第1話 ⑤

 網辺愛梨が過去に借りていた本の貸し出し手続きを済ませ、私は冷気が走り抜ける廊下を教室に向かって戻っていた。定期試験を終えた昂揚感から行きの足取りは軽やかで、海中を泳ぐように図書室へと向かったが、帰りの足取りは熱に包まれ、浮付くようなふわふわとした足取りだった。


 彼女は一体どんな小説を読んでいたのだろうか。


 じわりと書籍を掴む掌に汗が滲み、掛けられたビニールカバーに水気が溜まっていく。


 彼女は一体どんな読後、感想を抱いたのだろうか。


 同じ視座で読書に当たれたのであれば、少しは彼女に近付くことが出来るのだろうか。少しは彼女に向けられるような視線を向けられるようになるのだろうか。


 熱病に侵されたように考えは偏った方向へと傾き、転げ落ちていくが、その思考運動すらどこか夢見心地で気持ち良い。


 廊下の窓は全て閉じられ、塗布された夕闇の墨色から入り込む光はわずかで、頭上の蛍光灯の白々とした光が床や壁を自然光から切り取っている。教室を示す札はプラスティックのカバーが光を反射し、クラスの数字が読み取りづらく、伸びる廊下に同じ部屋が反復されるように続いていた。

 迷宮のように何処へ向かえばよいのか分からない学校という箱庭の中で、割り振られた自分の番号に該当する教室を探し出す前に、私は不意に足を止めた。扉越しの室内から複数の声が聞こえてきたのだ。


「あんな啖呵切ってたけど、大丈夫なの?」

「タンカ?」

「網辺に言ったテストで良い点取るってやつ。」

「あー、うん。大丈夫じゃない?」

「なにそれ、超他人事みたいな口調、」

 私の背丈では扉の覗き窓には届かず、教室内は見えないが話の内容から、猿渡愛とその友人が話しているだろうことは想像がついた。


「だって、実際他人事だし、」

「どういうこと?」

「今回のテスト、全部カンニングして書いたから、全然他人事だし、」


 へ?

 鉄扉の向こうから聞こえてきた言葉に、私は鈍器で頭頂部を垂直に殴り付けられたかのような衝撃を覚える。言葉の用法が誤っているとか、そんな些細なことでは当然ない。猿渡がカンニングをしていたということと、今回の定期試験を他人事だと言い切ったことに、私は強い衝撃を――悲しみを覚えていた。


 背が低く、身体に殊更の曲線もない平凡以下の私と、髪を整え、化粧にも気を使っている猿渡愛とでは、あまりにも人種が異なり、気の置けない友人になることなどはないだろう。それでも、先日クラスメイトに向けた挑戦的な姿勢には、少なからず好意を抱いていた。

 周囲全員が自身に悪意を向けてくる時、両足でしっかりと立ち、挑みかかることは容易なことではない。しかし、彼女はあの時、それを見事にやってのけた。

 網辺愛梨も他者の攻撃に怯むことなどないだろうが、猿渡も同じ力強さを示したのだ。その行為に対して、少なからずの憧れを私は抱いていた。


 だが、あの時に私が感じた彼女の決意と気高さはまったくの紛い物で、そもそも自身の出来事とすら感じていなかったと彼女は言ったのだ。私の足下から熱が廊下に流れ落ちていくのが分かった。


 冷たい鉄の扉で隔てられた教室の中から響く哄笑の一音一音を耳にするたび、神経が鋭利に研ぎ澄まされ、その鋭さで何彼構わず切り付けたい欲求が磨き上げられていく。

 あははははっ。

 ひと際高い猿渡の笑い声が外耳を抜け、鼓膜を振動させると同時に私は教室の扉を勢い良く開けて、女子二人だけが残る教室へと踏み入っていた。

 扉を開けた瞬間、彼女たちは犯罪者のように顔を強張らせ、慄く視線を私へ向ける。しかし、予期せぬ闖入者が背の低い、床の間に飾られた日本人形のように凹凸のないのっぺりとした顔立ちの同級生と理解すると、緊張した顔の筋肉は弛緩し、口許に強者特有の人を見下した笑みが浮かび上がってくる。


「何だ、座敷ちゃんか、」蔑称すれすれの渾名を口にしながら、赤く強調された唇を彼女はニヤニヤと吊り上がる。「どうしたの、迷子にでもなった?」

「本当なの?」

「え、何?」

「カンニングしたって、本当なの?」吊り気味の両目でまんじりと猿渡を捉えて、私は尋ねた。「今、カンニングしたって言っていたよね?」


 私の視線と猿渡の視線は教室の途中でぶつかったまま、互いに引き下がることなく真向で競り合っている。

「全然言ってることが分からない。」

 肩を竦め、視線を外すことなく猿渡は口許に笑みを浮かべる。

「だから、貴女が言っていたカンニングをしたという――」

「そうじゃあなくて、」彼女は私の言葉に被せるように頭を振る。「カンニングをして、何か悪いの?」


 は?

 それは私には到底理解できない言葉だった。試験というのは学業の研鑽を試みる場であり、他からの助力を得てしまえば、己の力量を推し量ることは叶わず、その必要性は失われてしまう。だから、試験の意味を根底から覆してしまうカンニングに何ら罪悪を抱かない発言は、私には理解も許容も出来ない。


「悪いに決まっている。本当の自分の実力を確認できないし、それによって他の生徒の順位や実力の判定が歪められてしまう。」

「アンタも、網辺が言いそうな正論を言うのね。」

「誰が言うとかは関係なくて、悪いことは悪いことだよ。」

「真面目に受けた結果を馬鹿にするのは、悪いことじゃあないの?」


 猿渡の瞳の色に剣呑が帯びるのを対峙する私には感じ取れた。

 試験期間がはじまる直前、彼女と網辺が言い争った時の様子が顕著であったが、クラスメイトは猿渡愛の成績が低いことを知っていて、あの嘲笑を皆が浮かべた。恐らく、彼女にとってそれは普段から陰に陽に向けられていた嘲りで、ひとり心を傷めてきたのだろう。他者から見下され続けることの苦痛は私も理解できる。背が低く、可愛げなくて、運動神経も悪い私も他人から馬鹿にされることが多い人生だった。だから、私は正しいことを行う。正しさはどんなに劣っていても、どんなに力がなくても、他者と向かい合う時に強い武器になる。正義を大っぴらに否定できる人間なんていないのだから。


 でも、猿渡は別の正義の問題を突き出して、自らの悪を帳消しにしようとする。

「人を馬鹿にすることは良くないよ。でも、それを見返そうとするのならば、正々堂々と立ち向かわないと駄目だよ。」

「正々堂々?」

「ええ。ルールに則り、正しく行うことで、はじめて見返すことが出来るはず。不正を行って勝っても、きっと虚しくして自分の気持ちを却って傷付けるだけだよ。」

「アンタが何をもって正しいと言っているか知らないけど、何で私を馬鹿にしている人間の規則に従わなきゃあいけないの。私は私のルールで戦うだけ。」

「でも、それじゃあ同じ土俵に立っていないし、勝負になっていないよ。」


 私はどうにか彼女の過ちに気付いてほしく、様々な言い方を試みるがその尽くが彼女に届く前にその前方で張り巡らされた歪んだ価値観に阻まれる。


「まともな勝負なんてこっちにはする気はないの。大体、アンタはそっち側の正しさだけ主張して、こっちの気持ちなんてこれっぼっちも考えようなんてしていない。規則に従えて、イイ子イイ子してもらえるんだから、とても楽でしょうね。」

 猿渡は手を伸ばし、私の頭を二度三度撫でて毒々しく笑う。その挙動に、私はカチンときた。

 彼女の苦しさや怒りを私は考えているし、理解している。それなのに、彼女の方が私のことを理解していないし、自身がされて嫌な嘲笑をそのどぎつく紅を塗った唇を吊り上げて浮かべた。

 気付いた時には、私の右手は勢い良く振り抜かれ、掌に電流を流したかのような猿渡の頬をはたいた感触がびりびりと残っていた。


 一瞬の静寂が教室を包んだ。

 叩いた私もだが、叩かれた猿渡も、暴力が振るわれるなど微塵も考えていなかったであろう、驚きが表情と身体を制止させていた。

「っざけんなよっ、」

 しかし、止まった時間は次の瞬間には罵声とともに打ち破られる。

 猿渡は細い腕を伸ばすと私のおかっぱ頭を鷲掴み、頭上へ吊り上げるかの如く力で引っ張った。ブチブチッと幾本もの毛髪が頭皮から引き抜かれる音が頭蓋に響き、そのまま頭皮までもが引っぺがされるような冷たい痛みが全身を走り抜ける。

「あああっ、」痛みと恐怖から私は絶叫し、短い腕を遮二無二振るう。目的や対象物があったわけではなく、ただただ自身を襲う苦痛から逃れるためだけに滅多矢鱈と振り回した指先や手の甲に肉を打つ感触や引っ掻く感触が伝わってくる。


 どんっと強い衝撃で身体を突き飛ばされ、肘や背中、頭を勢いよくタイル床に打ち付けて私は倒れた。顔を上げると、眦を吊り上げ、鬼女の如く形相で猿渡愛が突き立っていた。顔には幾筋かの引っ掻き傷と目許はわずかに赤く腫れている。

「ちょっと小柄で可愛いからって、調子乗んなよ、ホント。」

 歯を剝き、獰猛な肉食獣のような低い声で唸り、猿渡は私を見下ろす。

「カンニングだとか、正しい行いとか、いちゃもんばっかつけてさあ、大体私が本当にカンニングしたって証拠でもあるの。どうやってカンニングしたって言うの?」

 一語一語に合わせて、上履きの爪先が腕や肩、胸を突く。

「何にも分かってないくせして、ピーピー騒がないでくれる。マジでウザいから、」

 蹴られながら、彼女が言う通り私は何も分かってなかったとのだと理解する。私が考えていたより、猿渡愛は自尊心が高いわけでも高潔なわけでもない。ただ人に馬鹿にされるのが嫌な幼稚な人物なのだ。


「ちょっと愛、ほどほどにしといた方が良いんじゃない?」

 教室にいたもう一人の女子が猿渡を嗜めに入り、繰り返された蹴りがようやく止む。全然ほどほどではなく、私の肩や腕には鈍痛が響くし、制服は足跡や埃がくっきりと跡を残している。

 見上げると、細い肩を上下に息を乱しながら、猿渡は私を睨み続けていた。


「二度と、私に自分の正論だけで、説教しないでくれる。」

 途切れがちな言葉を、吸い込んだ息と一緒に吐き出しながら、言い捨てる。蹴られるのも、突き飛ばされるのも、毛髪を鷲掴みにされるのも嫌だから、首肯してしまえばそれで騒動の全てが終わりを向かえるのだろうが、私の性格はどうやらそんな可愛らしくできていないらしい。

「カンニングした証拠、絶対に見付けてみせるから、」


 べーっ、と舌を突き出しながら言うと、短いスカートから伸びる白い太腿が揺れ、私の薄い胸に上履きのゴム底が踏み付けるように蹴り付けてくる。

「ホント、ざけんなよっ、」

 再び蹴りの嵐が、私の胸や腹、腕、肩を襲う。

「何も出来ないちびの分際でさ、ピーピー喧しく騒いでさ、正しいことやったつもり。偉くなったつもり。」

 叩き付けられる言葉と靴底の痛みが一度毎にその衝撃で呼吸を乱し、息の詰まる苦しさが悔しさと相俟って、私の瞳にはいつの間にか涙が溜まり、身体を打つ衝撃が瞼から涙を零れ落とす。そして、一度零れると、涙は止まらなくなり、ぽろぽろと頬を伝って埃や足跡で汚れる制服に混じっていく。


「おい、そこまでにしとけよ、」

 教室の扉が勢い良く開く音が響き、低い胴間声が聞こえてきた。その一声で、止むことがなかった風雨のような暴力がようやくその勢いを衰えさせた。

「有か、」闖入者に一瞥をくれ、猿渡は片を上下させながら彼の名を呼ぶ。「何しに来たのよ、」

「お前がまた無茶なことしてるから、止めに来たんだよ。」大柄な彼は猿渡に歩み寄ると、荒ぶる肩を労わるように大きな掌で撫でる。「劣った人間の気持ちなんて理解できない奴らの所為で、停学になるなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがあるから、もう止めとけ。」

 散々蹴り付けられた痛みと罵倒の言葉に打たれた心の苦しさの洪水で、身体も口も上手く動かせなかったが、骨川の言葉は再び私の気持ちに怒りの炎を灯す。

 まるで自分たちが被害者のようなもの言いだが、では彼が虐げている福家はどうなると言うのか。彼の苦しさを理解しているのか。理解しているのなら、何故暴力を振るい続ける。何で止めてあげない。


「止めに来たって、アンタ何処で見ていたのよ。」

 教室の扉は締め切られ、扉の硝子窓から覗いていれば彼の巨体ならばすぐに気付いたはずだ。しかし、私も猿渡も外からの視線など感じなかった。それなのに、あまりにもタイミングよく駆け付けた彼に、胡乱なものを見る眼差しを猿渡が向けるのは当然だった。


「向こうの校舎から、たまたま見てた。」

 太い親指で、骨川は窓を指し示す。陽が沈み、夕闇がカーテンのように覆う先の、数十メートル離れた場所に向かいの校舎の窓硝子から漏れる明かりが認められた。

「あんな離れたとこから、よく私だって分かったわね。」

 人影は認められても、そこにいる人間が誰であるかなど、数十メートル離れたら認識するのは容易ではない。

「オレの視力が良いのは、お前もよく知ってるだろう。右目も左目も視力二・〇以上だぜ。」

「まあね、」

 詰まらなそうに頷くと、猿渡は再び私へと視線を投げる。

「みんなの顔に免じて、今日はこれくらいで許してあげるけど、今後は態度に気を付けなさいよ。」

 言い返す気力もすでに失っていた私は、骨川と友人を連れだって教室から出て行く猿渡愛の後姿を見続けることしか出来なかった。

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