第1話 ⑥

 冷たい冬の教室の、冷切ったタイルの床に腰を下ろして、私はぼんやりと天井の蛍光灯を見上げていた。

 涙は止まった。身体の痛みも、ひとまず退いた。それなのに動けないのは何でなのだろう。

 私は網辺愛梨や他のクラスメイトに毅然と相対した猿渡に敬意を抱いていた。それが踏み躙られ、心の中には圧し潰された空白が渺然と広がり、冷え冷えとした風がその空間を吹き抜けて手足に力が入らない。首を持ち上げているのもつらくなり、白々とした蛍光灯から硬質な床のタイルに視線を落とすと、図書室で借りた本が乱雑に放り出されていた。

 先程の立ち回りの際、いつの間にか落としてしまっていたのだろう。ページは妙なところで開き、叩き付けられた衝撃で紙は折れ曲がっていた。


 網辺愛梨が読んでいた小説。

 私は脱力した腕を伸ばし、曲がってしまったその本を手に取る。

 網辺愛梨――私の嫌いな女子。


 彼女の言うことはいつでも正しいし、誰もが彼女の正しさに従う。一体私の振るう正しさと何が違うというのだろうか。私の言葉は鼻で笑われ、誰もが蔑ろにする。近寄り難く、遠巻きながら羨望と憧憬の眼差しを向けられる網辺とは大違いだ。

 猿渡も網辺には手を上げなかったのは、恐れがあるからだ。

 福家も網辺の優しさに感謝するのは、彼女が美しいからだ。

 私はあの女が嫌いだ。

 でも、それと同じくらい、あの女のようになりたいとも思う。

 愛憎半ばする思いを、入学し、網辺が一年生ながら生徒会長に当選した時から、私はずっと抱え込んでいる。何故私は網辺愛梨になれなかったのか。身を焦がすような焦燥が常に私を包んでいた。


 だから、この本は私にとって約束の地へと誘ってくれる、聖書なのだ。同じ要素を摂取すれば、細胞のひとつでも近付き、網辺愛梨へと至ることが出来る。

 折れ曲がった本を慈しむように私は表紙を撫でた。指の腹に刻まれた指紋という凹凸の回廊にまだ見ぬ小説の活字が隊列を組んで突き進み、指から掌、手首、腕へと進行し、荒地のような心の空隙に降り注ぎ、瑞々しい芽吹きが成長を期待して顔を出す。


 本が読みたい。

 今の私を変えたい。

 咽喉が乾き、現実にはない水分を求めて、息が喘ぐ。

 力の抜けていた身体に、生存を求める本能が血と熱を四肢の先へ先へと巡らし、私はようやく冷たい床から立ち上がることが出来た。

 制服にこびり付いた靴跡や埃をはたき落とし、本を握り締めて私は廊下へと出る。図書室から戻ってきた時と違い、熱病に侵されたような浮付きはなく、ただ冷え冷えと伸びる無機質な廊下を私の視覚は捉えていた。


 取るべき行動が決まっているので、向かう先も今の私には迷いはなかった。自分の教室に戻り、荷物をまとめて帰宅する。そして、自分の部屋に籠って、借りた小説を読み、芽吹いた種へと栄養を与えて育む。これが私の取るべき行動だ。

 窓の外には夜の帳が降りた冬空が広がり、威勢の良い別れの挨拶が木霊する。テスト期間が終わり、再開された運動部も下校の時間を迎えているようだ。廊下やそれぞれの教室には人の気配は希薄で、いつもは最終下校時刻ギリギリまで居残る生徒たちもテスト疲れからか、すでに帰路に着いているようだ。

 澱みのない深海のような通路を進み、教室に辿り着くと窓を隠された扉の隙間から光がわずかに漏れていた。部活終わりに誰かが戻ってきたのだろうか。静かな室内への扉を開けると、福家が教室前方の戸棚を開けているところだった。


「あれ、どうしたのこんな時間に?」

 最終下校時間間際に教室に戻ってきた私の顔をまじまじと見詰めて、福家は首を傾げた。

「それはこっちのセリフだよ。福家こそどうしたの?」

「僕はこれだよ。」

 彼は棚に差し込まれた黒い表紙のA5判の冊子を取り出した。学級日誌だ。

 クラスによって扱いが異なるが、我がクラスでは日直の生徒がその日の概要を書き、戸棚に返しておくことになっており、翌日は別の日直がまた一日の概要を記すことを繰り返す。担任は時間に余裕のある合間で数日分に目を通しているようで、教師のコメントが付されるまでは数日のタイムラグがある。なので、真面目に日誌を書く生徒は少ない。


「でも、今日の日直は福家じゃあないよね?」

 黒板の端に記された名前を見ると、骨川有という名前が記されていた。

「まあ、頼まれてね、」

 弱々しい口許の笑みを見て、私は図書室へ向かう途中で彼と骨川の遣り取りを目撃したことを思い出した。

「強要されたの?」

「これくらいなら、大したことじゃあないよ。」

 事の大小ではないではなく、規則を逸脱して暴力をチラつかせ他人に強制していることが問題なのだ。福家はいつも大丈夫と微笑むが、独断で教師に報告するべきかもしれない。


「それより、十津根さんこそ大丈夫?」

 私の心配を躱すように彼は私の肩へと視線を向ける。首を捻ると、はたいたと思った靴底の痕がひとつくっきりと残っていた。

「えっと、うん、大丈夫。」

 咄嗟に私は曖昧な笑みを浮かべて頭を振った。

 他者から嬲られ、苛まれていたことを知られたくなかった。それは、まるで自分が弱い存在だと告白するようで、とても精神が耐え得るとは思えない。私は俯き、福家の視線をやり過ごすしかなかった。


「そっか、」彼は短く頷くが、顔を伏している私にはどんな表情をしていたのかは分からない。「とにかく、十津根さんも気を付けてね。」

「うん、ありがとう。」

 それ以上互いに踏み込むことはなく、福家は学級日誌を戸棚に戻すと、短い挨拶だけ交わして教室を出て行った。


 人がいなくなった教室は急激に寒さを強調し、私はブレザーを掻き合わせる。チラリと視界に入った肩口の足跡を掌ではたき、その他の汚れはないかをチェックするために、戸棚に仕舞われた卓上鏡に手を伸ばすが、悲しいかな背丈の低い私では棚の上段に置かれたそれを取り出すには心許無い。

 鏡を取り出すことは諦めて、仕方なく私はゆっくりと後退して棚に仕舞われた鏡に自身の上半身が映り込む場所を探す。わずかに下に傾いた鏡面は、教壇から机の最前列まで下がってようやく私の姿を映し出した。

 ただでさえ小さな私は卓上鏡の狭い世界でより一層小さな姿となる。その小さな身体に落とし切れていない埃や汚れがいくつか目に付いたが、小さな世界ではそれはとても些細なことのように見えた。


 この世の全ては些末なことなのだろうか。

 見る場所や角度で世の中の情景は変わり、距離によっても大きさは異なって見える。誰かにとって重要事でも、他人にとっては瑣事に過ぎないのだ。

 私が大事にしている正しさも、人様が見れば粗大ごみのようなガラクタなのだろう。

 それでも、私は私が大事にしているものを共有したい。皆が同じ価値観の下、統一された規則に従って生活をすれば、すれ違いやいがみ合いなど起きないのではないだろうか。世界は今よりも、平和で大人しくなるのではないだろうか。

 だから、たとえ瑣事だとしても、私は正しさを唱え続ける。

 誰が歯向かって来ようと、誰と敵対しようと。

 そのためには、猿渡愛の過ちを追及しなければならない。彼女の不正の証拠を見付け出し、間違いを正すことが、私のするべきことだろう。


 手の中の本へと一度視線を落とし、写実的な筆致で描かれた絵画の表紙を見遣りながら、読書はしばしお預けすることを自身に言い聞かせ、私はテスト期間に猿渡が使っていた席へと向かう。

 試験期間中、生徒の席順は出席番号順にさせられる。普段使用している机ではなく、別の生徒が使用している机へと移動して、テストに挑む。つまり、事前に机の天板にカンニングを彫ったり書き込んだり、内部にカンペを仕込んでおくことはむつかしい。

 では、筆記用具や筆箱に仕込みを施しておくことは出来るだろうか?


 恐らく、不可能ではない。

 しかし、テストの最中に私が彼女を盗み見た時、猿渡は隠し持ったカンニング用紙などを見ている素振りはなかった。むしろ、テスト中、誰もがするように前方を見遣って考えを巡らせているようであった。監督官である教師に対して、カンニングを悟られないようにするポーズとも考えられるが、私が後方から盗み見ていることを猿渡は知らなかった。知らないのであれば、不審な動きがあっておかしくない。だが、彼女の挙動に違和感を覚えることはなかった。


 もしも、テスト期間中に疑惑を抱いていれば、私は彼女のカンニング発言にそこまで衝撃を受けることはなかったであろうし、試験期間に事の真相を確かめていたはずだ。

 つまり、手許などにカンペを仕込んで盗み見ていたとは状況から考えられないのだ。

 では、猿渡愛はどのようにカンニング行為を行っていたのだろうか。


 その確認のために、私は彼女が試験期間中に使用していた座席に赴いたのだ。

 椅子を引き、テスト中のように机に向かう姿勢を取ってみる。そして、ぐるりと教室を見渡す。テスト期間中は、普段壁に張られたプリント類は剥されたり覆いを被されたりしていて、ヒントになるようなものは当然何もない。

 そもそも、周囲を見回していたら即座に疑いをかけられるので、卑怯な手を施すには不向きだ。そうなると、不自然を感じさせない前方こそが、何かの工作を施すには打って付けとなる。実際、彼女は前方を――正確に表現するならば左前方を何度か見ていた。

 解答を思考する素振りと思っていたが、ここまで考えを推し進めると、そこにこそ彼女のカンニングの種が隠されているのではないかと疑いが芽吹いてくる。

 顔を上げ、斜め前方――正面の黒板から左側へと視線を横移動させると、戸棚があり、さらに左上方には天井からぶら下げられたテレビモニターがあった。


 戸棚の中には学級日誌やクラス名簿、連絡事項が記されたプリントをまとめたファイルに卓上鏡が収められ、天井から吊るされたテレビモニターは電源がオフの状態で、ブラックアウトした画面にはポジとネガを反転したような教室の壁がおぼろげに反射していた。


「もしかして、」

 視界に映し出された情報から、私はひとつ気になるものが見付かり腰をわずかに浮かせる。身体のサイズ全体が小さい私では、椅子に座った猿渡の目線の高さと異なるので、見える風景が変わってくる。それは、裏門から図書室を見上げた時に反射して映るものが夕空になる話にも繋がる。

 筋力の弱い私では腰を浮かせた中腰を長く保つことはむつかしいが、戸棚の中に置かれた鏡の内側に机の天板が映し出されているのを確かに認めることが出来た。鏡面に反映されている机の様子が、網辺や成績上位者のものであれば、それは十分にカンニングとして役に立つ。

 私は視線の入射角から、該当する机に見当をつける。そして、試験期間にその座席に座っていた生徒を出席番号から考える。網辺愛梨の出席番号は一番で、廊下側前方の席となり、今回鏡が映し出している教室左の窓辺から二行目の席とはかけ離れている。クラスメイトの名前をひとつひとつ口腔内で呟き、それが骨川有であることにようやく行き着く。

 しかし、多くの考えを巡らせて辿り着いた場所に、私は判然としないものを感じていた。猿渡に比べれば骨川の成績はわずかに良いものの、テストのカンニングとして参考にするレベルではない。


「この方法じゃあないの?」

 暗闇の中、ようやく見付け出した抜け道が行き止まりだった時、人間は抱いていた希望が抜け落ちて脱力し、途方に暮れる。私も今、行き先を失った旅人のように、呆然と立ち尽くすしかなかった。


「まだ、残っていたの?」教室の扉が開き、立ち呆けていた私に声がかけられた。「もう最終下校時刻よ。」

 特別な許可がない限り、生徒が最終下校時刻以降校内に残ることは禁止されている。規律に則った、正しい言葉を投げかけてきたのは、暮れた冬の夕空よりも暗く黒い髪をした網辺愛梨だった。

 美しく端正な顔立ちは、いかなる時も崩れることなく堂々としており、そこに人間味の希薄な冷淡さを嗅ぎ取る人間もいるが、この時の私はその表情に何人にも侵されない揺るぎのない正義を見ていた。

 正しくいるからこそ、彼女は威風堂々としていられるのだ。


「網辺さん、実は……、」

 自身では立ち行かなくなった謎を私は自然と口にしていた。まるで、困窮したものが神や正義、法に救いを求めるように。

「ふうん……。」

 猿渡愛がカンニングをしていたことを友人に告げていたこと、その事実を確認しようと教室を調べたこと、そして鏡を利用していた可能性に行き着いたことを私は矢継ぎ早に伝えた。もちろん、鏡面に映っていたものが骨川の机であったことも忘れずに。

 朝礼で校長の長々とした訓戒を聞かされる生徒のように、網辺は教室の中を一回り確認した後、詰まらなそうに小さく頷いた。


「勝手にさせていれば良いわよ。」

「勝手にって、カンニングしたんだよ。それを放置しておくって言うの?」

 私も認める正しさの象徴たる生徒会長の網辺愛梨が悪行を野放しにするというのか。それは正義に悖る行為だ。彼女も、猿渡と同じように私を裏切るのか。

 胃の腑から競り上がった怒りが私の頭蓋の内側を沸騰させる。

「勘違いしないで。不正を見逃すつもりなんて私には毛頭ないわ。でも、そんなくだらない小悪党の行いにかかずらう暇なんてないの。悪行には相応の報いが自然と下されるもの。」


「どういうこと?」

 彼女の言っている言葉が理解できなかった。

 悪は放置していればのさばり、社会や規則を蝕んでいく。だから、正義がそのひとつひとつに鉄槌を下し、捩じれたものを正さなければならない。正義は行使するものであり、自然と訪れるものではないのだ。


「そのうちに分かるわよ。」私の問いに答えることなく、薄い笑みを浮かべて網辺は踵を返す。「さっきも言ったけれども、最終下校時刻よ。規則は守ってね。」

 特例など許さず、彼女は校則を再度口にして教室を去っていった。

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