第3話 ③

 坂道を下り、駅に着くと辺りはすっかりと暗くなっていた。会社帰りのサラリーマンや部活終わりの学生たちで駅の周辺は賑やかで、高台のマンションに吹く乾いた風とは違う、湿気と臭気が入り混じった空気が漂う。

 改札で網辺と別れ、私はひとり帰宅者で溢れるホームに佇んで、反対ホームにいるはずの彼女を探すが、見当たらない。結局、三品いちごから得るものはほとんどなかった。その為か、帰り道の網辺も口数少なく、別れの言葉を交わしたくらいだった。


 しかし、私の頭の中に確かにいちごが漏らした『塚田』という名前がこびり付いていた。その名前から連想されるのは、丸々と太った読書会メンバーの塚田健だ。

 物知り顔で様々なことを語る彼の顔が浮かび、読書会でドッペルゲンガーについて情報を多く語っていたのも彼だった気がする。今回の告発状と何か係わりがあるのだろうか。


 ぼんやりと考えている内に、警笛を鳴らしながら電車がホームへ滑り込んできた。吐き出される人の波を避け、開いた口に入り込むと、エアコン特有のむっとした暖気が人の汗と衣類の埃をない交ぜにした悪臭を充満させていた。顔を顰めながら、私は反対ドアに背中を預けて立つ。

 電車がゆっくりと走り出すと、慣性の法則で乗車客の身体がわずかに傾ぎ、隣に立つ大学生の腕が私の肩にぶつかった。瞬間、私の身体は硬直し、途端に汗が噴き出してくる。

 身を縮こまらせていると、電車は次の駅に止まった。今度は私が背を向けていた扉が開き、大学生をはじめ幾人かの乗客が降りていく。私も一度電車から降り、ホームの乗車客が乗り切るのを待ってから再びドアに背を持たせる格好で乗車する。車内で私は人に背中を向けるのを避けている。

 理由は明確だ。二年前に何度か痴漢に合い、それ以来の防衛方法で背後を取られないようにしている。接触するのも極力避けたい。特に男性と電車内で身体が触れあうと、当時の恐怖心が蘇り、にわかに身体が竦んでしまうのだ。


 当時、中学二年生の私は思春期の女子らしく、可愛くあろうとお洒落に気をかけはじめていた。しかし、小柄で着飾った少女は変質者の格好の標的なのだろう、電車に乗るたびに何度も執拗に身体を触れられた。まだ性に対して多くを知らない無垢な年齢であったため、言葉としての変質者は知っていたが、成熟していない少女の肉体に触れることにどのような快楽があるかのまったく理解できていなかった。だから、最初に痴漢に遭遇した時の恐る恐ると遠慮するような手の動きは、満員電車で偶然起きたハプニングだと思った。しかし、二回目三回目と回数を重ねるごとに、その手の動きは露骨に、確信犯的に衣服の上を這い、そして服の中へと侵食してきた。


 私は恐怖で何も出来ず、ただただ震えていた。周囲の大人たちは私の異変を奇異なものを見る視線で見るだけで、冷たく突き放す。誰も助けてくれない孤独と、這いずる掌が次に何をしてくるか分からない不安が、恐怖となって私の意思と自由を奪っていた。

「ちょっと来て、」

 電車が駅に止まると、途端に私は腕を掴まれてホームへと連れ出された。恐怖から身体は震え、視線は足元を見ているだけしか出来なかった。


「大丈夫だった?」

 優しく労わる言葉に私が顔を上げると、そこには、ひょろりとした体格の穏やかな目元をした男性が、腰をかがめて私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?」

 男はもう一度、励ますような口振りで繰り返した。

 唐突に、私の目には涙が溢れてきて、堪える暇もなくぼろぼろと零れ落ちる。嗚咽も咽喉から零れ、私はホームで人目を憚らず泣いた。

 男の視線だけが優しく、それ以外の人間は泣きじゃくる少女を探るように一瞥するだけで、すぐに何処かへ立ち去ってしまう。無責任の集団の中で、彼だけが私の心が落ち着くのを待ち続けてくれた。


「ありがとうございました。」涙が止まり、感情の波も収まった時、私は彼にお礼を言った。「助かりました。」

「もっと早く気が付けばよかったんだけれども、ごめんね。」

「いえ、十分助かりました。」

 頭を下げ、私は新たに到着した電車に乗り込もうと踵を返した。大泣きしていたため、もう何本もの電車を乗り逃して、本来の時間から大幅に遅れている。しかし、脚がなかなか前に出ず、乗車することを身体が拒む。膝が微かに笑い、あの不快感と恐怖がどっと背筋に蘇る。でも、乗らなきゃ。

 頭は合理的に意思を決定するが、心はそれを拒み、身体は二つの指示に挟まれて硬直する。発車ベルが鳴り、扉が空気の抜けるような音を響かせて、ゆっくりと仕舞っていく。ああ、結局乗れなかった。諦めの気持ちが過った瞬間、私の腕は再び掴まれて、今度は電車の中へと導かれていた。


「目的の駅まで、一緒にいるよ。」

 細い目をいっそう細めて、彼は穏やかに微笑んだ。

 混雑している電車を何本も逃したため、車内はすし酢目状態ではなかった。それでも彼はともにいてくれて、私が不安に駆られないように手を握ってくれていた。大きな手に包まれ、その時だけは何も怖がらずに電車に揺られることが出来た。


「もしもまた何かあったら、連絡して。」

 目的駅に到着すると、彼は自身の携帯電話の番号を私に伝え、去っていった。

 名前や素性は何も言わなかったので、私はヒーローという名前でその番号の登録をした。家族以外の唯一の連絡先だった。

 同じ電車を利用していたのだから、再び彼に会えるのではないかと、私は密かに期待していた。しかし、彼ともう一度巡り合うことはなかった。痴漢に合うこともその後なかったので、登録された番号に連絡することもなかった。ただ、困っている人間を助ける、正しいことをする正義の味方として、彼の姿は私の中で残り続けた。

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