第2話 ②

「『二つの手紙』を課題図書にしたのは、やっぱり最近の噂があったから?」

 紙とインクと埃の匂いが窓から射し込む陽射しによって溶け、暖かな空気が流れる図書室の一角に、私たちは椅子を並べて大きな机を囲んでいた。座っているのは、クラブ活動にも満たない、有志で行っている読書会メンバーの七人。

 放課後の図書室は来訪者が限られており、頻繁に訪れる者たちは次第次第に顔馴染みとなって、いつしか定例で読書会を開催する仲になっていた。そのメンバーのひとりであり、会の発起人でもある森大地が手に持った芥川龍之介の文庫本を翳しながら、対面の三品林檎みしなりんごに尋ねた。


「はい。ドッペルゲンガーの物語で調べたら、これが出てきたので。」

 林檎は元気よく頷くと、両手で掴んだ本を皆に突き出すように見せる。前回の定例読書会の時に次回の課題図書は当番の林檎が指定を出していたので、誰もがその小説を把握しているし、何より皆の手許には『二つの手紙』が収められた思い思いの本がすでにある。だから、本来わざわざ彼女が全員に見せて回る必要はないのだが、それでは彼女の熱は納まらないらしい。


「私自身、この小説は未読でどんな内容か分かっていなかったのですが、今回議事を務めるにあたって色々調べたんですよ。そしたら、芥川の実体験がモチーフになっているというじゃあないですか。しかも、その芥川自身、ドッペルゲンガーを見たから亡くなったともネットには書いてありました。」

 読書会の議事進行そっちのけで、林檎は自分で調べたことを矢継ぎ早に語っていく。年末の試験後に顔を合わせた時も、ドッペルゲンガーの噂について興味を抱いていたが、小説を読むことによってより熱が燃え上がったようだ。


「最近の噂って、何?」

 森大地の隣に座る鈴宮すずみやりえが首を傾げた。森と同じ二年生の鈴宮は噂を聞いたことがないのか、林檎の熱量にやや気圧されるように身を後ろへ退く。

「この図書室にドッペルゲンガーが出るって、一年生の間で噂になっているらしいんだ。」

「一年生だけじゃあないです。三年生にも見たって人は何人もいます。」

 森の説明を林檎は頭を振って否定する。

「でも、私は聞いたことがないなぁ、」短い髪を耳元に掛けながら、鈴宮は他のメンバーへと視線を向ける。「みんなは聞いたことあるの?」


 以前林檎からすでに話を聞いていた私は頷き、隣に座る福家玄夜ふくいえげんやは首を左右に振る。私の向かいに座る、椅子の幅を大きく超過する恰幅の良い肉体をした同学年の男子である塚田健つかだたけしは鼻息荒く強く頷いた。

「特に女子の間で噂が広がっているみたいだね。僕は色々な情報網があるから、局所的に流行っている噂でも耳にする機会があったけれどもね。」

「すごいね、塚田くん。それで、どんな噂なの?」

「他愛もない怪談話ですよ。」鈴宮に褒められ、鼻腔をわずかに膨らませながら塚田は自身の聞いた噂を語る。「下校の際に、この図書室の窓を見上げるとそこに女子生徒の姿が見えるそうです。」

「女子生徒の姿が自分の姿だったとか?」

 鈴宮の疑問はもっともだ。ただ図書室に女子生徒の姿が見えただけならば、別段怪談でも怪奇現象でもない。それに、ドッペルゲンガーという言葉から想像する姿は、やはり自分自身と同じ姿をした存在だ。


「いえいえ、見たのは生徒会長の網辺愛梨の姿です。」

「なら、網辺さんが図書室にいたんじゃあないの?」

「ええ、普通ならそれだけの話です。生徒会長が図書室で本を借りていた、というだけの。でも、話には続きがありまして、図書室の窓に生徒会長を見かけた直後、目撃した生徒は網辺愛梨本人に出くわしたそうです。しかも、挨拶もしていたと。」

「へぇ、」

 感心したように頷き、鈴宮は林檎へと視線を向ける。

「林檎ちゃんの聞いた話も同じ?」

「はい。でも、三年生の間で噂されているのは、網辺さん以外のドッペルゲンガーらしいです。」

 その話は初耳で、私は無意識の内に身体をのめりだす。


「三年生だと、誰のドッペルゲンガーなの?」

「いえ、それは、」林檎は申し訳なさそうに眉を垂らし、先輩の質問に首を左右に振った。「教えてくれないんです。ただ、ドッペルゲンガーというだけで、誰の分身なのか詳しいことは何も、」


 幽霊ではなく、ドッペルゲンガーと噂されるのだから、具体的な誰かを目撃されているはずなのに、わざわざそれを秘匿するからにはそこに何かしらの意味があるように感じてしまう。それは私だけでなく、他のメンバーも同じようで、自然と皆の視線は七人目の読書会参加者へと向かう。

「マジ先生は何か知りませんか?」

 生徒の視線を代表して、鈴宮が尋ねる。斎藤真字さいとうしんじは、その名前からマジというあだ名で呼ばれる三年生の授業を受け持つ教師だ。網辺曰く忙しいはずの教員仕事だが、今年になってから彼は放課後の図書室に度々訪れるようになり、森が読書会へと誘い入れた最年長のメンバーだった。


 斎藤は体育教師と見紛うガッチリとした肩幅をしており、スーツの上からでも引き締まった肉体が隠れているのは見て取れた。

 それと引き換えると、若い生徒たちの方が体格は頼りなく見える。福家は背は高いが撫肩でひょろりとした体躯は力強くない。同じ一年の塚田は有り余る脂肪が肉体を覆い、所謂肥満体型で健康的とは言えない。強いて言えば、細身の森が一番真っ当な体格をしている。若干背は低いが、私のようなチビというわけではなく均整の取れた身体付きだ。


「妙な噂が流れていることは知っている。」太い腕を組み、低い声で斎藤は小さく頷いた。「だが、私も詳しい内容までは把握していないが、女子ではなく男性だと耳にした記憶がある。」

「男性ですか、」

 鈴宮は低く呟きながら、チラリと隣の森へと視線を向ける。彼はその視線を気に留める様子もなく、肩を竦める。

「性別が分かっても、誰の分身体か分からなければこれ以上話しても無駄だね。読書会の趣旨から外れるから、ドッペルゲンガーの話はこれくらいにしておこうか。」

 落ち着いた声で彼は噂話にピリオドを打とうとする。しかし、それを鈴宮が挑むような口調で遮った。

「待ってよ。今回の課題図書はまさにそのドッペルゲンガー現象を扱ったものなのだから、もう少し話しても良いんじゃあない?」

「私もそう思います。読書と現実がリンクした時、作品がより立体的に感じられると以前言ったのは先輩です。」

 二人の女子の抵抗に合っては、発起人である森もたじろいでしまう。

「分かったよ。ただ、あまりに脱線するようなら、打ち止めをかけるよ。」

「ええ、良いわよ。」満足げに口許を緩め、鈴宮は改めて周囲を見渡す。「他に誰か、図書室のドッペルゲンガーについて知っている人いない?」


 もともと林檎が熱を入れていた話題であったが、いつしかその熱は鈴宮に伝播したらしく、まるで本日進行役であるかのように彼女は熱心にメンバーへと話題を振る。

「あの、」

 のろのろと私が手を上げ、この日の読書会ではじめて口を開くと、皆の視線が一斉に向かってくる。読書会だけでなく、まるで人を値踏みするような発言者に対して向けられる視線が私は苦手だった。だから、いつも会で発表を促される時は緊張して、うまく舌が回らないのだが、今回もそれは同じで唇と唇がくっつくとまるで針と糸で縫い付けたかのように中々開いてくれない。


「大丈夫?」

 小さな声で、隣に座る福家が気遣ってくれる。細い目に映る私はきっと小動物のように弱々しく、庇護の対象なのだろう。しかし、私が望むのはそのような姿ではない。

「実は、もうひとつドッペルゲンガーを裏付けるものがあるんです。」

 凛と背筋を伸ばし、誰と対峙するとしても視線を逸らすことのない理想の姿を思い浮かべつつ、私は手許に置いていた、芥川龍之介の著書ではない海外文学をテーブルの中央へ差し出す。

「これは?」

 黒縁眼鏡をブリッジ部分から持ち上げ、森が提出意図を問う。

「本自体ではなく、貸し出しカードを見てください。」

 代表して森が本の背表紙を開き、内側に貼り付けられたポケットに差し込まれたカードを引き抜く。型紙で作られた名刺を一回り大きくしたサイズのそのカードには、網辺愛梨の名前と私――十津根まりの名前が記されているだけで、その他の人間に貸し出しした記録はない。


「先日、網辺に直接確認しましたが、彼女は図書室で本を借りたことがないそうです。」

「でも、彼女の名前が書いてあるし、図書委員の貸し出し印も捺してあるわよ。」隣から森の手許を覗き込み、鈴宮は指摘した個所を指で示す。

 杜亜高校の図書の貸し出しは、貸し出しカードに名前とクラスを自身で記入し、学生証と一緒に提出すると、図書委員が学生証と貸し出しカードの名前を照合して、問題なければ借りることが出来る。図書委員は受け付けた図書カードに判子を捺し、返却されるまでカードは保管される。つまり、学生証がなければ、貸し出しは許可されないのだ。

「ええ、でも彼女に嘘を吐く理由もありませんし、ドッペルゲンガーが本当に存在する証拠になるんじゃあないかと思うんです。」

「本人が借りていないのならば、本人の振りをして借りられるのはドッペルゲンガーだけということだね。」


 言葉足らずの私の説明に、福家が補足説明を加えてくれる。生徒証がなければ図書の借り出しは出来ないが、本人の分身であるドッペルゲンガーならばその証を持っていてもおかしなことはない。むしろ、本人以外で持っている人間が他に思い付くであろうか。

「いやいや、それは飛躍のし過ぎでしょう。」頬の贅肉をぶるぶると震わせながら塚田は大仰に首を横に振る。「ドッペルゲンガー説を取らなくても、例えば生徒証を拾った誰かがそれで本を借りたとか、色々と考えられるでしょう。」

「何のために?」

 確かに、塚田の説はあり得そうだが、わざわざ人の名を騙って本を借りる理由が分からない。貸し出された本も、人に知られて困るものでもない。

「悪戯に理由なんていらないだろう。ちょっとした出来心だよ。」

 自説に否を唱えられ、塚田は明らかな不機嫌を示す皺を眉間に刻みながら言い返す。


「でもでも、悪戯だとしても、愛梨ちゃんの名前を語るのはちょっとリスクがないかな?」

 セーターで半ば隠れた手を上げて、私の代わりに林檎が反論する。

「リスク?」

「うん。だって、愛梨ちゃんは一年生で生徒会長になっちゃう、学校一の有名人だよ。そんな人の名前を語れば、一発でバレちゃうでしょう。」

「みんながみんな網辺の顔を知っているわけじゃあないだろう。オレ達、一年は顔を合わせる機会が多いから知っているが、二年生や三年生は網辺の顔が分からない人も多いはずだ。ね?」

 小動物のような可愛らしさを持つ林檎に反論され、塚田は捲くし立てるように自論を展開し、その考えに引き込むべく、最後は先輩二人へと視線を向ける。


「どうだろうな、」唐突に話を振られ、普段落ち着いている森にしては珍しく躊躇いながら、首を傾げる。「他の生徒は分からないが、自分は愛梨と従兄妹の間柄に当たるから、昔から知っているんだ。」

「え、」それは誰もが初耳だったらしく、思わず驚きの声が口々から漏れる。

「じゃあ、鈴宮先輩は?」

 自説を補強するための柱が一本折れ、塚田は慌てて鈴宮へと質問を向ける。

「すごく綺麗な子だって有名だから、以前確認しに行ったことがあるんだ。だから、私も生徒会長の顔は分かるかな。」

「そんな、」

「あ、でも、わざわざ見に行かなければ分からないと思うから、顔を知らない生徒もたくさんいるんじゃあないかな。」

 あまりにも情けない表情を塚田が見せたので、鈴宮は優しくフォローを入れる。しかし、林檎がすぐさまに追撃を加えた。

「でも、学生証には顔写真も付いているから、顔ですぐばれちゃうと思うよ。」

 これがダメ押しとなり、塚田はぐうの音も出ず、ただ押し黙ってしまった。


 網辺愛梨の名前で、彼女の学生証を使用して本を借りることのできた人物は本人かその分身しか考えられなくなってきた。しかし、網辺は借り出しを否定している。つまり、ドッペルゲンガー以外の解答を見付け出すことがむつかしくなり、皆が口を閉ざす。

「そうすると、ドッペルゲンガーはいるということかな?」

テーブルに並ぶ顔を見回して、森は議論に進展をもたらす発言を求める。

「待ってください。」普段、積極的な発言をしない福家が珍しく自発的に声を上げる。「もっと単純な答えだってあると思いますよ。」

「例えば?」

「網辺愛梨が嘘を吐いている。」

「何で網辺が嘘を吐く必要があるの?」

 断定的な物言いに、私は思わず声を上げて福家を睨んだ。だって、意味もなく網辺愛梨が嘘を吐く人間とは到底思えないし、私に対して嘘を吐いたことも信じたくなかった。


「図書室に来たことを隠したかったから、本を借りていないと嘘を吐いたとも考えられる。」

「何で図書室に来たことを隠す必要があるの?」

「誰かと密会するため。」細い福家の目がチラリと森を捉える。「生徒会長が異性交遊していたら、あまり印象良くはないからね。」

 次から次へと福家は網辺に対する憶測を積み上げていく。そのひとつひとつの言葉を耳にするたび、私は心の中で叫び続けた。「何でそんなデマを言うの。」福家だって、彼女に対して感謝していたじゃあない。


「この『二つの手紙』も読んでいて思ったのだけれども、何でドッペルゲンガーを簡単に肯定するのだろう、って。単純に考えて、奥さんが浮気をしていたと解釈したほうが普通だと思いませんか?」

「何で、『二つの手紙』の話が出てくるの?」

「だって、今日はその読書会だよ。僕は、ドッペルゲンガーは隠し事をしたことによる矛盾が作り出す幻だと考えているんだ。」

 網辺愛梨は信念を持って正しい行動をいつも行う人間だ。そんな人間が隠し事をするはずはない。彼女は常に堂々とある。

「矛盾が作り出す幻影か……、」私が反論を口にするよりも早く、森が感嘆の声を上げた。「面白い考えだね。他に作品内のドッペルゲンガーについて意見がある人はいる?」

 彼は進行の舵を遅々と進まない読書会へと切り、現実に起きているドッペルゲンガー現象ではなく、作品内のそれへの意見を求める。

「私、作品内のドッペルゲンガーが何もしないことが気になったんですよね。」

 林檎が素直に作品で感じたことを口にして、話は次第次第に読書会の本来あるべき様相へと変わっていき、普段の会と同じく皆が作品を読んで感じたことを発表し、それに対して異論反論賛同が渦を巻き、議論は盛り上がっていく。

 私ひとりだけが取り残され、言葉に出来ない苛立ちが胸の内で蠢き続けた。

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