第25話 ピアニストと調律師

 香奈子さんが指定した三十分でピアノは整え、バックヤードに戻ってみると、先ほどの硬質でアウェイな空気が一転していた。

 オーケストラのメンバーは青柳真帆の登場に色めき立ち、開演間近だと言うのに、記念撮影を申し出たり、サインをもらったりとファン活動に余念がない。

 一方の香奈子さんは先ほどよりも一段と厳しい表情で成り行きを案じていた。


「どうしたんですか?」


「いや……これで、陽夏も真帆も完全に逃げ道失くしたなって。陽夏が実力発揮できなかったら、この仕事自体、親の七光りって言われ兼ねないし」


 香奈子さんの言う通りだった。

 香奈子さんの会社は、今のところ真帆さんしか所属していない。

 陽夏がどうにもならなかったとしても、真帆さんへの影響は何としてでも避けたいところなのだろう。


「あの……陽夏は……?」


 そうだ。陽夏と話をしないと。

 例え、真帆さんや香奈子さんの事情がどうであっても、俺は陽夏の担当としてあいつとしっかり向き合わなければならない。


「楽屋にいるわよ。真帆が来て、ギャーギャー文句言ってたけど、そろそろ落ち着いたかしら?」


「俺、ちょっと様子見てきます」


 相変わらずどうしていいのかは分からないが、最低限、陽夏の気持ちを無視して酷いことを言ったことについては、謝らなければならない。

 文句を言う相手は、陽夏ではなく西村先輩のはずなのに、図星を指されて逆切れするなんて、大人として最低な行為だった。

 部屋の扉をノックする。

 少し待ったが、返事はなかった。


「陽夏?」


 呼びかけて再びノックをしてみたが、やはり返事はなかった。


「入るぞ?」


 ハンガーラックには陽夏のコートがかかっていた。椅子の傍に揃えられたスニーカーも見慣れた物だった。間違いなく陽夏の控室だ。しかし、肝心の陽夏の姿はそこになかった。

 肩透かしを食らったような気分で、部屋に入る。机の上には手つかずの弁当と、飲みかけのペットボトル。

 開演まであと二十分。一階のホワイエには、もうお客さんが集ま初めている頃だ。


「陽夏ー、準備できた?」


 少し遅れて香奈子さんがやってきた。ドアから顔だけ出して陽夏に準備を促そうとするが、


「あれ。陽夏は? トイレ?」


「いいえ。俺が来たときにはもういませんでしたけど……」


「おっかしいわね。さっきまでいたのに。真帆と一緒にいるかのかしら……?」


 香奈子さんが首を傾げた時、その背後から大きな声が聞こえてきた。


「ねぇねぇ、はるかー、ちょっとこっちに来て……」


 真帆さんだ。

 香奈子さんがドアの隙間から顔を引っこ抜き、背後の真帆さんに声を掛ける。


「真帆。陽夏は……?」


「え? 楽屋にいるんじゃないの? こっちにはいなかったけど…………電話かけてみる?」


 真帆の声がして、五秒後、椅子の上に放置されたバッグの中からブーブーというバイブ音が聞こえてきた。


「……携帯……置いて行ってる……」


 香奈子さんの呟きがコロリと床の上に落ち、さぁーっと冷たい空気が吹き飛ばしていった。

 まさか…………


「ト、トイレ……俺、見て来ます!」


 否、そんなことは絶対にない、と思いながらも胸がザワザワする。

 楽屋を出て右手に出演者用のトイレがあったはずだ。平静を装いながら、ラウンジで談笑しているオーケストラのメンバーに会釈する。トイレに差し掛かった時、ちょうど中から出て来た近藤さんに出くわした。


「近藤さん……!」


「高槻もトイレかい?」


 ハンカチで手を拭いている近藤さんに駆け寄り、


「陽夏、いました?」


「いや。私以外にはいなかったけど……」


 祈るような気持ちで問いかけた俺に、無慈悲な回答が返ってきた。

 近藤さんもその一言で異変に気付いたようだった。


「居なくなったのかい?」


「楽屋にはいなくて…………トイレじゃないかって見にきたんですけど……」


「外に行った可能性は?」


「分かりません。ただ、コートはあったし、荷物も全部、携帯ごと楽屋に……」


 近藤さんはうんうん、と頷くと、俺の背中をポンポンと叩いた。


「とにかく、彼が行きそうな場所を確認しよう」


「はい」


 この土壇場でまさかの事態だ。一旦、近藤さんと共に真帆さんの元へ帰り、事務室でもらってきた館内のフロアガイドを確認する。


「陽夏が行きそうな場所って、もう、トイレ一択でしょ。さっき楽屋に行った時も顔色悪かったし」


 確かに今までの流れで行くとそうなのだが……。


「ピアノ室側のトイレ確認してもらったけど、やっぱりいないって……」


 こちらにやってきた香奈子さんが不安げな表情で報告してきた。

 これは、いよいよピンチだ。


「さすがに、ホワイエの方には行ってませんよね」


 既に開場しているこの状況下で、奏者である陽夏がお客さんと鉢合わせする場所に行くとは思えない。


「そっちのトイレも確認してもらったけど、らしき人いないし、個室も使われてないって。ラウンジも他の部屋も鍵かかってないところは見て回ったけど……」


「…………となると二階?」


 近藤さんが指を指す。


「結構確認する場所あるわね……」


 二階には六室の楽屋の他、リハーサル室もある。


「真帆、陽夏が逃げそうな場所心当たりないの?」


「外に出てないなら、トイレか一人になれる場所にいると思うけど……」


「私たちはトイレを確認するよ。高槻君」


「俺、三階から見て来ます!」


「真帆、楽屋回ってくれる? 私、念の為、ホワイエの方見てくるから」


 四人で手分けして姿を消した陽夏の捜索に当たる。

 三階は一、二階に比べて客席が格段に少ない。バックヤードから顔を出しても人の姿はなかった。三階席は解放されてないのだろうか。気配はおろか、人の声すら聞こえない。

 シンと静まり返った廊下に、一歩踏み出してみる。

 真っ先に向かったのは正面入口付近にある個室だった。クラシックの世界では、非日常感をとても大切にする慣わしがある。ケとハレと言って、通常であればお客様のためのスペースに演者が立ち入ることはない。

 個室に陽夏がいないことを確認した俺は、その道のりにある部屋も確認しつつ、廊下側のトイレに向かった。

 そこで、ようやく、それらしいものを発見した。

 三つある個室のうち、一番奥にある一室だけドアが閉まっていた。


「陽夏……」


 いる。……多分、この個室の中に……。

 そっと呼びかけるとほどなくして、陽夏が出て来た。

 黒シャツに黒のスラックス、革靴といういで立ちだが、恐ろしく顔色が悪い。

 陽夏はちらりと俺を一瞥すると、何も言わず洗面台へと向かった。

 俺は電話で近藤さんに陽夏を発見したことを伝えた。

 陽夏は洗面台で手を洗った後、両手で水を掬ってうがいを始めた。嘔吐していたのだ。

 かける言葉がなかった。


「……来ないのかと思った」


 陽夏は鏡越しに視線を寄越して、言った。

 血の気だけではなく、表情も欠落してしまったように、虚な目が俺を見ていた。


「真帆さんに会って、近藤さんのこと聞いたよ。お前、いつから知ってたの?」


「去年……年が明けてすぐぐらい。近藤さんにだけ聞こえない音があった」


 そうか……そんな前から……。


「……ピアノはもう大丈夫だよ」


 陽夏は口元についた水滴を手の甲で拭いながら、あ、そう、と力なく頷いた。

 手も口もびしょびしょだ。スーツのポケットからハンカチを取り出して陽夏に差し出したら、その拍子にヒラヒラと赤い物体が洗面台に落ちた。


「何?」


「…………パンチングクロスだ」


 調律をする前にポケットに押し込んだものが出て来たのだろう。

 丸い穴の開いた、小さな円形のフェルト。


「うちのピアノのメンテナンスした時に交換したんだよ」


 陽夏の努力の痕跡がここにも刻まれている。

 それは、途方もない時間の何千分の一でしかない。でも、陽夏のピアノは違う。あのシュタイングレーバーには全てが詰まっている。

 言葉で説明をされなくても、調律師にはそれが分かる。ピアノがすべてを教えてくれるから。

 語られることのない努力を、知っているから、皆に知ってもらいたいと願うのだ。報われてほしいと思ってしまうのだ。

 それが如何に利己的で、陽夏を苦める事だと分かっていたとしても。


「……ここから逃げたい?」


 訊ねると、陽夏はゆっくりと顔を上げた。


「お前がどれだけピアノを練習しているか、俺たちはちゃんと分かってるよ……ピアノを見れば、そういうの全部分かる。分かっているから、皆んなに認めてもらいたいって思ってしまう」


 陽夏の音楽で、笑顔になる観客の姿を想像してしまう。


「ステージに立つのは自分じゃないのに……」


 ――簡単に言うね――

 簡単だなんて思ってなかったよ。

 決してそんなつもりじゃなかった。

 その気持ちが、心が伝わらなかったことが悔しい。


「コンクールの後、先輩からも言われたよ。『簡単に言うねって』そんなつもりで言ったつもりじゃなかったけど……一緒に頑張ろうって、ただそれだけだったのに……。ピアニストの気持ちなんて考えずに、頑張れ頑張れって自分の理想だけ押し付けてたのかなって……ずっと後悔してた。お前が言う通り、何も言えないまま別れてしまったから」


 ポタ、と涙が溢れた。

 もう、その涙を拭う気力もなかった。


「俺、お前にも同じことしようとしてる。また同じこと……言おうとしてる」


 そんな自分が堪らなく嫌だ。


「創平……」


 自分の中で何かが決壊しそうになった時、陽夏に強く抱きしめられた。


「……ピアノが弾けないのは、ピアニストのせいだよ」


 調律師創平のせいじゃない。


 耳元で、陽夏の声がした。

 そうして、陽夏は俺の匂いを嗅ぐように肩口に鼻を埋めてもう一度ギュッと腕に力を入れた。


「あー……めちゃくちゃムカついてきた」


 そう言って身体を離し、正面から俺の顔をまっすぐに見る。

 血色が良くない。

 楽屋に残されたままの弁当を思いだした。


「ねぇ、キスしてよ」


 陽夏が突然、言った。


「俺が、ちゃんと演奏できたら、キスして」


 頬に触れた手は冷たく、震えている。

 陽夏は、逃げたいわけではないのだ。

 戦っているのだ。自分自身と。

 与えられた才能と、どうしようもない運命と、自分の中に湧き上がる、音楽に対する憧れと。


「うん……いいよ」


 そんなことで、陽夏の力になれるのであれば。

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