女王の掌はダンスホール

乃木口正

第1話 ①

 ガシャンッ

 

 昼休みの喧騒を砕き割るような、鈍い金属を叩く音が教室内に木霊した。弁当を啄んだり、友達とお喋りに興じたりしていた生徒の動きが写真に切り取ったかのようにピタリと止まり、次の瞬間いくつもの眼が音の出処へと向けられる。

 正面黒板の向かって右手側、教室の出入り口となる金属扉。そこに男子生徒がぶつかったのだ。


 私はその一部始終を見ていた。


 扉に背を預けて床に蹲る男子生徒――福家玄夜ふくいえげんやが肩幅も逞しい屈強な体躯の骨川有ほねかわゆうに突き飛ばされて鉄扉に背中を強打し、けたたましい音を室内に響かせるのを。


 それは唐突の出来事だった。

 自身の机で本を読んでいた福家へと骨川が歩み寄り、胸倉を掴み上げると粗大ごみを放るように突き飛ばしたのだ。

 弁慶のように仁王立ちをした骨川は蹲る福家を見下ろしながら、「不快だ。」とか「目障りだ。」とか罵詈雑言を浴びせる。その様子を多くの生徒は目で捉え、耳で認識していたが、次第に箸は再び弁当へと向かい、唇は友人との会話を再開させる。触らぬ神に祟りなし。誰も与り知ろうとはせず、風景としてそのやり取りを受け流していた。


 骨川が福家に暴力を振るいはじめたのは昨日今日の出来事ではなく、夏休みが明けて二学期がはじまった頃にはすでにその関係は成り立っていた。当初は顔を顰めたり、その所業を囁き合うこともあったが、日々繰り返されて日常化していくにつれ、関心を示す人間はひとり二人と減り、今では教室の多くが無感動にその景色を見ていた。


 しかし、全員ではない。

「いい加減に――」

「何をしているのかしら?」

 私が机から立ち上がりかけた瞬間、福家が凭れ掛かる教室前方の扉ではなく、もう一つの後方の出入り口から教室に入ってきた人間が骨川の行為を嗜める言葉を発した。

 喧騒を取り戻していた教室内が、再び水を打ったかのように静まり返る。


「何をしているの?」

 もう一度、今度は険を含む口調で問う。見るまでもなく、クラスメイトであれば――いや、この杜亜高校に通う生徒であれば、誰もがその声の主が誰であるか分かっただろう。

 腰まで伸びた長い黒髪は鴉の濡れ羽色と形容するに相応しい艶やかな漆黒。その黒い前髪を分けて晒される額はやや広く、切れ長の双眸と相俟って知的な印象を向かい合った人間に与える。彼女の名前は網辺愛梨あみべあいり。一年生でありながら、生徒会長となった才女だ。


 網辺はゆっくりとした足取りで後方の扉から机の間を縫って、教壇まで進み出る。

 紺色のブレザーは皺ひとつなく、三つのボタンはしっかりと留められ、多くの女子生徒がしているような非公式のリボンタイではなく、正式なネクタイを首元で結び、膝を隠すスカートのプリーツは折り目正しく、一部の隙のない佇まいで踵を返すと、彼女はクラスを睥睨するように見渡す。


「何があったのかしら?」

 再三の問いかけに、当事者の骨川はもちろん、教室の中から返答が上がることはない。

「明日からの期末テストでも、問いに対して何も答えないのかしら?」

 整った顔の中心を走る鼻が微かに歪み、挑発するように彼女は笑った。しかし、見て見ぬ振りをしてきた生徒たちは気まずそうに沈黙を保ち、その場をやり過ごすことに終始する。

「そう。なら、私以外みんな0点ね。」

 さしもの才女も挑発に触発されるものがないことに呆れ返り、溜息を零した。


「ちょっとさあ、何様のつもりなの、さっきから?」

 黙り続けていた一人が声を上げる。

「良かった、受け答えできる人がいるみたいね。」網辺は食って掛かられたことなど微塵も気に掛けず、相手へと視線を向ける。

 網辺に反発したのは彼女を裏返したかのような女子生徒だった。脱色した髪は黄金に近い茶色で、毎朝熱心にコテを当てているのだろう、波打つようにカールした毛先はふわりと軽やかで、首元のリボンはゆらりと垂れ下がっている。


「制服の着こなしについては何度か注意しているけれども、今日はそのことは置いておきましょう。それで、何様とはどういうことかしら、猿渡さん?」

 アイシャドーで縁取られた猿渡愛さるわたりまなの目を見詰めながら、網辺は首を傾げる。


「アンタのその態度を言っているのよ。同級生のくせに上から目線でいつもいつも偉そうにさあ、」

「偉そうに聞こえていたのならば、それは申し訳なかったわ。私としては、当たり前のことを注意していたつもりなのだけれども、ならば上級生に灸を据えてもらうほうが良いみたいね。同級生からの忠告が嫌だというのなら。」

「そんな話はしてないでしょう。アンタが人を馬鹿にしているって言ってんのよっ。」

「当たり前のことを注意しているだけと言っているでしょう?」

 猿渡が顔面を紅潮させて叫んでも、網辺は一向気にする素振りなく、冷ややかな眼差しをその怜悧な眼から送る。恐らく、その仕草こそが猿渡の神経を逆撫でしているのだろうが、彼女はそのことに気が付いているのだろうか。


「当たり前って、人に0点だとか言うのが、当たり前なの?」

「質問に応えなければ、0点に決まっているでしょう。」

「テストとアンタの質問は違うでしょう。誰もアンタなんかに返事がしたくなかっただけよ。」

「そう、それは良かった。」網辺は赤い唇を緩めて優しく微笑んだ。「ならば、明日からのテストではしっかりと解答を記してくれるのね。」

 ぷっ。

 張り詰めた空気の中、込み上げる笑いの衝動を抑えきれずに誰かが噴き出す音が木霊した。すると、漣のようにクスクスと失笑がそここと漏れてくる。


「誰よ。何、笑ってんのよ。」

 ぐるりと教室を見渡し、猿渡は絶叫する。同じクラスの人間であれば、彼女の成績が極端に悪いことを誰もが知っているのだ。例え、問いに対して真剣に解答したとしても、クラスで一番0点に近いのは、間違いなく彼女だ。

 もしかしたら、だからこそ猿渡は網辺の0点発言に過剰に反応したのかもしれない。


 ガシャンッ


 数分前に轟いた音と同じ音が再び室内に響いた。

「笑ってんじゃねえよっ。」

 騒ぎの元々の元凶である骨川が自身の拳で金属の扉を殴り、甲高く不快な音を響かせたのだ。怒りに任せたその暴力に扉の耐久力はわずかに及ばず、うっすらと拳の凹凸が鉄の表面に残り、衝撃で扉上部に付いている覗き窓の硝子に幾筋かの罅が走っている。


「お前らだって、満点取ってるわけじゃあねえだろうが。誰だって間違ったりすんだろう。」

 張った頬骨の上部に青筋を脈打たせ、骨川は怒鳴る。拳はその感情に呼応するようにぶるぶると震え、今にも怒りの捌け口を求めて再び振り回されかねない様子だ。

 先程は扉だったが、今度は一番身近にいる人間――福家に向けられる可能性もある。私は席から立ち上り、彼の元へと向かう。

「何だよ、お前っ、」

 その動きを骨川は見逃さなかった。拳は高々と振り上げられ、ちょこまかとしている私に振り下ろそうと肩から腕にかけての筋肉を解放する。

 背の低い私と長身の骨川ではあまりに体格的な差は大きく、ましてや性別の差もある。殴られたならば、ただでは済まないだろう。でも、女子に手を上げれば、骨川だってただで済むはずがない。同性の福家への暴力のように、クラスメイトも見て見ぬ振りはしないはずだ。

 目を閉じ、私は覚悟を決めて歯を食いしばった。


「有、良いよ。止めて、」


 猿渡が制止の声を張り上げ、彼の拳は私に届くはるか上空で止まった。

「私が明日からの期末テストで良い点を取ればいいのよ。そしたら、全員のこと笑ってやんだから。」

 鈍色の炎を瞳の中で揺らめかしながら、猿渡は教室内を睨み回すと最後に怒りに燃えた眼を網辺へ向ける。


「アンタも、人にとやかく注意する暇があったら、しっかり勉強しておきなさいよ。」

「忠告してくれるのね。ありがとう。」

「ふんっ、」鼻を鳴らしてそっぽを向くと、猿渡は骨川と福家の脇を抜けて廊下へと出て行った。

「おい、愛。ちょっと待てよ、」

 それを追って、骨川も足早に教室を去っていく。残ったのは、静寂と不穏な空気だけだ。


「楽しいお昼の時間に空気を悪くして申し訳なかったわね。」網辺は所在なくただ沈黙している生徒たちを見回し、頭を下げる。「さあ、さっきまでのいつもの調子に戻って結構よ。」

 王様の指示に従う臣下のように、クラスメイト達はその一声で身体や声帯を縛り上げていた呪縛から解放され、まるで一幕の出来事をすっぽりと忘れ去ったかのようににぎにぎしく会話をあちこちで再開する。


「大丈夫、福家?」

 すぐに全てをなかったことにする薄情なクラスメイト達の喧騒を余所に、私は蹲ったままの福家の顔を覗き込む。細く、陽射しの加減によっては輝くように見える前髪に隠された目許はあどけなく、骨川のような野蛮さは微塵も持ち合わせていない面立ちに怪我の様子はない。

「先生に言ったほうが良いんじゃあない?」

 彼が慢性的に同級生から暴力を受けていることを知ってから、私は何度となく提案をしたが、そのたび福家は首を横に振るばかりだった。


 今日も、「大丈夫だよ、」と太めの眉を八の字に曲げ、困ったように首を振る。

 何が大丈夫なのだろうか。

 何でそこまで助けを求めることを拒むのか。

 男の子のプライドなのか。

 ならば、一方的に暴力を振るわれることに誇りは傷付かないのか。

 言いたいことは山ほどあった。でも、それを口にすれば、彼をもっと困らせるだけだということは分かっていたので、私は黙って俯く。


「網辺さんも、ありがとう。」

 顔を上げた福家は見上げるように網辺愛梨に感謝の言葉を送る。振り返ると、全ての騒動を鎮圧した生徒会長が私の背後に立っていた。


「自分が耐えれば済むと思っているのならば、大間違えよ。」彼女は被害者を労わることもなく、冷徹な眼差しを突き下ろす。「見せられる人間も心苦しいし、エスカレートした果てに、暴力を振るっている人間も罰せられるのよ。貴方が我慢すればするほど悲劇は大きくなることを忘れては駄目よ。」

「覚えておくよ、」

 苦笑を浮かべ、福家は肩を竦めた。

 網辺はそれ以上言葉を返すことはなく、教室の外へと去っていった。


「網辺さんは優しいね。」後姿を見送りながら、福家はぽつりと漏らした。

 何で?

 彼の感想に私は思わず声を上げて反論しそうになった。被害者の福家を責めるような物言いをする彼女のどこに優しさがあるというのだろうか。

「僕だけじゃあなく、クラスメイトのメンタルや骨川が罰則を受けることも慮っている。優しいよ。」

 口許に浮かぶ笑みは柔らかく、私が今まで何度となく訴えても福家は困った表情を作るだけで、感謝の言葉も一度として返してもらったことはない。


 だから、私――十津根とつねまりは網辺愛梨が嫌いだ。

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