第1話 ⑧
「一体、何がどうなっているの?」
放課後――最終下校時刻間際、私は網辺愛梨が見回りに訪れることを期待して、教室で本を読みながら、その時を待っていた。
一頁一頁捲るごとに、窓の外は墨色を一筆一筆と塗り重ね、すっかりと夜の帳がおり、澄み渡った空気の彼方では星々がいくつか煌めいている。
杜亜高校がいくら高台にあるとはいえ、坂を下り降りれば駅があり、その周辺には飲食店や商業ビルも立ち並んでいるので、夜空の輝きを繋げて図像や物語を作り出すには地上の明かりが眩し過ぎる。
古代の人々は覆い尽くすような闇夜にいたからこそ、満天の夜空から多くの神話をそこに見ることが出来たと言われるが、しかしあまりにも多すぎる星々の煌めきは、むしろ点と点を線で繋げることの障害にならなかったのだろうか。
例えば、ひとつの謎を解こうとした時、膨大な情報の中から必要なものを選択し、その中から順列を正して線として繋げていかなければならない。でも、不必要なものが混ざった情報過多の状況では真実を見付け出すのは、情報が規制されている状態と同じくらい困難だ。
今回の猿渡愛のカンニング騒動も、私に真実を見付け出すのはむつかしかった。それは真相への情報が少ないのか、それとも多すぎるのか、それすらも分からないでいた。だから、私は誰もいない教室で網辺愛梨が訪れるのを待ち続けた。
彼女ならば、恐らくは物事の正しい姿を見抜いているであろうから。
果たして、彼女は最終下校時刻間際に教室に現れた。
「もう最終下校時刻よ。」
先日と同じ言葉を彼女は口にして私に歩み寄ってくる。
「一体、何がどうなっているの?」
「何の話かしら?」
藪から棒の質問に首を傾げ、長い髪が頬にかかる。
「猿渡のカンニングの件。骨川は0点だってことだし、それをカンニングしていた猿渡も0点ということ?」
結局、二人目の0点が誰であるのか、あの場で判明することはなかった。しかし、猿渡が骨川の解答を覗き見ることが出来る状況にいたことを考えれば、彼女こそがもう一人の落第者の可能性は高い。でも、骨川の答案を覗き見られる状況を作ったとして、何故テスト前にあれほど自信に満ちた啖呵を口にすることが出来たのか、その点はやはり謎である。
「それに、骨川は貴女に対して、何か恨みがましい物言いだった。」
0点が露見し、恥を晒しながらも彼は悔しそうに呻きながら網辺を睨んでいた。そして「何をしたか?」と問い質してもいた。彼女は少なくとも一部を、もしかすれば全てを知っているはずだ。
「一体、何がどうなっているの?」
私はもう一度同じ問いを発した。しかし、それはただの質問ではなく、追及の色味の濃いニュアンスとなっていたはずだ。
「簡単な話よ。」溜息を吐き、網辺は試験期間中に使用していた廊下側最前列の座席に腰を下ろす。「骨川くんが私のテストを盗み見て、中継役として猿渡さんに伝える。これがあの二人が行おうとしていた不正の方法よ。」
単純なことではあるが、その言葉でいくつかの疑問に合点がいった。まず、成績の良くない骨川の答案用紙を参考にする理由だが、彼が高得点を取れると確証があれば、カンニングとして相応しい。そして、骨川が網辺に対して恨みがましい言葉を残したのも、彼女の答案をカンニングしたにも関わらず、学年一位と0点という大きな差が生まれたからだ。自身の失敗を疑うよりも、何か罠を仕掛けられたと彼は理解したのだろう。しかし、それは大っぴらに訴えることは出来ない。自分の不正を明かすことになるから。
「貴女は何を行ったの?」
学年一位の答案をカンニングした相手を0点にする魔法なんて存在するのだろうか。
「それを説明する前に、彼がどのように私の解答を盗み見たか想像できる?」
質問者である私に、網辺は薄い唇を蠱惑的に緩めて逆に問いを発した。
網辺愛梨の試験時の席は出入り口に近い一番先頭である。盗み見ようとするには、最後列の座席に匹敵するくらいに困難な場所である。ハ行の骨川の席からは随分と隔たりがあり、時間を停めない限り、カンニングは不可能だろう。
しかし、私は遠隔から相手の机を覗き見る方法を知っている。猿渡が骨川の答案用紙を見た方法である。
「骨川も鏡を使って、貴女の答案をカンニングしたのね。」
「いいえ。」長い髪が乱れぬよう、ゆっくりと頭を左右に振って網辺は私の解答に×を付ける。「この教室に鏡は戸棚に入った卓上鏡しかない。猿渡さんがカンニングに使用しているため、骨川くんは使用できない。」
確かに、三面鏡などであれば鏡像を鏡面で反射させて別の角度のものを映し見ることは出来るかもしれないが、残念ながら戸棚の卓上鏡は鏡面が一枚のシンプルな作りだ。
では、どうやって骨川は網辺の答案用紙を見たのだろうか。
私は首を巡らせ、教室内にヒントが落ちていないか観察する。そして、向こう側に冬の夕闇を映し出す窓硝子に反射する座敷童のような少女の姿を見付ける。もちろん、その妖怪は私の姿が反射したものだが、その瞬間、答えの片鱗が見えた。
「もしかして、」
私は顔を上げ、天井からぶら下がっているテレビモニターを見遣る。ブラックアウトした画面に、薄ぼんやりと教室の姿が反転して映っている。
「テレビモニターを鏡代わりにしたの?」
しかし、よくよく見るとその代用品の鏡には廊下側の壁や鉄扉が反映されているだけで、机の輪郭は見て取ることが出来ない。
「いいえ、よく見て。」
網辺はいつの間に立ち上ったのか、教室と廊下を繋ぐ鉄扉の前におり、コンコンッとその表面をノックする。
私は言われた通りにその変哲もない扉を観察し、一点だけ、その鉄扉が他の扉と異なる部分があることに気が付いた。
「そう、この扉は試験の直前に骨川によって窓の部分に罅を入れられて、砕けないように廊下側から段ボール紙で被いが貼られている。」
私は網辺の説明を聞きながら、再び窓に映る座敷童へと視線を戻した。反対側が暗く、こちら側が明るい場合、窓硝子は鏡のように見ている側を反射する。それは電源が点いていないテレビモニターも同じだ。つまり、この教室の中には実際の鏡は一つしかないものの、鏡像を映し出す物はいくつも存在する。そのひとつひとつの反射を利用すれば、目的地までたどり着くことは出来る。
でも、
「鏡の中の鏡なんて、小さくて目視することなんて出来ない。」
「不思議なことに人ってね、何かしら特技のひとつは持っているものなの。骨川くんの場合、視力がとても良いことが、それね。」
確かに、先日彼は自身の視力が二・〇以上だと自慢していた。学校の身体検査ではそれ以上を測定しないから、実数値はかなりのものなのだろう。それに、杜亜高校の試験は筆記ではなくマークシート式なので、細かく文字を識別する必要はない。それぞれの問いのマークされた番号さえわかれば、十分なのだ。豆粒のようなランドルト氏環の切れ目を判別できる人間ならば不可能ではない気がする。
「でも、確証はない、」
今の話を本人たちに突き付けても、きっと彼女たちは証拠がないと突っ撥ねるだろう。自身で漏らした自白ですら、同じ理屈で受け入れなかったのだから、他人からの指摘ならなおさらだ。
「確証ならあるわよ。」
網辺は事も無げに答えた。
「へ?」
「全て0点だったことが、その何よりの証拠になるの。」
「どういうこと?」
「とても単純な話よ。」溜息のような呼吸を漏らし、網辺は黒板へと歩を進める。「試験のマークシートは五択。つまり二〇%の確率で正解することになるわね。」
白墨を手に、彼女は二〇という数字を黒板に書き込む。
「もしも五択の設問を一〇〇問、純然たる勘のみで答えたとして、理屈の上では何点取得できるかしら?」
「一問一点だとすれば、二〇点前後の点数が取れると思う。」
「点数の配分にまでは気にしてなかったわ。ありがとう。」人によれば正確を求めようとする私の一言は、揚げ足取りと認識されかねないが、網辺は優しく微笑んで感謝を返してきた。「今回のテスト、課目によって問題の数や配点は異なるから、全てが二〇点前後とは言い切れないけれども、0点ということはない。自ら間違った解答を書き込まない限りはね。」
学年で一番正解に近い解答用紙をカンニングしておきながら、間違った解答を書き込むというのは一体どういうことなのだろうか。
「骨川が桝目を見間違えたってこと?」
「いいえ、彼の目は間違いなく良好な視力を有しているし、私と同じように桝目を埋めていった。」
「じゃあ何で、」
「引っくり返していたの。」握ったままの白墨で、網辺は再び黒板に書き込みをはじめる。描かれるのは文字や数字ではなく、テストの解答用紙を模した図だ。「うちの学校で使用しているマークシートの用紙は、遠目からだと天地を引っくり返しても違いが判りつらいのよ。」
最初に書いた図の横に、網辺は逆さまにした図を描いていく。恐らく、説明を理解しやすく図を描いてくれたのだろうが、私の机の中には実際のマークシートがあり、私はその取り出した用紙を逆さまに持ち替えてみた。全ての問題が五択なので、解答の桝目は規則的に並び、引っくり返してもその規律は崩れることなく、桝目は律儀に一列に並んでいた。
唯一、名前の記入欄だけが百八十度反転させた場合に違いとして目立ってしまう。
「名前は終了間際に書くようにしたの。そうすれば、引っくり返しには気付きにくいからね。」
じゃあ、引っくり返されて記入されたマークシートの桝目を見て、骨川はそのことに気が付かず正位置のまま同じ場所を埋めていったということか。逆位置と正位置では意味が逆転するというのに。
「でも、偶然答えがバッティングする場所はなかったの?」
鉛筆を転がしても五分の一で正解する問題なのだから、全科目の中には例えば一問目と最終問題が三番の答えとなるものも存在していてもおかしくない。
「ええ。だから、そんな時はわざと不正解を選んだの。お陰で、前回よりも成績が下がってしまったわ。」
テストの返却時、教師は網辺に対して得点が下がったと伝えていたが、それはあえてカンニングしている人間に間違った答えを記入させるために、自らも敢えて誤った選択肢を選んだというのか。そんなバカな話ってあるの?
「だから言ったでしょう、0点が彼らのカンニングの証拠だと。私の解答用紙を逆さまにして記入して書かない限り、全科目で0点なんてありえないの。それも二人だなんてね。」
微笑を浮かべながら告げる網辺愛梨は、同世代の少女とは思えないほどに完璧な存在だった。正義を示すために彼女は自らの成績を落としてまで、悪を懲らしめた。それも、掌で踊らされているように、相手は何をされたのか分からないうちに。
それは私にとって理想の姿でもあった。
「ねえ、どうすれば貴女みたいになれるの?」
気が付けば、私は自身の欲望を口にしていた。
「私みたいに?」彼女は珍しく切れ長な目を大きく見開き、年相応の少女のように驚いた。「止しておいたほうが良いわよ。」
「何で?」
「私みたいになったら、嫌われるわよ。」
「かまわない。」網辺の忠告を私は頭を強く振り、拒んだ。「正しくあれるのであれば、強くあれるのであれば、人から嫌われたってかまわない。」今だって、人から好まれているわけではない。「それに、貴女はそんな私のことを嫌わないでしょう?」
私が微笑むと、彼女も微笑んだ。
「そうね。」小さく頷くと、網辺は照れたように明後日の方向へと視線を逃がしてしまった。もしかしたら、案外人と仲良く接するのが苦手なのかもしれない。
「ところで、」しかし、それは彼女に対する判断が甘すぎたことにすぐに気が付かされる。「最終下校時刻はとっくに過ぎているのだけれども。」
時計を見上げていた視線が、真冬の空気よりも冷たく私へと戻される。
「ごめんなさい。すぐに下校するから、」
長々と話し過ぎてしまった私は、慌てて机の横に下げていた鞄を手に取り、下校の準備に取り掛かる。
「何を言っているの。」
だが、教室を飛び出そうとした私の細い腕を、網辺愛梨はきつく握り締め、捕捉する。
「こんな時間では、私一人で見回りを終えるのはむつかしいわ。手伝ってくれるかしら?」
特別な許可がない限り、最終下校時刻以降生徒が校舎に残ることは禁止されている。私はこの日、その許可を得た。
女王の掌はダンスホール 乃木口正 @Nogiguchi-Tadasi
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