第1話 ③
数日のうちに全ての科目の試験を行うという過密な行程は終わりを迎え、生徒の面貌には重く沈み込むような冬の曇天の隙間から射す仄暖かい陽の光のような明るさが、疲労の合間から見え隠れしていた。
しかし、数日後にはその
一人は網辺愛梨。彼女はそもそも一貫して透徹した態度しか取ることがなく、瑣事に一喜一憂することがないのだから、期末試験ごときで感情を揺さぶられることはない。安堵も不安もなく、普段と変わらぬ様子で放課後は生徒会へと向かう後ろ姿を確認した。
もう一人は、先日網辺と対立した猿渡愛だ。彼女は机の天板に腰を下ろし、短いスカートの裾から生やす肉付きの良い脚をぷらぷらと宙で揺らしながら、テストのことなど微塵も窺わせることのない黄色い声を教室に響かせ、友人たちと会話を楽しんでいる。
そして、最後に私――十津根まり自身も試験期間終了の解放感に大いに浸っていた一人だ。
我が杜亜高校では、試験期間中の図書室の使用が著しく制限される。勉強部屋として休み時間や放課後に使用することは問題ない。しかし、図書の貸し出しは原則行われていないのだ。理由は明白で、部活動同様委員会活動も試験期間中は休止となるため、貸し出し作業や返却業務を行う人手が足りなくなり、本は図書室内のみでの閲覧に限られてしまう。
しかし、全科目のテストが終了したということは、すなわち図書貸し出しが解禁となることを意味する。私は足取り軽く図書室へと向かう廊下の冷えた空気を切り裂きながら進む。
教室の中は暖房が設置されているので暖かさが保たれているが、廊下に出ると空気は途端に十二月のそれとなり、喚起のために解放されている窓からは間断なく冷たい波が打ち寄せ、陽の照らない一角などはさながら深海のように薄暗く寒い。
遊泳する魚のようにスカートの裾を揺らめかせ、寒さなど忘れて私は階段を上り、上空から俯瞰するとHの形をしている校舎の横棒部分に当たる区画に設けられた図書室に続く廊下に出る。
と、そこで私の足はピタリと止まった。図書室や他の特別教室の扉が並ぶ廊下の先、深海の岩場に身を隠すように二つの人影が人目を避けるように向かい合って話していた。
骨川有と福家玄夜だ。
一部の生徒以外使用することがほとんどない図書室や授業時にしか使用されない特別教室が並ぶ区画は放課後になると人目は少なく、後ろ暗いことをするには最適な場所と言えるかもしれない。
窓から射し込む冬の透き通った陽射しが廊下に日向と影の縞模様を描いた先、照らされて輝く粒子となった埃の網目越しの暗がりで二人は何語か言葉を交わし、険悪な様子は窺えない。
「何をしているの、」
私は震えを抑えて、廊下奥の日陰にいる二人へと声をかけた。二人の男子は不意の呼びかけに、弾かれたようにこちらへ顔を向け、暗闇から四つの眼が海面を見上げるようにぎらりと鈍く光る。
チッ。
微かに木霊する舌打ちの音を耳にし、私は骨川へと注意を向けるが、彼は届かぬ声で何事かを呟くと廊下の奥へと踵を返してさっさと立ち去ってしまった。長い廊下に静寂が沈み落ち、冷たい空気と窓明かりからなる陰影に浸かって混じる。対岸に福家の痩身だけが影絵のように残っていた。
しばらく、彼はその場にぼんやりと佇み続けていた。どこか怪我でもしたのだろうか。
心配になり、廊下を駈け出そうかと思案しはじめた時、澱なく静と寂の海底を渡ってくる彼の姿が次第に大きくなり、私はほっと胸を撫で下ろした。
顔に怪我を負っている様子もない。紺のブレザーが乱れていたり、破れている様子もない。どうやら、今日は暴力を振るわれていたわけではないようだ。
「大丈夫?」
「心配するようなことなんて、何にもないよ。」
薄い唇を弱々しく緩めて、福家は少し困ったように笑ってみせる。案じた言葉を投げると、彼はいつも同じように困ったように笑うのだ。昨日も、それ以前も。
「本当につらい時は口にするから大丈夫だよ。」
「本当に?」
細身で上背のある福家の顔を見るには、私の低い身長では見上げるしかなく、傾斜の付いたその表情から感情を推し量るのはむつかしい。
「うん。」
頷く彼の言葉を私は信じるしかできない。
「分かった。信じる。」首肯し、重くなってしまう話題を私は転じる。「ところで、福家も図書室行くの?」
図書室を頻繁に利用する人間の数は多くはない。その数少ない生徒の中に、私と福家がいる。私たちが必要もないのに話すことが増えたのは、図書室で出くわすことが多く、その他の利用者も含めたコミュニティーにいつの間にか二人とも加わることとなり、自然言葉を交わす頻度が高くなったからだ。
だから、現在地から考えれば彼が図書室に向かう可能性は高いと考えた。
「いいや、このあと用事があるから、今日は寄らない。」
「そう、」私は気持ちと声音を沈めて頷いた。
「じゃあ、また明日。」
私の様子になど一切気に留めず、彼は目線の遥か頭上で手を振って去っていく。振り返り、遠退いていく背中は陰影の波を潜り、深海へと沈み行くようで見ていて息苦しくなる。窒息してしまう前に私は視線を逸らし、氷のように冷え切った図書室の鉄扉に指をかけて開ける。
刃物のように澄み切っていた冬の海底と違い、扉一枚隔てた室内は文明の園だった。低い唸り声のような音を上げて吐き出される温風は広い部屋の中に充満し、寒さに締め付けられた身と心を優しく包み込んでくれる。
暖かい風の流れへ視線を泳がせると、四方には書架が並び、文字という人類史上最大の発明が収められた紙の束が、印刷技術と製本技術によって組み立てられて密林のように色鮮やかに収められている。
肺いっぱいに空気を吸い込み、私の中で冷え切っていたものを追い払いながら図書室を進むと、男女が二人楽しそうに会話をしていた。他に生徒の影はなく、静かな室内に二人の声は良く響く。
「あ、まりちゃんだ。」
会話をしていた女子が私に気付き、大きく手を振るう。
「ねえねえ、まりちゃんも聞いた?」
彼女は私が歩み寄ると大きな瞳を輝かせながら、私のつぶらなそれを見詰める。他者と何ら躊躇いなく視線を交らわせることが出来るのは、彼女の屈託のなさの表れだろう。
「何を?」
「ドッペルゲンガーの話。」
「ドッペルゲンガー?」
「そう。瓜二つの人間が別々の場所に現れるやつ。」
「林檎はドッペルゲンガーを見たの?」
私は俄かに心配する。迷信では、ドッペルゲンガー――自己像幻視は肉体と霊魂が分離したことで起きると言われ、生命として均衡の欠いたその状態は何らかの不調の合図であり、『死の前兆』と言われることもある。
「ううん、私は見てないの。」
ふるふると首を横に振り、林檎は残念そうに唇を尖らせる。
「私のお姉ちゃんのクラス――三年一組なんだけれどもね、そこで話題になっているんだって。」
彼女の話をまとめると、三年生の幾人かの生徒が、そこにいるはずのない人物を放課後に何度も見かけたというらしい。しかも、その目撃場所は図書室だという。
「帰り際に校門付近で校舎を振り返った時に、図書室の窓の一つに人影が見えて、それがドッペルゲンガーなんだって、」
胸の前で手の甲を垂らし、どろどろどろどろと口囃子を奏でるが、それでは幽霊である。
「一年生でも、見た女の子がいるそうだよ。やっぱり放課後で、校門から振り返った時に見たんだって。」
「みんな、自分の姿を図書室の中に見たの?」
一般的にドッペルゲンガーは自身の分身であり、だからこそ、先の不吉の前触れという迷信も成り立つ。
「ううん、一年生の話だと、愛梨ちゃんを見たって話だよ。」
網辺愛梨。一年生ながら生徒会長に選出された、我がクラスメイト。長く艶のある黒髪は特徴的で、その凛とした佇まいは遠目にも確認はし易いだろう。
「それって、本人が図書室にいたとかではないの?」
自身の幻影ではない限り、目視したのが本人かドッペルゲンガーの区別は他者からはむつかしい。
「目撃した子も最初は愛梨ちゃん本人だと思ったんだって。でも、校門を潜る直前にも愛梨ちゃんに遭遇して、そっちとは下校の挨拶をしたらしいの。」
「言葉を交わしたというのなら、」一般的にドッペルゲンガーは他人と言葉を交わさないと言われている。つまり――
「うん。だから、図書室にいた愛梨ちゃんがドッペルゲンガーなの。」
林檎は細い腕を腰に当て、薄い胸を反らして勝ち誇るように鼻を鳴らす。確かに、今の話を聞けば、不可思議な現象が噂になっていることは分かった。しかし、いくつかの可能性が無視されている。私はその確認のために、もう一人の男子へと視線を向ける。
黒縁のセルフレールメガネをかけた森大地は微苦笑を浮かべながら、肩を竦める。
「十津根さんの聞きたいことは分かるよ。」
小気味よいテノールの声音は人を包み込むような包容力があり、不思議と声に耳を傾けたくなる。
「見間違いの可能性を聞きたいんだよね。」
「はい。森先輩は図書委員の仕事をしている時に、図書室でドッペルゲンガーを見ましたか?」
図書カウンターの内側の椅子に座る森は一学年上の二年生で、図書委員として週になんどか委員活動として司書のような仕事をしている。だから、複数人が校舎外から図書室の窓に網辺愛梨のドッペルゲンガーを見たというのならば、室内でも当然見かけるはずだ。
「さっきから何度も林檎ちゃんにも尋ねられているけれども、残念ながら僕は一度もドッペルゲンガーを見ていないよ。」
「先輩が委員活動していない日とかはどうですか?」
せっかく仕入れた摩訶不思議な現象を否定されているようで、林檎は頬を膨らませて森に食って掛かる。
「もしもそんな不思議なことがあれば、図書委員の中でも噂になっているよ。でも、そんな噂ははじめて聞いたよ。」
図書室の中では目撃されていない人影が外から認められたと考えると、硝子面に反射したものを室内の風景と見誤った可能性が浮上してくる。話によれば、目撃者の生徒とともに網辺も校門付近にいたことになる。ならば、目撃者の近くのものが照り映っていても不思議ではないと思う。
「それはおかしいよ。」森はゆっくりと首を横に振り、私の考えを打ち消す。「正面に位置していない限り、目撃者とほぼ同じ位置にあるものは硝子面に反射することはないよ。」
森はブレザーのポケットからスマホを取り出し、磁石で止まっているカバーを開いて内側に忍ばせている鏡面を私と林檎の視線と水平の位置に垂直に示す。裏返された世界から、愛想のない吊り目のおかっぱ頭の女子が睨み付けるように私のことを見ている。
森はゆっくりと鏡を持ち上げ、見上げなければ小さく切り取られた世界は覗き込めず、そこに可愛げのない少女はおらず、背後に並ぶ本棚や天井の一部が見えた。
「分かったかな?」
「はい。」上層階の図書室を校舎外から見る場合、自然視線は見上げることになり、反射して映るものは夕空でなければならない。人の姿が写り込む方が、ドッペルゲンガーよりも不可思議な現象になってしまう。
「でも、そうするとどういうこと?」
現実的な理屈は砕かれ、漠とした不可解さだけが形なく残り、林檎は首を傾げる。私と森は肩を竦めることしか出来なかった。
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