第1話 ④

 ドッペルゲンガーの話に結論が出ることはなく、私は二人から離れて書架によって模られた回廊を歩みながら、モザイク画のように並ぶ書籍の背表紙ひとつひとつに視線を投げ、並ぶ文字を頭の中で読み上げていく。特定の書籍を目指しているわけでなく、音の響きを感じながら、琴線と共鳴するものを探る。

 棚と棚の間を進み、私の心を振るわせてくれるタイトルに出会うことなく窓辺の書架の前に出る。線香花火の火種のようなぐずぐずとした、いまにも液化してしまいそうなオレンジの陽射しが硝子越しに差し込んでくる。目を細め、外を覗くと眼下には裏門があり、下校する生徒の姿がひとつ二つ見受けられた。


 坂道を下って最寄り駅に続く正門と違い、裏門は山の裏手に繋がる鬱蒼とした木々のトンネルと長々と伸びる階段を降っていかなければならないので、使用する生徒は少ない。林檎は『校門』としか言っていなかったが、図書室を見上げることが出来る校門は裏門のみだから、目撃者が少ない理由も頷ける。


「この辺りに、網辺愛梨のドッペルゲンガーは立っていたのかしら、」

 裏門の位置と角度を考え、私はその場所に立つ。それが本物だとしても、幻だとしても、彼女は何のためにこの場所に立っていたのだろうか。周囲へ視線を馳せるが、奥まったその通路は林檎と森がいる図書カウンターは見えず、その他の閲覧スペースのテーブルや椅子も望むことが出来ない。逆を言えば、室内の他の何処からもこの場所は見られることがないということになる。唯一見えるのは、裏門から図書室を見上げた時だけだ。

 もしも網辺本人がこの場所に訪れていたのだとしても、カウンターに詰めている図書委員は気が付かない可能性もある。


 では、何故彼女はこんな人目の付かない場所にやって来る必要があったのだろうか?


 逢引き。古めかしい言葉が自然と浮き上がってくる。うら若き乙女が校内で人目を忍んで行うことなど、いくつもない。あとは、喫煙。


 しかし、その両方とも私が知る網辺愛梨の印象に合致しない。

 頬を赤らめて焦がれる相手が訪れるのを一日千秋の思いで待つ様子など想像もつかないし、むしろ相手が平伏しながら謁見に訪れるのを待っているほうが、連想し易い。

 煙草に関しても、自らの身体を蝕む行為をするとは思えない。それが人であっても物であっても、心や身体を他に侵食されることを良しとする人間とは到底思えない。


 では、彼女はこの場で何をしていたのか。


 普通に考えれば、図書室の本棚の前ですることはひとつだ。

 本を探していた。

 私は視線を棚に戻し、再び背表紙のタイトルを目で追う。五つの段に区分けられた書架には国名が書かれた仕切りで区切られた海外文学が並び、狭い棚の中に無理矢理に世界が収められていた。ロシア的な名前なのにアメリカに区分されていたり、名の響きと国が一致しないものが散見される。それは整頓がなされていないのか、それとも世界が混沌としているのか分からない。


 モザイクのドットを見回しながら、ふと東欧と区分された領域に目が留まる。それはたまたま私の目線に合う低い位置に並んでいたからなのか、それとも何か人形を操る糸が私を導いているのか、自然と手が伸びて一冊の本を取り出す。

 全集なのだろうか、全小説と記された題名にはしかし巻数は書かれておらず一冊でその著者の小説が全て収められているのだろうか。海外文学に疎い私には、その作者がどれほどの知名度を誇る存在なのか分からず、パラパラと頁を捲って奥付の先、学校図書ならではのカードがポケットに刺さった最終頁に指が引っ掛かる。貸し出し履歴が記されたカードには名前がひとつ書かれているのみ。ポケットから札を取り出し、その名前を確認するとそこには網辺愛梨と記されていた。


 不在証明を否定するサイン。

 いないはずの人間の存在感。


 不図、背後から視線を感じて振り返ると、冬の暗く染められ夕空を向こう側に煌々と明るい室内を反射させる窓硝子に、私の姿が鏡のようにくっきりと移りだされ、両の眼がじっと私を凝視していた。

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