第24話 調律師

 ブーブー文句を言っている真帆さんと、新幹線を乗り継いで山形に到着したのは午後六時前だった。演奏会には余裕で間に合うが、調律を見込むと本当にギリギリの時間だった。

 雪の積もる歩道を歩きながら、真帆さんがこちらを見た。

 もう会場は目と鼻の先だ。


「ところで高槻君。会場に着いたらどうやって中に入るつもりなの? 警備員いるでしょ?」


 雪の上でも真帆さんの歩速は衰えることなく、真っ白な世界を切り裂くように真っ赤なコートは進んで行く。真帆さんの半歩後ろを歩く俺は、側から見たらまんま、美貌の女王様と従者の構図だ。

 バッチリメイクで芸能人オーラ全開の真帆さんを、何事かと道ゆく人が振り返っていく。


「それは……」


 近藤さんのことで頭がぶっ飛んでいて、そこについては、行けばどうにかなるだろう。ぐらいにしか考えてなかった。

 近藤さんには何度か連絡を入れてみたのだが、仕事が佳境に入っているのか、電話に出てもらえなかった。

 だから最初から同行していれば良かったんだと、百回ぐらい反省したが、あとの祭りだ。


「真帆さんは陽夏の保護者だし、俺は作業着だし、堂々と入れば……」


「要するに、何も考えてないってこと?」


 その通りです。

 やっぱり、真帆さんの顔パスに紛れて強行突破しか……。

 これといった案もないまま、裏口から入るべく駐車場を横切っていたら、真帆さんが、やおらスマートフォンを取り出した。


「ハロー。あー、違うの。用事って言うか、中に入りたいんだけど。今、裏口に向かってて……うん、そう…………そのつもりだったけど、第三のババに拉致されてさ…………ええ。迎えに来てくれる?」


 どうやら、中にいる誰かに連絡を取ってくれたらしい。強行突破しなくても、正々堂々と中に入れそうだ。


「これで、貸し一つね」


 スマホをポケットに突っ込みながら、魅力的な笑顔をこちらに向ける。三十代半ばとは思えないほどキュートな笑顔だ。演奏している時とは全く違う。


「ありがとうございます」


「いいのよ。新幹線代でチャラにしてあげる……」


「えっ……!?」


 鬼か?

 タクシー代の比ではないですが?


「何か文句ある?」


「…………いいえ」


 二人分の新幹線代は全て俺のカードで支払った。俺は普段からそんな大金は持ち歩かないし、真帆さんの財布には一千円以外はユーロしか入ってないことも知っている。

 全ては自分の責任なので何も文句は言えないが、ピアノに背いて自分の信念を曲げるとこうなってしまうのだという事が、身に沁みて分かった。

 来月の支払いのことを思うと少し憂鬱だが、高い勉強代だと思って諦めるより他ない。


「真帆……!」


 もうすぐ建物に着く、というタイミングで裏口が開いた。中からショートボブの女性が現れ、こっちこっち、と中から手招きする。

 淡いブルーのタートルネックに紺色のジャケットを羽織った女性は、真帆さんのマネージャーにして、独立後の会社社長、大城香奈子その人だった。


「ゲネプロどうだった?」


 開口一番の真帆さんの質問に香奈子さんは天を仰いだ。


「最悪。本当に、洒落にならないレベル……ねぇ、やっぱりまだ早かったんじゃない? いきなり協奏曲なんて……」


「あの子が自分でやるって言ったんだからいいのよ。これで、こっちも見極めできるじゃない。プロになったら今日は気分が乗らないので弾きませんなんて理由通用しないんだし」


「そりゃそうだけど…………あー、隕石振ってきて演奏会中止にならないかしら」


 その言葉を聴いて、真帆さんは心配するどころか失笑した。


「いい加減、腹括れって話よ。本当、どうしようもない子。……楽団もテンション下がってるでしょう?」


「下がってるって言うか不信感ね。どうしてこんな子連れて来たんだ、みたいな。こんなこともあるかもしれないからって、事前にコンマスの秋月さんには、陽夏の事情を知らせたって福尾さん言ってたけど…………」


「分かった。ちょっと私、挨拶行ってくる」


「それはいいけど、肝心の陽夏が……」


 廊下の分岐点までやってきた二人が、ピタリと足を止めて俺の方を振り返った。

 振り返った真帆さんの顔は、プロの顔だった。この会場に足を踏み入れた瞬間にスイッチが切り替わっていたらしい。


「高槻君、何とかできるわよね?」


 目を細め、威圧的な表情で俺を見る。

 そんな無茶振りされたって……と言う言葉が出てこない。真帆さんの目が「意地でもやれ」と命令していた。

 どうにか出来るのだろうか?

 今までだって、どうにかできていた訳ではないと思うのだが……。


「あなたと喧嘩してあんな風になっちゃったんだから、あなたがどうにかしなさいよ。アメリカンドッグでも何でもいいから」


 コンビニで買ってくるか??

 さすがに今日は協奏曲なので譜捲りもできない。


「待ってください。まずはピアノです」


 ここは職場だ。そしてプロが集まる戦場だ。俺だって俺に与えられた仕事がある。俺は調理師でも家庭教師でも、第三のババでもない。キャリーバッグの持ち手をギュッと握る。


 俺は調律師だ。


「ピアノはあっち。近藤さんもそこにいるわ」


 香奈子さんは腕時計をちらりと確認して、


「三十分で終わらせて」


「分かりました」


 返事をして、香奈子さんに教えてもらった方向へと急ぐ。廊下を突き当りまで行くと、舞台袖へ続く階段があった。


「近藤さん……」


 暗幕の向こうの輝くステージに、近藤さんの姿があった。つや消しのグランドピアノに向かう背中が一回り小さく見えた気がして、ジワっと涙が出そうになった。


「ああ、高槻君……」


 声を掛けると、近藤さんがこちらを振り向いた。心底安心したように俺の名前を呼んで肩の力を抜く。近藤さんの額には大粒の汗が浮かんでいた。

 こんな表情、いままで一度だって見たことがない。真帆さんの言ったことは本当だったんだ、と思った。


「すみません。最初から一緒に付いてくれば良かったのに……。真帆さんから聞きました……耳のこと……」


 俺の問いかけに近藤さんは、悲し気な笑みを浮かべたまま頷いた。


「ううん。あの子との約束だったんだよ。デビューする時は私が調律をするって。耳の方も、波があってね……時々低音が聞こえなくなる時がある。薬を飲めば一時的には治るけど、再発を繰り返してて……」


 俺は近藤さんの話を聞きながらステージの真ん中に据えられたピアノの元まで行き、調律バッグを開く。


「来てくれてありがとう……助かったよ」


「治るん、ですよね……?」


「医者は、ストレスが原因だから、仕事を控えろって」


「えっ!?」


 それって。心当たりがありすぎるんですが…………?

 額に汗が滲む。


「いやいや、高槻君の所為だけってわけではないよ?」


「俺も原因の一つってことじゃないですか……!」


 申し訳なさ過ぎて、どうしたらいいのか分からない。

 とにかく、調律ハンマー……。

 ガサガサと工具袋を取り出す俺を見て、近藤さんがクスクス笑う。


「冗談だよ。まぁ、いろんなことがあったから、何が原因ってわけでもないし、私ももう齢だしね……」


「辞めたりは……しないですよね?」


「うん。社長にも話をしたけど、少し現場を離れて、後進の育成に力を入れていこうって……もうお互いいい年だしね……引継ぎは粗方できたし、来春もう一人調律師を採用する予定だよ。そのうち募集がかかると思う」


 近藤さんの話を聞きながら、工具袋を開いたら、ポロリと赤いフェルトが出てきた。家のピアノを調律した時に、一枚だけ捨てられなかったパンチングクロスだ。


「高槻君、ピアノは好きかい?」


「はい」


 近藤さんの目を見ながら、はっきりと答えた。

 それは、調律師を目指した子供の時から変わらない。

 『王様』と呼ばれるこの楽器に魅了されたのだ。幅広い音域と多彩な音色を持ちながら、時には気難しく、繊細で、厄介なこの楽器に。おそらくそれは、近藤さんやピアノに関わる全ての人に言えること……もちろん、陽夏にも。


 赤いフェルトを上着のポケットに入れて、調律ハンマーを握った。悴んだ手にはーっと息を吹きかける。

 近藤さんが見守る中、俺は神経を研ぎ澄ませてピアノの唸りを追い続けた。

 彼が現場を離れることは残念で仕方ない。それでも、この数ヶ月一緒に現場を周った経験は俺の中で宝物のように輝き続けるだろう。この出会いに感謝せずにはいられなかった。

 まだまだ教わらなければならないことはある。聞きたい話もたくさんある。調律の大先輩として、そして仕事をする中で見せてくれた、生き方、哲学、人との関わり合いについても。

 この人に出会えて、本当良かった。

 心の底からそう思った。

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