第2話 ①

 お正月を挟んだ短い冬休みが過ぎると、冬の寒さはいっそう強まり、人の気配がなくなった廊下には冷気が積層のように重なり合い、一歩前に進むごとに上履きから太腿へと白刃のように研ぎ澄まされた冷たい空気が這い上がってくる。私は登下校時に来ているコートを羽織り、胸元を掻き合わせながら網辺愛梨と並んで歩いていた。


いくつも並ぶ教室の扉をひとつひとつ開ける時、冷えた鉄の感触が指先に針のように刺さり、すでに手の感覚は麻痺しはじめていた。

はあ、と何度も息を吐きかけるが、かじかんだ手には焼け石に水をかけるほどの効力もない。


「ねえ、何で最終下校の見回りを生徒が行うの。普通、教師が行うものじゃあない?」

最終下校時刻を過ぎてなお居残っている生徒がいないかを確認する作業を手伝うのも、すでに何度目になるか、網辺が見回りの当番の時は漏れなく手伝うようになっていたが、当初からの疑問を私ははじめて口にした。

通常、見回りなどの作業は教師の仕事で、生徒の作業ではない。なのに、何故か杜亜高校では生徒会の生徒が持ち回りで巡回を行っている。生徒会でもない私が口を挟むのはおこがましいが、不思議でならない習慣だ。


「昨今の働き方改革で、教員のサービス残業が目の敵になっている所為か、数年前から生徒が行うようになっているらしいわよ。」

 部活動の指導や進路指導など放課後生徒と接する仕事から、テストや提出物のチェックなど持ち帰る残務と多く、教職員の残業時間は社会的な問題であり、心身を壊して離職する教員もいると報道で耳にしたこともある。

「でも、私たちだって暇なわけではないよ。」

 部活動や塾、人によっては家事や友達付き合い、異性交遊を上げる人間もいるかもしれない。


「世の中に暇な人間なんていないわよ。いるとすれば、時間の重要性に気付いていない怠け者か、効率だけを追求して時間を余らせる愚か者ね。」

「効率を求めることは悪いことかしら?」

 無駄を省き、正しい行動を速やかに行う。網辺が並置した怠け者とは対極の存在ではないだろうか。

「効率を考えている時点で、判断の重点が時間に置かれてしまっているのがいけないの。重要なのは、行うべきことの中身であり、その結果。時間効率を上げることにより、中身が蔑ろになったり、結果がお粗末ならば、お笑いにもならない。」

 廊下の窓の施錠をひとつひとつ確認しながら、彼女は持論を展開していく。

「だから、残業時間などを上から突かれている教師たちに任せるよりも、より安心なのよ。」

「確かに、施錠の確認がされてなかったら、不安ね。」


 不法侵入者が学校内でトラブルを起こす事件は毎年話題に上がる。刃物での殺傷事件は特に大きく報道されるが、それ以外にも隠しカメラや盗聴器を仕掛ける事案も存在する。それらの危険を最大限回避するには、結局のところ、施錠や見回りなどの古典的な安全確認が有効なのだろう。

「それに、禍は外からやって来るだけではないから、人目が付かないところで悪いことをしようとする人間を見付けやすくなる。」

 悪の芽というのは、暗いところで成長しやすい。誰にも見られていない場所、人気のない場所、咎めるものが存在しない場所、夜の水気を帯びた空気を浴び、夏の茹だる中では葉は歪に膨らんで極彩色の花弁が狂い笑うように大きく開き、冬の凍てつく中では細く長い蔓には棘が隆起して深い色の花が茨の中に一輪だけ花弁を折り重ねるように開花する。悪の華はその人ひとりだけのために花開き、魅了する。

 しかし、華が大きな大輪を咲かせる前に摘めば、心に悪の芽を宿した人間も正しき道へと引き戻すことも可能になる。


「私たちが行っているのは、下校時刻を守らない生徒を規則で取り締まることではないの。皆が不要な不安を抱いたり、危険に晒されたり、誤った行いをしないようにするための活動。正しい学校生活を安全に過ごすためのものなのだから、例え時間が惜しかったとしても、他人に任せる方が私は不安に感じてしまうの。」

 珍しく熱のこもった網辺の語りに、私は二度三度大きく頷いて賛同を示した。


 己が正しいと信じる行いのために、自らを犠牲にする行動は先日網辺が体現してくれた。あの強固で美しい信念に私は網辺愛梨という少女への憧れを間違いのないものだと確信をすることが出来た。今まで、本音を言えば私は彼女が嫌いだった。同じ正しきことを発したり、行っても、私は他者から疎まれ嫌われ、彼女は他者を従え敬われた。その差異に、私は妬み羨んだ。

 でも、網辺愛梨の何人も損なうことのできない天柱のような信念に触れた時、私は自身の至らなさを知った。私と彼女では、覚悟が違っていたのだ。だから私は、網辺愛梨に憧れ、彼女に少しでも近付き、彼女になりたいとすら思った。


「そういえば、あの本を読んでみた。」

 縦長の二つの校舎を繋ぐ、横長の校舎の廊下は夕闇に耽った空を覗く窓はなく、白色の人工的な明かりが照り付けるだけで、どこか水槽のような閉塞的を感じ、息苦しくなる。そんな場所を二人並びながら、通りかかった図書室の札を見て、私は二学期の期末試験を終えた後に借りた書籍のことを思い出した。

「あの本?」

「以前、網辺さんが図書室で借りた海外文学の本。」


 私が彼女も借りていた小説を貸し出し依頼したことを知るはずもないのだから、あのという指示語で語っても通じないのは当然だ。なので、私はより詳しく説明をした。

 しかし、「私、学校の図書室で本を借りたことないわよ。」と彼女は小首を傾げる。

「え?」私は網辺の返事がにわかに理解できなかった。「一番奥の窓際の棚に並んでいた本だよ?」

「ええ。図書室なんて使用しなくても、欲しい本ならいつでも手に入るから、借り出しなんてしないわね。」

 今度は確固とした声音で、小説本を借りたことを否定する。


 でも、あの本の貸し出しカードには網辺愛梨の名前が記されていた。だからこそ、私は普段馴染みのない海外文学でも、手を伸ばしてみたのだ。それなのに、彼女は借りた記憶はないという。


 不図、私の脳裏に三品林檎の言葉が思い出される。


「ねえねえ、まりちゃんも聞いた?」幼い少女のような高い声で、彼女は私に問いかける。「ドッペルゲンガーの話。」

 折しも、私たちは図書室の施錠を確認し終えたところだった。

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