第1話 ⑦
数日が経過しても天罰が下る様子はなく、テストの返却日を迎えることとなった。
私が通っていた中学では各授業で答案用紙が返却され、その授業で各問題の解説が行われるのが通例であったが、杜亜高校では全ての答案が一遍に返され、トータルの点数と学年順位が記された用紙もともに渡される。今回の試験で自身が学年でどれくらいの立ち位置にいるのかが一目瞭然に分かり、あるものには進路の参考となり、あるものには絶望を降り注ぐ。私にとってその用紙がどのような意味を持つかは、コメントを差し控えておく。
「今回のテストは全体的に難易度が高かったためか、平均点が過去のテストよりも悪かった。」
解答用紙の返却をはじめる前に、教師は高い教壇から生徒の顔を見回して語りはじめた。
「テストは現状の自分の実力を確認するものと捉えるのは構わない。しかし、成績や進路に直結するものでもあるから、少なからずの努力はしてもらいたいと思っている。何故、こんな話をわざわざしているかというと、残念ながら今回のテストで全ての科目に置いて0点の人間が二人いた。」
教師が告げた事実に数十人の人間を詰め込むには狭い空間にざわめきが湧き、騒然とした雰囲気が室内を支配していく。友人同士で互いこそがその落第者ではないかと笑いながら指差す者や、落ちこぼれの烙印を捺されることを恐れる者など、騒ぎの毛色は様々であったが、次第に潮は退き、残ったのは一ヵ所に向かう多くの視線。猿渡愛がクラスメイトから注目を集めていた。
しかし、当の彼女は有象無象の視線など意に介さず、背筋を伸ばし、凛とした佇まいで真っ直ぐに教卓へ視線を向けていた。0点を宣言された生徒が自分ではないと確信しているようだった。
やがて、テストの返却がはじまった。
出席番号順に返されるテストは当然網辺愛梨が最初であり、いつもであれば学年一の秀才がどれだけの成績を残したかと皆の興味が最高潮を迎える場面であるのだが、今日に限ってはクラスの関心事は他にあった。
「今回は調子が悪かったのか?」
返却される答案用紙を渡しながら、教師は合計点数を見遣りながら網辺に尋ねた。
「いいえ、むつかしかっただけです。」
「まあ、それでも学年一位なのは流石だな。」
「ありがとうございます。」
数枚の用紙を受け取り、網辺が座席に戻ると二番目三番目の生徒が順々に呼ばれ、緊張の下にテスト用紙を受け取っていく。嘆きと喜びが交差し、再び教室はざわめきが支配を強めていく。
しかし、「猿渡。」と教師が彼女の名を呼んだ瞬間、ざわめきは瞬く間に消え去り、誰かが固唾を飲み込む音が聞こえるほどの静寂に空間を一変させる。
試験前、クラスメイトの面前で大見得を切った劣等生が本当に自分たちよりも高い得点を獲得しているのか。多くの生徒の関心はそこに向けられていたが、私だけが、別の思いで彼女の背中を凝視していた。
悪はのさばるのか、それとも正義は示されるのか。
「頑張ることを止めないように。」
教師は短く言うと、束ねた答案用紙を猿渡に返却した。彼女は戻ってきた用紙に記された数字へと視線を落とし、赤い唇で薄い笑みを浮かべた。
皆がその微笑みの意味を読み取ることに必死だったが、誰も彼女の内側に辿り着くことは叶わず、視線だけが精神を強姦するように露骨な嫌らしさで猿渡を見詰め続ける。
その間もテストの返却は進み、十津根まりを含めるタ行の生徒やナ行の生徒も自身の努力の結果が返され、順番は骨川有を迎えていた。クラスの興味は猿渡一人に向けられていたので、最高潮を過ぎた他の生徒には注意を払うものは少なかった。彼が大声を上げるまでは。
「どういうことだよっ、」受け取ったテスト用紙を見詰めながら、彼は山のように盛り上がった両肩を戦慄かせていた。「何で、何で、」
用紙を破りかねないほどに両手に強張らせ、骨川は歯を剥き出しにして呻く。
「0点だ、」
あまりに無防備に怒りを露わにしていたため、手元の用紙に記された点数が生徒のひとりに目撃され、その情報は小波のように広がり、いつしか大きな渦潮へと変化して教室内はちょっとした狂騒の様相となった。
「静かにしなさい。静かにしなさい。」
教師が何度呼びかけても騒ぎが収まることはなく、騒然とした空気はまるで祭りの最高潮を迎えたかのような狂い方だった。
普段、暴力で他人を排してきた人間を扱き下ろす絶好の機会を逃さぬように誰も彼もが嘲りの笑みや言葉を飛ばす。それはとても醜い情景だったかもしれない。しかし、彼は福家に対して今まで散々暴力を振るい、蔑んできたのだから、その報いだ。
「何で、何で、」怒りか恥辱か顔を真っ赤に染め上げながら、骨川は呟き続ける。「貴様、何かしやがったな、」
顔を上げ、彼は網辺愛梨を睨んだ。獣のような大男が美しい女性を睨め付ける様子はさながら絵本の一頁のような光景だったが、物語と異なるのは、美女はか弱い存在ではないという点だ。
「私が貴方のテストに何ができるというの?」漆黒の双眸は冷たく他者を見下すことに何ら躊躇いなどなく骨川を射抜く。「心当たりがあるのならば、言ってくれても構わないわよ?」
「くそっ、くそっ、」
返す言葉もなく、苛立ちだけを短い言葉に乗せて彼は吐き出し続けた。その悲痛な姿に、いい加減生徒たちも騒ぐことを止め、ただ黙って巨体を震わせ続ける姿を見詰め続けた。
その中には猿渡愛の眼差しもあった。
掌は答案用紙を力強く握り、血の気が失せて真っ白だった。
「くそっ、くそっ、」
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