第2話 ⑦
「待たせてしまったわね。」
図書室を訪れた私を待っていたのは、まるで件のドッペルゲンガーのように窓辺に佇む網辺愛梨だった。
一日が過ぎ、私の体調もすっかり調子を取り戻して、一日の学業を終えたところであった。
網辺は今日一日教室に現れることはなく、風邪を感染させてしまったのではないかと不安を抱いていたが、その口許に浮かぶ微笑を見れば、それが杞憂であったことが分かる。
「待たせたのは私のほうでしょう?」
授業終わり、網辺愛梨が休みでは事件のことを聞くことも叶わないと思い、現場を調べようと図書室へとやって来たのだが、豈図らんや彼女はそこにいた。
様子を考えると、この場でしばらく待っていたのではないだろうか。
「いいえ、貴女の疑問を一日待たせてしまった。」
「じゃあ、」
「おとといの放課後、この図書室で何が起きていたのかを教えるわ。」
網辺は死角となって見えない図書カウンターへと視線を向けながら、「ただし、」と一言前置きをする。
「事件については、貴女の胸の内だけに留めておいて。」
「猿渡の時のように、犯人に対してすでに何かを施しているの?」
凶器を用いて人を殴る行為は、社会的ルールから逸脱した悪だ。それを無視し、凶行に及んだ人物を私は見逃すことが出来ないし、生徒の学校生活を率先して守る生徒会長も同じだと信じている。だから、事件を秘匿する旨の指示に、私は何かしらの理由を読み取った。
「いいえ、今回は何もしていないわ。」
しかし、彼女はゆっくりと首を振って否定する。
「何で?」それでは被害者の気持ちはどうなるの。
「もちろん、貴女が犯人の行動をどうしても許せないのならば、止めることは出来ない。でも、私の話を聞き終えた後、少しでも同情する気持ちがあれば、事件について黙っていて欲しいの。」
愁いを帯びた眼差しで私を見詰め、網辺は頭を下げた。
らしくない。この事件に関して、何故か網辺愛梨は正道を行く堂々とした気風を感じさせない。何が、彼女をそのような心持にさせるのだろうか。やはり、森大地とはただ親戚という間柄だけでおさまる仲ではないということなのだろうか。
「分かった、」
納得は出来なかったが、事件の全貌を知らなければ判断は出来ない。私はひとまず、頷くことにした。
「ありがとう。」網辺は微笑み、窓の外へと切れ長の目を流す。「まずは被害者と加害者を断定しておいたほうが良いわね。」
網辺は自身が立つ図書室最奥のスペースの窓はそのままに、手前のカーテンを閉めて、おとといの事件発生時と同じ状態を作り出す。
「被害者は森大地。これは正当防衛で反撃にあったとかではなく、純然たる被害者。」
「じゃあ、加害者は?」
「貴女が追い駆けた、図書室から逃げて行った少女よ。」
示されたその構図は、私が想像していた事件図とは真逆の人物配置であった。
「でも、私が見たのは何者かに女の子が頭を殴られる姿だった。」
「正確には、髪が長く、女子の制服を着ている誰か。」
えっ。
その意味を理解するまで、私の頭の中で壊れたレコードよろしく何度も網辺の言葉をリフレインする必要があった。そして、ようやく理解できた時、森が少女に殴りかかったという想像よりも信じられない構図が眼前に提示されたことに衝撃を受けた。
「それって、あのドッペルゲンガーの正体が森先輩だってこと?」
「ええ、そうよ。」
躊躇いなく、網辺は細い顎を引いて頷く。
「でも、男子が女装したところで、」網辺愛梨のように美しい姿になれるとは思えない。否定の言葉が、しかし途中の喉元で止まる。
いや、私は網辺と森が従兄妹だと知った時に思ったはずだ。二人は似ていると。
それに、間近で見るのと違い、離れた場所から校舎の中にいるのを見ただけでは、その特徴的な長い髪が印象に留まり、正確な顔立ちなど分からない。体型や身長が凡そのところで似ていれば良いのだ。
女子にしては背の高い網辺と森は、よくよく考えれば背格好も近い。確かに変装すること自体は無理な話ではないのだろう。でも、
「何で、森先輩は女装なんて――しかも従兄妹の格好を真似るようなことをしたの?」
「それは分からないわ。でも、以前からの常習犯ではあったようね。」
「常習犯って、今まで目撃されていたドッペルゲンガーも先輩だったの?」
「状況から考えれば、そういうことになるわね。」網辺は本棚から以前私が話した、彼女の名前で貸し出しをされている本を取り出す。「本の貸し出しは、正式な手続きを踏まえてされているのは、図書当番による貸出印が捺されていることから明らかね。」
貸し出しカードを抜き出し、彼女は私に確認を求める。しかし、矯めつ眇めつ何度もそのカードを眺めてきたので、今更確認するまでもなく、網辺愛梨の名前の横に貸出印がしっかりと捺されている。
「森は図書委員なのだから、当然他の委員会メンバーも彼の顔は把握していて、女装した格好で本を借りることなんて出来ない。まして、他人の名前を使ってなんてね。」
「それだと、ドッペルゲンガーは彼ではないという話にならない?」
「いいえ。彼が当番の日に、彼自身が印鑑を捺せば、他人の名前を騙ろうと、生徒証を持っていなくても、本を借りることは出来るわ。」
それはあまりに単純な答えだった。でも、反論を上げるならばそれは図書委員ならば、誰でも可能であったことになるのではないか。
その点を質すと、彼女も同意の頷きを示す。
「背格好が近ければ、どの図書委員でも可能ね。でも、今回の事件が起きたことによって、それは確定されたの。」
「どういうこと?」
「服を脱がされていたということは、人に見せられない姿だったということよ。」
確かに男子生徒の女装した姿は、例え綺麗に仕上げてあったとしても、不特定多数に晒すものではない。それは美醜の問題ではなく、個人の尊厳の問題だ。本人が望んで公開するのであれば、その性的指向は認められるべきだが、望まぬ形で晒されれば、それは本人を傷付ける醜聞となりかねない。あらぬ疑いや噂は厳に慎むべきで、面白おかしく他者を物色する視線も控えるべきだ。
「でも、犯人が何で被害者のことを慮るの?」
犯人以外、森の服を脱がすことは時間的にできなかったはずだ。すると、犯人は森を襲っておきながら、彼の体面を守ったことになる。これは矛盾しているのではないだろうか。
「犯人は、森を襲うつもりではなく、網辺愛梨を襲ったつもりだったとすれば?」網辺は自らの口から、自分こそが本来の標的であったのではないかと推測を述べる。「網辺愛梨が図書室奥の窓辺にいると思って、犯人は森を襲い、襲い終わった後に被害者が森だと気が付いた。」
確かに、彼女の指摘通り犯行の瞬間ドッペルゲンガーは犯人に背を向けており、後ろ姿だけではその長い黒髪から網辺愛梨と勘違いし続けた可能性は高い。
「それで、誰が森先輩を襲ったの?」
ここまでの話を繋げると、犯人は網辺愛梨に敵意を持ち、森大地に対しては好意を抱いている人間だ。
そこまで考え、私の脳裏には三品林檎の可愛らしい姿が過る。
「犯行状況から、犯人を特定していきましょう。」私の不安を余所に、網辺は人差し指を持ち上げる。「まず第一に、私が図書室で森と逢引きをしていると勘違いする可能性がある人間。」
該当するのは私たちが定期的に行っている読書会のメンバーだ。先日の『二つの手紙』の読書会の折、ドッペルゲンガーの話題から網辺愛梨が図書室で逢引きをしている可能性は話された。その時、犯人の心ににわかに敵意が生まれたのかもしれない。
「二つ目は、図書室の電灯のスイッチの場所が分かっている人間。」
中指も立ち上がる。一つ目の指摘は理解できたが、二つ目の指摘は何故犯人特定につながるのか、私には分からなかった。
「貴女が裏門から図書室を監視している時は、電気が点いていたはずよ。でなければ、室内にいる人間を見ることなんて出来ないのだから。」
わざわざ考えることもなかったが、カーテンにシルエットが映るということは内側に光源があったということで、ならば図書室の蛍光灯は明かりを発していたのだろう。
「でも、貴女が図書室に駆け付けた時や私と二人で森を発見した時、電気は消えていた。つまり、犯人が電源を落として、消したことになる。」
私が最初に図書室に向かった時、部屋の中は真っ暗で、電気のスイッチを探したが分からなかった。普段から図書室を訪れていても、電源の点け落としは管理する図書委員が行うので知る機会はなかなかない。
「もちろん、図書委員とお喋りをしていて、たまたま点灯や消灯を目撃した可能性はあるけれども、人数は少ないはずよ。」
図書室常連の私すら知らなかったのだから、決して多くはないだろう。でも、読書会メンバーから人間を狭めるほどの条件とは言えない。
「三つ目は、森が着ていた女子の制服を着こなせる人物であること。」薬指が立ち、犯人特定の要素の三つ目が指摘された。「森が脱がされた制服は現場になかったのだから、犯人が持ち去った。そして、その直後に焼却炉に制服と鬘が捨てられているのが発見された。事実関係から、捨てられていた制服は森が着ていた制服と考えて間違いない。では、どのように運んだかと言えば、手荷物を持っていなかった点から、着衣したとしか考えられない。」
読書会メンバーでは、塚田は体型的に細身の森が来ていた制服を着ることは出来ないだろう。斎藤真字と福家玄夜はどうだろうか。身長は高いが、太っているわけではないので女子の制服を着ることは出来そうだ。
「犯人が元々着ていた服の上から制服を着たはずだから、スーツや制服のズボンは捲り上げにくいから目立つはずだけど、どうだったかしら?」
唐突に質問を投げかけられ、私は急いで記憶の戸棚を開く。蛍光灯が歯抜けで並ぶ薄暗い廊下を走る制服姿は、翻るスカートの裾からふくらはぎが覗かせていた。
つまり、この指摘で男性は排除された。残るは三品林檎と鈴宮りえの二人で、彼女たちならば網辺愛梨に対して恋敵と勘違いする可能性はある。
「四つ目は、身長が森と同じぐらいであること。」
小指が立ち並び、指のひとつひとつの長さはまちまちで綺麗に整列している印象はない。だが、おとといの夕方、裏門から見上げた図書室の窓に映ったシルエットと女装した森の身長はほぼ同じだった。つまり、私と背丈が近い林檎はあのシルエットの主ではない。
では、鈴宮が森と同じ身長だったかを思い返すと、図書室で二人が言い合っている時に、目線が真正面で向き合っていた情景が蘇ってきた。
「最後に、犯人は黒い手袋をしていた。ランニング中の運動部員のようにね。」
親指が開き、掌が華のように開花した。
普段、掌が差し出されることに不安や恐怖を抱く私だが、その手は熱にうなされる私を助けてくれたもので、危害を加えてくるものではない。安心して私は指摘された五つの要点を見つめ返すことが出来た。
「網辺さんは、事件の真相を秘して欲しいと言ったけれども、あなた自身はそれで良いの?」
今、彼女の口から語られた真相は、犯人は被害者の森を誤って襲ってしまい、本当の目的は網辺愛梨自身を強襲することだった。本来狙われていた彼女が、犯人を見逃すことは再び襲われる可能性を生み出すだけではないだろうか。
「今回のことを公表しても、誰も幸せにならないわよ。」
ゆっくりと頭を振り、彼女は沈みつつある窓の外の夕陽へ視線を向ける。
「鈴宮さんは確かに暴力で自身の感情を解決しようとした。その点は咎められるべきだけれども、森の名誉を守るために危険な賭けを行った。犯行後、すぐに逃げ出すことも出来たのに、ドッペルゲンガーは別にいると思わせて、森の女装趣味が公にならないようにした。それなのに、私たちが鈴宮さんの隠そうとした真実を白日に晒して良いのかしら?」
如何なる理由があっても、暴力を振るうことは許されない。感情の赴くままに隣人に手を上げれば、暴力は瞬く間に世界に広がる。それを抑止するためのものが、法であり規則だ。正義は、これらに従い世界を守るものだ。
でも、世界とは何だろうか?
国や土地を示すものだろうか。
己が認識できる空間のことか。
それらも間違いではない。でも、私が守るべきだと思う世界は、人と人が繋がり合う輪っかであり、その輪を乱すものは罰せられるべきだと思うし、零れ落ちる個人は救うべきだと考える。
鈴宮りえは輪を乱した。
しかし、その行為を罰する時、森が輪から零れ落ちる可能性がある。それは憂慮されるべき点だ。
私の心は大きく揺らいでいた。
「もちろん、森自身が犯人を追及することを望むのならば、私は自分の推理を知らせるわ。でも、それまでは黙っていて欲しいの。」
迷いはあった。弱みを晒したくないから、被害者は沈黙せざる得ない状況になっているのではないか。ただの泣き寝入りとなってしまうのではないか。それならば、誰かが声を大にして叫ばなければならないのではないだろうか。
「大体、アンタはそっち側の正しさだけ主張して、こっちの気持ちなんてこれっぼっちも考えようなんてしていない。規則に従えて、イイ子イイ子してもらえるんだから、とても楽でしょうね。」
猿渡の絶叫が鼓膜の内側で響き渡る。
ルールは平等だ。こちら側もあちら側も存在しない。でも――、
「私を信じてくれないかしら?」
犯人を指摘した五つの指が開いた掌は、いつの間にか私の手を求めるように突き出されていた。
躊躇いがまったくなかったわけではない。それでも、私はおずおずと手を伸ばし、彼女の掌を握った。
私ひとりが正義を振り回していても、それは結局独善でしかないのかもしれない。だから、網辺を信じることにした。彼女の手は力強く、きっと私を導いてくれる。おとといの薄暗い廊下の中のように。
※
「ありがとう。」
握り合った手を離すタイミングが分からないまま、私たちは二人で何層にも色を積み重ねたグラデーションの夕空を見ていた。
「何が?」
網辺が口にした感謝の言葉が分からず、私は彼女の横顔を見上げた。
「私のために、寒い中でも裏門でずっと図書室を監視し続けてくれていたんでしょう?」
「えっと、それは、」
謂われない噂で、網辺が輪の中から弾き出されるのが嫌だった。でもそれは、誰に伝えるでもなく自分の胸の内に仕舞っていた。なのに、彼女は感謝の言葉を口にする。
私の手は、繋いだその接続部から急激に熱を帯び、たちまち体中が熱くなる。
「私も、看病してくれて、ありがとう。」
「病人を見捨てるなんて、出来ないわよ。」
ああ、やっぱり彼女は正しい。
切れ長の怜悧な瞳はあらゆるものを見逃さず、美しい稜線を描く鼻梁を下って、知的な微笑を浮かべる唇はあらゆる状況下で正しい言葉を紡ぐ、欠如など存在しない、完璧な横顔に私は見惚れた。
「私もこの本を読んでみようかしら、」
先程本棚から取り出した、一度彼女の名前で貸し出しがされている本を網辺は手に取る。
私は繋いでいた手を放し、鞄の中から筆記用具を取り出して彼女へ渡す。
「二回も借りるって、その小説がすごく好きな人みたいだね。」
「確かにそうね、」
私のペンで貸し出しカードに名前を記しながら、網辺はころころと笑う。完璧な姿も美しいが、年相応の笑顔も彼女は可愛らしかった。
「あら、」名前を書き終え、頁をパラパラと捲っていると一枚の紙切れがはらりとその合間から落ちてきた。「何かしら?」
クリーム色のタイルに落ちた紙片を拾い上げ、畳まれたそれを網辺は開いた。そして、その次の瞬間、完璧なその
私が覗き見ると、紙にはこう書かれていた。
『元一年三組の生徒は犯罪者だ。卒業式を取り止めろ。』
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