第3話 ②
「三品さんはまだクラスにいるかしら。」
森が健在で図書当番の割当て日であれば、すでに図書室にやって来ていただろうが、残念ながら当分彼女が自発的に図書室にやって来ることはないかもしれない。そうすると網辺が懸念する通り林檎を探さなければならないが、教室にいなければ部活に所属していない彼女を見付けるのは一苦労だ。もしかしたら、話を聞けるのは後日になってしまうかもしれない。
「連絡先は知らないの?」
図書室をあとにして、一年生の教室が並ぶフロアに戻りながら、不図思い出したように網辺が尋ねてくる。
急ぎの用事があるのであれば、メールなりSNSなりで連絡を取れば、わざわざ相手を探さなくても済む話ではある。しかし、残念ながら、私の携帯電話には家族以外の連絡先はひとつしか登録されていない。それも、杜亜高校の知り合いではない。
「それは面倒ね。」
私の説明を聞き、彼女は大きく溜息を吐く。
その吐息を耳にしながら、無能な人間と失望されてしまったのではないかと戦々恐々と小さい身体をより縮こまらせる。
「貸して頂戴。」
「何を?」
「スマホよ。」
林檎の連絡先は登録されていないと伝えたのに何に使用するのだろうか、私は訝しがりながらも、鞄の中から携帯電話を取り出し、網辺愛梨に渡した。
セキュリティーを設定していない私の携帯電話を細い指で巧みに操作をし、もう片方の手にはいつの間にか彼女自身の携帯電話が握られ、左右の手で器用に画面をタップする。
しばらくすると、彼女は「はい。」と私の手に携帯電話を戻してきた。
「何かあれば、いつでも連絡をして。」
言っていることがよく分からなかったが、携帯電話の画面へ視線を落とすと見慣れないアイコンが表示されていた。タップすると、ただひとつ網辺愛梨のアカウントが登録されている。
「これって、」
「私の連絡先よ。迷惑であっても、消さないでね。」
ぶるぶると私は切り揃えたおかっぱ頭を激しく左右に振って否定する。そんなことは絶対にしない。
「あ、ありがとう。」声がかすれて感謝の言葉は上手く発せられなかった。
「さあ、行きましょう。」
私の言葉は届かなかったらしく、網辺は止めていた足を再び前へと動かして廊下を進む。一度前を行かれると、脚の長い網辺に追いつくには足早に歩かなければならない。
それでも、不思議と追い付くのにいつもよりも手間取ってしまった。まるで彼女も足早に歩いていたかのようだ。
歩行速度が増していたため、一学年のフロアにあっという間に戻ってこられた。教室のいくつかではいまだ清掃を行っており、私はそこで林檎が今週掃除当番であることを森が襲われた時に聞いていたことを思い出す。
「たぶん、林檎はまだ教室にいるはず。」
あの日も友達と話が弾んでゴミ捨てを忘れていたというから、恐らく今日も同じようにお喋りをしながら箒を掃いているのではないか。速足のまま彼女のクラスに向かうと、果たして三品林檎は男女交ったクラスメイト達と楽しそうに会話をしていた。
皆の手は止まり、まったく掃除をしていないことに他人の教室ながら苛立ちが募る。もしもしこれが私のクラスでの一場面であれば、私は声を上げていただろう。冷たく突き刺さるような怠け者たちの視線を考えると、わずかに足が震える思いもするが、きっと私は言わずにはいられなかったはずだ。
「掃除の途中でなければ、少し時間いただける?」
皮肉以外の何ものでもない言葉を発しながら、網辺はゴミが転がる教室へと踏み入る。
「げっ、」と男子のひとりが低い悲鳴を上げ、「やぱっ、」と女子は口に手を当てる。我が校の生徒会長が規則に厳しいことは同じ一年生であれば知るところで、その彼女に清掃のサボりを見咎められてしまった。皆が一斉に顔を青くなる。
たぶん、私が注意したところで無視されるか反発されるかだろうから、やはり網辺愛梨は狡い。
「三品さんに話があるから、掃除が終わるまで待たせてもらうわね。」
モデルのような長身痩躯を鉄扉に凭せ掛け、彼女は教室内を睥睨する。それは無言の圧力になり、手を止め口を動かしていた生徒たちをきびきびと動かしていく。ただひとり、林檎だけは唐突な来訪者にぽかんと口を半開きにしていた。
「ほら、林檎も掃除して、」
「あ、うん、」
呆然としていた林檎も友人に責付かれて床を掃き、生徒会長の監視下の元で本来は日没まで時間のかかっていた清掃が瞬く間に終わりを迎える。
「それで、話って何?」
教室後ろに下げていた机を元の位置に戻し終えると、林檎は小さな身体を網辺の高い身長の前に向き合わせる。見上げる視線は先程までの呆然としたものではなく、眦を吊り上げて微かに怒りを湛えている。
そうか、林檎にとって網辺愛梨はいまだに恋敵なんだ。
もしかすると、用件は一筋縄ではいかなくなってしまうかもしれない。心の中で、私は頭を抱える。問題の難易度が上がったことと、彼女の感情を配慮できなかった自分自身に。
「話は二つあるの。」網辺は人差し指と中指を立てる。「まず一つは、入院中の森からの言付けよ。」
ぴくりと林檎の瞼が動く。
「『心配をかけて、ごめん。オレがいなくても、図書室には遊びに来て』とのことよ。」
「先輩が、私に……、」
「ええ、」
網辺は神妙に頷くが、私は隣で首を捻っていた。
今日、林檎に会いに来たのは斎藤から彼女の姉の名前が上がったからだ。もしも林檎に会う必要がなければ、網辺はいつまで言付けを預かっていたのだろうか。
「それで話って何?」
一分前と同じ言葉だが、その抑揚はまったく異なり、そこに敵意や怒りなどは感じられず、いつもの林檎らしい朗らかさがあった。
「お姉さんに会わせてもらいたいの。」
「お姉ちゃんに?」
小動物のように林檎は可愛らしく首を傾げる。
「今年卒業生する三年生に、生徒会長として色々と話を聞きたいの。」
「ふーん、生徒会長も大変なんだね。」
「そうね。」
細い肩を竦め、網辺は暗に同意する素振りを見せる。しかし、今回の頼みは生徒会長としての職務でもないし、三年生全般に聞き取るものでもない。嘘は吐いていないが、網辺は見事に林檎の理解を誤導した。
人を欺くことは褒められたことではないが、あの紙切れの文章の真偽が定まっていない現状で多くの人間に知らせるのは控えたほうが良い。
「たぶん、卒業式まで時短授業になっているから家にいると思うけど、来る?」
「お邪魔でなければ、伺わせてもらいたいわ。」
「うん、いいよ。」林檎は笑顔で頷く。「お姉ちゃんとの話が終わったら、森先輩の話を聞かせてね。」
ふわふわとした可愛らしさが前面に立つが、林檎は意外と抜け目がない。
※
犬で例えればポメラニアンやトイプードルのようなもこもこふわふわとしたイメージの林檎だから、自宅も瀟洒な一軒家を想像していたが、豈図らんや、招かれた家は築年数が私たちの倍はあろうかというマンションだった。
坂の上に建つその集合住宅はエレベーターがなく、階段を上る途中の踊り場を曲がるたびに見晴らしがよくなり、五階に辿り着いた時には周囲の景色を一望できた。坂道と階段で体力は使うが、吹き付ける冬の寒風すら風景と相俟って気持ちよく感じる。
ウェーブのかかる細い髪が乱れるのを抑えながら、林檎は塗装が幾か所か剥がれた玄関扉の施錠を解く。
「ただいまあ、」
玄関を上がると、すぐ左手に台所があり、四人掛けのダイニングテーブルが鎮座している。表面にはビニール製のクロスがかけられ、蛍光灯の明かりを鈍く反射している。
先日、網辺の家で看病してもらったが、彼女の家は邸宅という言葉がしっくりとくる三階建ての立派な住居だった。そのため、一般的な家庭である三品家がうら寂れて感じてしまうが、それは乾いた醤油の染みがビニールクロスにこびり付いているからではないだろう。
「こっちの部屋。」
私たちの視線を強制的に導くように、林檎は足早に台所を抜け、廊下とも呼べない短いフローリングの通路の右手側の扉を示す。木枠と塗装されたベニヤで作られた防音性など感じられないその扉には、アルファベットでICHIGO&RINGOと表記されたプレートがぶら下げられている。
「お姉ちゃん、いる?」
ノックもなく、林檎は扉を勢いよく開く。
「んー、」
姉妹共有の六畳間はベッドと机が二つずつあり、箪笥や物置棚が並ぶと残りの床面積は手狭だった。その猫の額のように狭小なスペースに、クッションを置いて寝転がりながら携帯電話を弄っている少女と目が合う。
脱色した茶色の髪は細く柔らかそうで、掛かる頬もスフレのようにふっくらとした丸みと柔らかさがある。わずかに甘い匂いがするのは、口に咥えたチョコ菓子の所為だろう。
「おかえりー、」いちごは口にしていたチョコがかかった棒菓子を食べ、右手を持ち上げてふらふらと私たちに振る。「お友達?」
「ちょっとお姉ちゃん、起き上がってよ。」
寝転がったままのいちごに歩み寄り、林檎はその小柄な身体を揺さぶる。林檎としては家族の恥部を見られるようで恥ずかしいのだろうが、傍目には小型犬がじゃれ合っているような微笑ましい光景だ。
「生徒会長の愛梨ちゃんが話を聞きたいんだって、」
「生徒会長?」いちごは身体を起こし、私たちを見上げる。「へえ、小さくて美人さんだ。」
「そっちはまりちゃん。愛梨ちゃんは隣の背が高い子。」
「ごめんごめん、」
いつぞや生徒会長でも学年が違えば顔の認知はされていないと塚田が言っていたが、いちごも網辺愛梨の容姿を知らなかったようだ。
起き上がったいちごはショートヘアの柔らかい髪を掻きながら謝り、自身が寝そべっていた床にクッションを二つ並べて私たちに勧める。
「どうぞ、座って。」
林檎といちごはそれぞれのベッドに腰を下ろす。二人はよく似ているが、ウェーブした髪を長く伸ばした林檎に対して、いちごは肩口辺りで切り、頬もわずかに妹よりも丸い。そのせいか、姉のいちごの方がむしろ幼く感じ、ふわふわと癖のある髪質も相まって、西洋画に出てくる天使のような印象だ。
「それで、話って何?」
姉妹だけあり、座った私たちに対する話の切り出しはそっくりだった。
「これを見てもらって良いですか。」網辺は例の紙切れを取り出し、いちごへと手渡す。「図書室で見付けたんです。」
「ラブレターか何か?」笑いながら紙片を開くと、いちごの表情が凍り付いた。
「何が書いてあるの?」
姉の異常に気付いたのか、ベッドから身を乗り出して林檎も紙切れを覗き込もうとする。しかし、いちごは素早く紙を畳み、「お客さんにお茶出さないとダメでしょ。」と林檎へ指示を出す。
不服そうに頬を膨らませるが、姉に「ほら、速く。」と強要されれば、年下の妹は従わざるを得ない。
「これは、何?」
妹が部屋を出て行ったのを確認し、いちごは色素の薄い茶目で睨んできた。
「むしろ、私たちがそれを知りたくて、やって来たんです。」
網辺は穏やかならざる文章が書かれた紙を見付けた経緯と三品いちごを尋ねることとなった理由を簡潔に伝える。
「それで、ここに書かれている『犯罪』とは何なの?」
「マジ先生だって教えなかったでしょう?」
「教えて頂けていたら、先輩を煩わせずにすんだのですけれどもね。」
「じゃあ、私も教えられないよ。きっとただの悪戯でしょう。」
ぷいといちごは窓へと視線を向け、硝子の向こうに映る乾いた冬の夕空を見詰める。高台にある高層の部屋から眺める夕陽はいまだ沈んでなく、時間の感覚が平地とは異なっているようだ。
「ドッペルゲンガーが目撃された付近から見付かったのですが、それでも悪戯だと思いますか?」
視線を逸らし続けるいちごの横顔を見詰めながら、網辺は質問を続ける。だが、網辺のドッペルゲンガーが借り出ししていた本の頁から見付かったことが、今回のことと係わりがあるのだろうか。
「塚田の、」
ぽつりと漏らし、赤い夕陽に照らされていたいちごの顔が瞬く間に蒼白くなるのが傍からでも分かった。
「例え何か悲劇的なことが起きたとしても、全容を知らない私は何も手を打つことは出来ません。お気を付け下さいね。」
言い聞かせるようなゆっくりとした口調で言うと、網辺は床から腰を上げる。慌てて私も従い部屋を出ると、廊下に立っていた林檎と鉢合わせた。
気まずそうに彼女の視線が泳ぐのが分かる。立ち聞きしていたのかもしれない。
「ごめんね、もう帰るね。」
お盆に乗ったお茶が申し訳ないが、小さな家をさっさと出て行く網辺の背中を追って私も暇乞いをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます