第2話 ⑥

 夕陽が窓の外で沈んでいこうとしている。山々の稜線は燃え立つ赤に染められて、まるで悪魔の根城のようだった。

 人に害をなす悪魔は街から離れた僻地に住まい、壁に囲まれた人間の領域には正義と規則が根付き、悪が入り込む余地はない。しかし、窓の外の夕闇は赤から黒へ色を変え、刻々とこちらへと這い寄ってくる。いつしか窓の外は暗闇に包まれ、窓硝子の隙間から墨汁を真水に垂らすかの如く、じわりじわりと暗色の影が侵食していく。

 流れ込む影は嵩を増し、ひとつの塊となり、またひとつの塊が積み重なっていく。無形の塊は波打ちながら人型へと伸びていき、私の周囲は顔のないシルエットがいつの間にか林立していた。


 立ち並ぶ影の集団と私は箱の中で鮨詰めとなり、周囲の淀んだ空気や体臭が煮詰めたように漂い、呼吸を止めていると窒息してしまいそうになる。


 苦しい。苦しい。誰か助けて。


 声に出せない悲鳴が喉の奥で藻掻いている。助けを得たいのに、その方法が分からない。どうすれば、私を助けてくれるの。

 影は黒い塊へと戻り、私を押し潰すように圧迫し、肩や腕、背中へとその生温かい表面を押し付け、脚や腰を這う。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 不快感と恐怖に、私は走り出していた。闇に塗られた小箱のような部屋を飛び出すと、長く伸びる廊下の先に長い髪を靡かせた少女の後ろ姿が見えた。

 追い駆けなければ。

 私は走り出していた。長い廊下は曲がりくねり、何処までも続き、眼前を行く少女に追いつくことは叶わない。

 錦糸のように美しく細い毛髪は靡くたびに竪琴の如く軽やかな音を奏で、スカートの裾は翻ると白磁器のような艶と滑らかさのあるふくらはぎが覗く。大地を蹴るたびに、ふくらはぎはその瞬間だけ鋼鉄の瘤を隆起させ、道の彼方まで跳躍する。いつしか、少女の背中は見失っていた。


「付いてきてくれる?」

 しかし、少女は私の手を引っ張って、ぐるぐると周回する廊下を突き進む。私たちは再び小箱のような部屋に戻ってきた。

 鉄の扉を開けると、少女の形をした黒い影が雪崩のように駆け出し、私たちの脇を抜けて外へと飛び出していった。追い駆けたくなる衝動は、力強く握ってくれる少女の掌が抑えてくれる。


 部屋の中は壁が聳え、その内側ではいくつもの街で沈み行く夕陽を窓から眺める私がいた。窓の向こうには漆のように光沢のある黒い髪をした少女がおり、彼女の背後には黒い塊がにじり寄っていく。

 窓辺に飾られた花瓶には並々と水が注がれ、底の厚い硝子製であるため重量がある。持ち上げれば活けられた花は散り散りと床に落ち、振り翳した瞬間に周囲の壁に水が散布される。

 鈍い音が暗い室内に響き、床に倒れる振動が続く。


 早く助けなければと倒れた少女を確認すると、床に伏していたのは制服を剥され、ワイシャツも毟られた、半裸の森だった。色白の素肌は闇の中で燐光を発するように、蒼白く輝いて見えた。

 森は栄光に輝きて殺さるべし。


     ※


 階段を数段残して飛び降りて、見事に地面に着地した時のような感覚で、私は目を覚ました。眠気はなく、思考は一切明瞭で直後に定期試験を受けたとしても問題はない。

 ただ、着衣が汗でそぼ濡れている不快感と見知らぬベッドで寝ている疑問だけは拭えなかった。


 ここ何処だろうか?

 周囲へ視線を向けると、清潔感のあるライトグリーンの壁紙に暖色系の柔らかい照明が室内を照らしている。右手側の窓にはレースのカーテンがかかり、外は日が暮れて夜の色となっている。

 ベッドの隣にはナイトテーブルがあり、水差しとコップ、市販の解熱剤が置かれていた。私の家ではない場所で、誰かが看病をしてくれていたのだろうか。


「目が覚めたようね。」

 かけられた声へと顔を向けると、私服姿の網辺愛梨が立っていた。普段、学校ではみなと同じ紺色のブレザーを着用しているので、高校生だということは一見して分かるが、深いワインレッドのカーディガンに脚線を浮き上がらせるタイトなデニムを履いた格好はとても大人びて見える。

「食事は出来そう?」

 彼女は抱えていたお盆を差し出し、湯気の上り立つお粥の入った土鍋を示す。

「たぶん、食べられると思う、」

「なら、食したほうが良いわ。ほぼ一日寝たきりだったのだから。」


「えっ、」

 私は慌てて窓へと視線を向けるが、最後に記憶のある図書室の帳の降りた闇色と同じ配色が広がっているだけで、時間の経過は杳と掴めない。携帯電話を取り出してバッテリーの表記を見ると、残量は明らかに激減しており、待ち受け画面の時計は確かに一日の経過を示していた。

「ここって、」

「私の家よ。」サイドテーブルにお盆を置き、網辺はお粥をお椀に甲斐甲斐しく盛ってくれる。「図書室で倒れて、家を知らなかったから勝手に連れて来てしまったの。ごめんなさい。」

「謝らなきゃいけないのは、迷惑をかけた私のほうで、」

「いいえ、貴女の体調を考慮しなかった私の責任よ。」

「でも、」

 それでも私が反論を口にしようとすると、蓮華で掬ったお粥を網辺は私の口へと突き出す。「注意しないと、火傷するわよ。」

 有無を言わさぬ行動に、私の口は言葉を発するよりも食事をすることを選ばざるを得なかった。


 熱っ。口腔へと押し込まれた粥は熱く、反論する思考をあっけなく奪っていく。しかし、さらりとした舌触りは起き抜けの身体に優しく、熱さが抜けると、するりと喉へと滑り落ちていく。

 ぐうぅぅぅっ。

その一口が呼び水となったのか、私の胃は急激に空腹を訴えはじめる。その活発な音は周囲にも良く響き、「ゆっくり食べなさいね。」と網辺も失笑する。

 お椀を受け取り、私は恥ずかしさを誤魔化すように黙々と美味しいお粥を食した。

 付け合わせの梅干しも塩味が強く、あっさりとしたお粥のアクセントとして食欲をより高め、あっという間に私は完食していた。もしかして、腹の虫よりも、こちらの方が恥ずかしいのではないか。


「御馳走様でした。」

「お粗末様。」

 謙遜の言葉を口にしながら、網辺は汚れた食器類を盆に重ねて立ち上ろうとする。

「ちょっと待って。」私は彼女の動きを制止、食事中に考えていたことを尋ねる。「森先輩はどうなったの?」

 図書室で最後に見たのは、床に倒れる森大地の姿だった。衣類を剥され、素肌が闇の中で蒼白く浮き上がって見えたのを覚えている。まるで無機物のようなその色合いに生命の息吹を感じることが出来なかった。しかし、その直後に気を失ってしまったので、実際のところは分からない。

「安心して良いわよ。頭を殴られていたようだけれども、命に別状はないそうよ。」

 血の巡らなくなった肉体のように白々と見えただけに、その報せに私はほっと胸を撫で下ろした。


「誰が彼を襲ったのか、分かったの?」

 昨日、私が裏門から見た状況は、網辺愛梨に似た少女がカーテンの影に隠れて襲い掛かる様子だった。なのに、何故現場である図書室に森が倒れていたのか。

 私の質問に、網辺は細い眉を寄せて困ったように口を真一文字に結ぶ。

「もしかして、森先輩がドッペルゲンガーを襲って、返り討ちに合ったの?」

 状況を考えれば、それが一番分かり易い解答だ。襲われた少女=ドッペルゲンガーは私が図書室に到着するのと入れ違いに逃げ去った。ならば、残されている森の立場は、少女を襲った犯人側になる。

 理由は分からないが、森は少女に殴りかかり、しかし返り討ちに合って逆に殴り倒される。それを私と網辺が発見した。把握している情報を素直に額縁に並べていくと、そのような形が出来上がる。


 でも、小骨が咽喉に引っ掛かる。

 何故、森は衣類を脱がされていたのだろうか?

 被害者であるドッペルゲンガーは、何故逃げ出す必要があったのか?

 そもそも、あのドッペルゲンガーは誰だったのか?

 疑問は飲み込もうとする情報を塞ぎ、お粥のように嚥下することを許さない。


「ねえ、」

 何も答えない網辺に、私は催促の言葉を投げる。しかし、彼女の薄い唇はいつもの微笑を湛えることはなく、口の端をきつく引き結んでいる。

「凡そのことは分かっているの、」ようやく開いた網辺の口から出た言葉は、その内容とは裏腹にどこか自信のなさが伺えた。「だから、一日くれないかしら。そしたら、昨日、図書室で何が起きていたか教えられると思うから。」

 何も分かっていない私にその提案を拒む権利などあるわけがなかった。

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