大声で呼び付ける。

「第三者がいたほうが、ちゃんと証明できているか判断できるだろう。」

 太い腕を福家の細い首に絡み付かせ、骨川は歯を剥き出して笑った。

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