第1話 ②
ひとつの狭い教室に三十人強の思春期の少年少女が閉じ込められれば、必然的に喧騒と混沌が渦巻き、秩序とは程遠い空気がいつもは支配しているが、今日は静寂と規律が室内を包み、混乱の対極に位置していた。
カリッ、
カリカリッ、
カリッ、カリカリカリッ、
耳に触れるのはペン先が紙の表面を引っ掻き、印を残す微かな物音だけ。
垂らしていた首を伸ばして顔を上げると、同じ姿勢で机に齧り付いている生徒の後頭部が収穫前のキャベツのように並び、黙々とペンをテスト用紙に走らせている。
昨日網辺が揶揄したようなことはなく、皆が問題用紙に書かれている問いかけに対して真剣に答えている。もしもここで沈黙を押し通す人間がいたとすれば、それは昨日の黙秘とは真逆の意味を持ち、反発の言葉を発した猿渡愛と同じように悪目立ちをすることになるだろう。
私はそろりと視線だけで猿渡の様子を確認する。
一学期の定期試験や二学期の中間テストで、彼女は沈黙に等しい結果を残したのは教師からの叱責で皆が知るところとなっている。しかし、網辺との口論の果てに猿渡は高得点を獲得することを宣言した。果たして、その言葉を実現させる目算は彼女の内にあるのだろうか。
他の生徒と同じように猿渡は明るい色の頭髪を垂らし、机の上に広げたテスト用紙に視線を下ろし、握ったシャーペンで解答用紙のマークシートを一桝一桝必死に埋め、途中解答に詰まると顔を上げ、思考に耽るように教室の左前方をぼんやりと見上げる。
しばらく前方を見詰めると、考えがまとまったのか再び彼女は顔を伏せて解答用紙にペンを走らせた。
結果がどのようになるかは分からないが、猿渡は最善を尽くそうとしている。性格的に私とは相反するために仲良くなれるタイプではないが、彼女の努力は好ましく思うし、報われて欲しいと思う。
正しいことは報われるべきだし、間違ったことはただされるべきだ。
真剣な表情で試験を受ける猿渡の姿を確認すると、私は次いで網辺の姿へも視線を向ける。席の並び順の都合、私からは彼女の艶やかな黒髪とその隙間から覗く貝殻のような柔らかな曲線の耳だけが見える。他の生徒が齧り付くように問題用紙と向き合っているのに対して、彼女はさながら手紙を認める時のように姿勢正しく問題を解いていた。
猿渡愛とまるで対をなすように、網辺愛梨は入学してからの定期試験で全て学年首席を取得している。特に数学の成績は並ぶものがなく、毎回満点を獲得しているとの噂だ。そんな彼女にとっては皆が真剣に取り組まなければ解けない問題もさしたる労力をかけずに解き明かしてしまうのだろう。
整った顔立ちに細く均整の取れた身体付きと容姿も良く、頭脳も明晰ときては対等に仲良くなれる友人など出来ないのではないかと思う。現に、網辺と仲の良い人物を見聞きした記憶がない。
所謂優等生に分類される網辺愛梨とも、劣等生と目されてしまう猿渡愛とも、どちらの人種とも私は仲良く出来る自信がない。今朝、鏡の前で確認した自身の姿は中学の入学時にはじめて袖を通した制服姿とさして変わることがなく、低い身長に日本人形のような切り揃えられたおかっぱ頭。華も色もない容姿は良くも悪くも人の目を惹く人種とは相容れられるわけがない。
彼女たちに憧れがないわけではないが、私は私以上になれるわけがないのだから、せめて私という存在の範囲で出来ることをするしかない。道理にもとることはせず、正しきことをする。それが私という人間でも出来得ることだ。
不図、美しい背筋を保っていた網辺の姿勢が崩れ、首を傾げた。
彼女でも設問に悩むことがあるのだろうかとしばらく様子を見ていると、テスト期間中出席番号順に席を並び替えて、最前列に右側の机に座る網辺は昨日骨川が殴った出入り口の扉を見遣る。扉の覗き窓部分には幾筋の亀裂が走り、廊下に砕け散らないように外側から段ボールが貼られていた。
網辺は頭上を見上げ、手元のテスト用紙を動かすと再びマークシートの桝目を塗り潰していく。どうやら、扉の硝子窓が塞がれて手許が薄暗かっただけのようだ。
落胆の気持ちが自然と溜息として零れ、私は自身の心情に驚く。
どうして私は今がっかりしたの?
答えは分からない。だから、私は黙ることしか出来ない。
余計なことは考えず、他の生徒と同じように再び頭を垂れて、私は答えられる問題にだけ答えていく。分からないことに無理矢理答えを出そうとするのは、正しいことではない気がするから。
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