第2話 ③

「何で、あんなことを言ったの?」


 読書会が終わり、ひとりまたひとりと図書室をあとにする中、私は福家の後を追って廊下に出た。

「あんなこと?」

 私の質問に彼は質問の意味を理解していないのか、困惑したように眉を寄せる。

「網辺に対する変な憶測。」

「ああ、ドッペルゲンガーの話だね。あれは本当に彼女に対して思っていることというより、そのあとの作品解釈につなげたかったんだよ。別に、それ以上の他意はないよ、」


 他意はない?

 なら、なんで勝手なことを言うの?

 なんで、人を貶めることを言うの?

 福家ならば、人から傷付けられる苦しさを理解していると思ったのに。正しいことが出来る人だと思ったのに。

 不満が渦を巻き、細く高い背中が滲んでぼやけていく。

 私はそれ以上彼を追うのを止め、廊下で滲み上がってきた涙を一粒零した。しかし、心の熱を凝縮して零れる涙も底冷えする廊下の寒気には勝てず、私の涙はただ一粒だけで凍り付いてしまった。


「まりちゃん、まりちゃん、」

 目許を拭い、呼びかけてくる声に振り返ると、視線を上げなくても良い三品林檎の丸みのある可愛い顔があった。

「ねえねえ、さっきの話どう思う?」

「さっきの話?」

「愛梨ちゃんのこと。」

 黒目がちな大きな瞳がにわかに怒りを湛えてじっと私の顔を凝視する。賛同を求めるその直視に、私の中でうねうねと形を作らず蠢いていた不満が形を帯びてくる。

「うん。あれは酷いと思った。」

「だよね、だよね。」私の同意に、怒りの赤だった顔に瞬く間に薄紅色の鮮やかな花を咲かせて、林檎は嬉しそうに二度三度頷く。「森先輩と従兄妹だんなて聞いてない。狡い。」

 頬を膨らませ、林檎はその名の通りに再び怒りで顔を赤らめていく。どうやら、彼女の主張と私の感情は別々の指標に向かっているようだった。


「従兄妹ってことはだよ、小さい時からの知り合いで、お互いにいろんなことを知っているわけだよね。それに二人とも顔立ち良いし、頭も良いし、他人が太刀打ちなんて出来なさそう、」

 怒りを発していたかと思えば、唐突に力を失い項垂れる。小さな子供や小動物のようなくるくると変わる表情は本当に可愛らしいと思うし、同じような背丈で私と対照的なその性格を羨ましくも思ってしまう。


「でも、従兄妹なら恋愛にはならないでしょう。」

「それは違うよ、まりちゃん。従兄妹は結婚できるんだから、恋愛だって成り立つよ。」

 確かに、法律的には従兄妹ならば婚姻関係を結ぶことが出来る。しかし、それと恋愛感情はまったく別ではないか。突き詰めて言ってしまえば、恋愛感情は他者への憧れだと思う。だから、物心がつく以前から知っている従兄妹や幼馴染だと、相手を他者と認識せずに大きくなるので、憧れは中々抱かないのではないだろうか。


「林檎の言いたいことは分かるけれども、恋愛って自分にないものへの憧れだったりするでしょう。網辺愛梨が他人に憧れるとは、私にはとても考えられない。」

「んー、確かに、」

 腕を組みながら林檎は頷いたが、私は内心申し訳なさを感じていた。

 完璧であり、他人を寄せ付けない孤高の存在である網辺が他者への憧れを抱かないであろうという考えは嘘ではないが、恋愛が憧れだけとは限らない。共感もまた、恋愛となりえる。自分と似た人間への親近感が醸成し、好意へと変容していく可能性を私はあえて林檎には伝えなかった。

 従兄妹と知った今となれば、森と網辺は良く似ている。その類似性が果たして恋愛へと昇華するのか、ただの血縁者の繋がりで終わるのかは分からないけれども。


「同じクラスだから、今度網辺に聞いておくよ。」

 私個人の疑問であれば中々質問しつらい内容だが、第三者からの質問という体をとれば、聞くことが出来そうだ。一体、彼女の瞳に止まる人物はいるのだろうか。

「うん。絶対聞いておいて。」

 不満と怒りで膨れていた頬はいつもの笑顔でえくぼが出来るチャームポイントに戻り、林檎は手を振って去っていく。

 その小さな背中を見送りながら、私は彼女とはじめて会話した時のことを思い出す。



 日の入りの時刻が目に見えて遅くなり、最終下校時刻に近付いてもまだ陽射しが図書室の窓に差し込む五月の下旬。毎日のように図書室へと通い、私は気の向くままに様々な小説を読んでいた。

 中学生の頃から私は学校の図書室で時間を浪費する癖がついていたので、高校に入学しても日課は変わらず、友人らしい友人を作ることもなく、人の訪れることが少ない部屋で、静かに虚構の世界を楽しんでいたのだ。


「あ、あの、」

 いつの間にか隣に立っていた生徒が不意に声をかけてきて、私は驚いた。声を掛けられたことにではなく、その女子生徒が私と同じくらいに背が低く、でも人形のように可愛らしい外見をしていたからだ。

 細く、わずかにウェーブのかかった髪を目元に垂らし、彼女はやや俯いた姿勢でぼそぼそと口を開く。

「面白い本、教えて欲しいんだけど、」

 藪から棒に問われ、私は思わず睨み付けるように目を細めていた。

「ごめんなさい。読書の邪魔だった?」

 私の視線が怖かったのか、彼女は慌てて頭を振って踵を返そうとする。

「ちょっと待って、」慌てて私は呼び止めた。「別に怒っているわけじゃあないから。急に質問されてびっくりしたの。」

 私の目付きが悪いのは元々だし、少し目が悪くなってきた頃から考え事をする時に目を細める癖がついて、不機嫌と勘違いされることもしばしばある。

「そうだよね、急に変なこと聞いてごめんなさい。」小さな頭を下げ、彼女は質問の理由を話してくれた。「私、本をあまり読まないから、どの本が面白いのか分からないし、面白い本なら最後まで読めるかなって思って、」

「それで私に声をかけたの?」

「ええ。毎日図書室で本を読んでいるから、本に詳しいかと思って、」

 いくつか引っ掛かる点のある発言だったが、ひとまず聞き流し、私は質問に対しての返答をすることにした。


「人によって琴線は違うから、安易に本をオススメすることは苦手なんだけれども、例えば、」

 立ち上がり、私は窓から射す西日によって作られた陽だまりの水溜まりを越え、本棚から一冊の文庫本を取り出す。グレーの背表紙に書かれたタイトルは一年ほど前に読んだもので、私はその本を机で待つ女子生徒に差し出した。総頁数もさほど多くなく、短編と掌編が収められた短い物語なので読書に慣れていなくても、読み通せるだろう。それに、書き上げた作者の当時の年齢は十七歳と、私たちとさほど差はなく、感覚も共有しやすいはずだ。

「ありがとう。」

 本を受け取りながら、彼女は邪気のない笑顔で礼を言う。どういたしましてと素っ気なく返し、私は中断していた読書を再開するが、隣に居続ける少女がパラパラと頁を繰る音や仕草が意識の端をチラつき、どうにも上手く没頭できない。


「ねえ、」

 本を閉じ、再び彼女が声をかけてきた時、「何?」と瞬間的に険のある声で反応してしまった。

 しかし、彼女はそんなことを気にする様子もなく、「本の借り方って分かる?」と質問を重ねる。頁を少し捲っただけで、中身をさして読んだ様子もなく借り出しを希望する女子生徒に、一体何を考えているのか理解が出来ないでいた。

 私のまじまじと見詰める視線に気が付いたのか、彼女は「おねがい、」と掌を合わせて、神様に祈るように懇願してくる。何故そんなに必死になるのか、やはり分からないまま、私は最終頁に挟まっている貸し出しカードに名前を記すことを伝える。

 彼女は鞄からペンを出し、三品林檎と存外達筆な筆致で名前を記す。


「これで良いの?」

 貸し出しカードに名前を書き終えた三品は、はじめてお手を覚えた子犬のように首を傾げる。愛想がなく、床の間の日本人形かこけしのような風貌の私にはない愛らしさだ。

「あとは、学生証と一緒にカウンターにいる図書委員に渡せば、貸し出し処理をしてくれる。」

 図書カウンターを見遣ると、二年の森大地が退屈そうに文庫本に視線を落としていた。入学してから日課のように図書室へ通っていると、自然と図書委員の顔が分かるようになってくる。特に、森は人当たりが良く、蔵書の知識も豊富なので、本好きからすれば信用に値する人間だった。


「あの、失敗するといけないから、一緒に来てくれない?」

 失敗も何もただ借りたい本と学生証を提出するだけなのだが、不思議と三品に頼まれると首を横に触れない自分に気が付く。椅子から立ち上がり、私たちは連れ立って図書カウンターへと進む。

「おや、友達連れなんて、珍しいね。」

 本から顔を上げた森が、ひとりではない私ににわかに驚く。

「ええ、まあ、」曖昧に頷きながら、私は隣の三品を示す。「この子が、本を借りたいんです。」

「なるほど、その付き添いか。で、どの本?」

 中性的な整った顔立ちとは裏腹に、男性的な大きな掌を突き出して森は本を受け取る。手慣れた手付きで貸し出しカードに名前が記されていることを確認し、一緒に預かった学生証の名前と不一致がないかを調べる。


 私がはじめて杜亜高校で図書を借りた時、何故カードへの申請だけでなく、学生証の確認までされるのか疑問に思ったが、後々図書委員に聞いてみると、他人を装って不正に借り出しをし、そのまま返却せずに持ち去ってしまう、所謂借りパクというものが横行した時期があるらしい。古書店に売られたり、ネットオークションに出品されたりする事例が発覚し、貸し出しを厳重化するために学生証の確認をするようになったようだ。それにより、本人以外が他人の名前で図書を借りることは出来なくなった。

貸し出しカードに捺印をし、森は本と学生証を三品に返す。「女性に人気の高い作家だから、三品さんも楽しんでね。」

「あ、あの、」本を受け取りながら、三品は震えた声を上げる。「私、三品っていう苗字好きじゃあないんです。だから、林檎って名前で呼んでください。」


 それは図書室には似つかわしくない大きな声だった。発した彼女はそのはしたない大声を出した恥ずかしさからか、顔を真っ赤にして俯いていた。

「うん。じゃあ、林檎ちゃん、で良いかな。読書楽しんでね。」

 やや困った様子で森は応えると、三品は黙ったまま赤べこのように二度三度こくこくと頷いた。

 以後、私も彼女のことを苗字ではなく林檎と呼ぶようになった。

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