第26話 本番
三階から一階に降りるエレベーターを待つ間、ずっと手を繋いでいた。陽夏の手は冷たいままで、甘えたように絡めてくる指を解くことができなかったのだ。
「……この前は悪かったな」
「ん?」
「傷つけるようなこと言って……」
何のことかと、一瞬不思議そうな顔をした陽夏だったが、すぐに言葉の意味に思い当たったらしい。
俺たちの最大の問題。
「うん……でも、俺も創平に酷いことしたから……ごめんね」
あちらはあちらで悩んでいたのだろう。殊勝な態度でそう言って、陽夏はペコっと頭を下げた。小学生みたいな仲直りになんとなく気恥ずかしい気持ちになって、繋いだ手を解こうと思ったが、陽夏がそれを許さなかった。
本番直前。なんだかんだで陽夏も不安なのだろう。たった今まで吐いていたのだから無理もない。
エレベーターがやってきて、乗り込むと、チラとこちらを伺うように陽夏が視線を送ってきた。
「ねぇ……」
「ん?」
「どこが好きだったの?」
相変わらず、主語のない喋り方をする。
しかも、聞くかね? 本人に、そんなこと……。本当、人間の機微の分からないお子ちゃまだ。質問の内容の幼稚さに呆れてしまう。
どこと聞かれてもなんとなくだ。最初から馬が合った。そして一緒にいた。好きになるだけの時間を重ねて好きになった。
大垣先輩も言っていたように、好きになるのに理屈なんてない。
ただ、強いて言えば……。
「優しかったし……お前みたいにバカじゃなかったし……」
「はぁーーー? 何それ?」
心底嫌そうに、陽夏が眉を顰める。
想像通りの反応に、思わず笑ってしまった。
「あの楽譜は返したよ」
「会ったの……!?」
驚きに目を見開いた陽夏に首を振り、
「大垣先輩に頼んだ。ご祝儀も一緒に」
ネタばらしをしたら、あからさまにホッとした様子で肩の力を抜いた。
「……創平、お人好しすぎるよ」
「はは。本当お前の言う通りかも」
でも、もう全部終わったことだ。
今振り返ってみると、ご祝儀やらないとか、結婚式の招待状を捨てるだとか、妙な禍根を残さなくて良かったなと思った。浜田が望む結末通り後腐れなく終わった方が、この先何かあったときに思い出さなくて済む。勝ちとか負けとかではなく、これで満足しただろう? と彼女に伝えて、もう違う道を歩き出していることをこちらから伝えれば良いのだ。
あの日、陽夏の前で我慢していた気持ちを全部吐き出してしまったからだろうか。あれだけ悩んで、辛い思いをしたはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
創平は創平のままで良いと、たった一人そう言ってくれる人がいただけで、もうそれで充分だ、と思える自分がいた。
「陽夏」
名前を呼ぶと、淡い瞳がこちらを向く。血色は悪いし、目の下のクマも濃い。学園祭の比ではないほど体調は悪そうだ。
「ほら、これ」
俺は陽夏の手を取って、ポケットから取り出したパンチングクロスを手のひらに乗せた。
「さすがに今日はステージに付いていけないから……お守り代りに持っとけよ」
パンチングクロスごと祈りを込めるように、その手を両手で包み込む。少しでも、陽夏の緊張がほぐれるように。
不安の色が隠せない陽夏は、ぼんやりとその様子を見守っている。
「……怖い?」
俺の問いに陽夏は静かに首を振った。
そして、ほんのわずか目を細める。
「創平と近藤さんがピアノ見てくれたんでしょう?」
だったら、大丈夫と言って、空いている左手で俺を抱き寄せた。
「……俺、勝つ自信あるよ」
相変わらず主語はない。
陽夏本人が言うのであれば、その通りなのだろう。だから俺は、何に? とも、誰に? とも聞かなかった。
******
「陽夏っっ!」
一階に降りると、廊下の向こう側から血相を変えた香奈子さんが駆け寄ってきた。
香奈子さんは勢いのまま陽夏をハグして、すぐに身体をはがした。
「どこ行ってたのよ、もぉーーー!」
陽夏の顔を正面から覗き込み、そしてまた熱烈なハグをした。
なんだかんだ愛されてるよなぁ。と俺はその光景を見ていて思った。身内運のない陽夏だが、レナさんに、近藤さんに、香奈子さん……とにかくこの母子は周りの人間に恵まれている。それを人徳と言っていいのかはわからないが、ここまでやりたい放題してお目こぼしがあるというのは、彼らの持つ魅力の一つかもしれない。
迷惑をかけられる方はたまったものではないが、絶滅危惧種の保護活動の一環と思えば我慢もできる。
敢えて言うなら『立替えた新幹線代だけは何としてでも取り戻したい』ぐらいだろうか。
「陽夏。福尾さんには、あんたが失敗しても、私がノーギャラで共演するって話しといたから安心して」
今にも泣きそうな顔で苦情をぶつけてくる香奈子さんに続き、のっそりと真帆さんが姿を現した。保険をかけてくれるのは有り難いが、陽夏に伝える必要はないし、開演する前から失敗前提での話はやめてもらいたい。安心させたいのか、けなしたいのか、そもそもの不信を伝えたいのか、一体どれだ?
「…………誰だよ、この人連れて来たの」
陽夏が低い声で唸る。
「文句なら、第三のババに言いなさいよ。私だって本当は家でゆっくりするつもりだったんだから……ふわぁぁ」
ツンツンと俺を指さしながら真帆さんはあくびをする。時差ぼけだろうか。もう五分もしないうちに息子の晴れ舞台が始まると言うのに、気だるい様子で首をコキコキ鳴らしている。
陽夏が、不満げな顔をこちらに向け、俺はあらぬ方を見てその視線から逃れた。
「いや…………こんな感じだとは思わなくて……」
もっと、陽夏に寄り添った言葉だの、行動などを想定していたのだが、ある意味真帆さんはどこまでいっても真帆さんだった。
「まぁ、いいけど…………」
陽夏は嘆息して、一瞬だけ俺の手に触れる。
「約束忘れないでよ」
「分かってるって……」
陽夏はもう覚悟を決めたようだが、俺の記憶に蘇るのは学園祭のアンコールだ。あの程度の演奏では、きっと聴衆は満足しないだろう。それでも無事に終わることさえできればそれだけでいい。
舞台袖まで移動すると、ちょうど音合わせの最中だった。
オーボエの基音に合わせて、それぞれの楽器の音が合わさる。
「今日はよろしくね」
福尾さんが陽夏に握手をして、明るいステージへと足を踏み出した。
あいさつ代わりのような控えめな拍手が起こり、一曲目の演奏が始まる。
真帆さんの登場が功を奏したのか、楽団の雰囲気は思ったほど悪くはない。陽夏の事情を知った秋月さんが、オケの雰囲気を盛り上げてくれたのかもしれない。
一曲目はモーツァルトの魔笛序曲。その後、陽夏のコンチェルトがあり、休憩を挟んでシューマンの交響曲で終演となる。
昨日の午後から降り始めた雪の影響で、今日はいつもより客の入りが悪いという話だったが、それでも半分以上の席は埋まっていた。
魔笛序曲の演奏が終わり、いよいよ陽夏の出番がやってきた。
祈るような気持ちでその背中を見送る。
本番前のリハーサルはズタボロ。ソリストは絶不調。万が一の失敗に備えて青柳真帆がノーギャラ共演で担保するという、とんでも演奏会の始まりだ。
陽夏を迎える拍手が、自分の心臓の音で消えてしまうのではないかと思うほど、俺も緊張していた。
隣を見ると、近藤さんも真剣な表情で暗幕の隙間から見える陽夏の姿を見守っていた。香奈子さんは、胸の前で両手を合わせてぎゅっと目を瞑って祈りを捧げ、ついさっきまで散々な暴言を吐いていた真帆さんは相変わらず、同業者として陽夏を見定めるように淡々とその様子をうかがっていた。
逃げ出したくなるような緊張感だった。
あんな約束ぐらいで、この空気を乗り越えられるものだろうか。キスだけではなく、なんでも好きなもの作ってあげる権利とか、生活空間丸ごとお掃除とか、一週間みっちり家庭教師とか、そんなサービスまで付けておけばよかったかもしれない。
ピリピリと凍てつくような空気の中、福尾さんが指揮棒を振り下ろした。
静かなホールに弦楽器の重たい音が響く。不安を掻き立てるようなシンコペーションから始まるのこの曲は、映画「アマデウス」で使用されたことでも有名だ。モーツアルトの曲にしては珍しい短調の曲で、ピアノ協奏曲の中でも高い人気を誇っている。
冒頭二分はオーケストラの演奏が続く。座って自分の出番を待っている陽夏の緊張がこちらにまで伝わってきそうだった。
そして、陽夏が鍵盤に手をかけた。
寂しげなピアノの音が会場に響く。
出だしは問題ない。音もテンポも安定している。
ほんの少しだけ安心する。
そして、次の瞬間、化学変化が起こった。
低く揺れる弦楽器の音に再びピアノの音が重なった途端、ステージの空気が一変した。
陽夏のピアノが様々な楽器の音の間を駆け抜けていく。抗えない運命から逃げ惑うような切羽詰まった演奏だった。天才と呼ばれたモーツァルトの、人間らしい弱みや葛藤をさらけ出すような演奏に、俺たちは一言も言葉を発することが出来ないまま、ステージから流れてくる音に聞き入っていた。
調律師の職業病で、演奏会の時は曲よりも
それは間違いなく、陽夏の音楽だった。
陽夏は、極限の集中力の中にいた。一音一音に対する意識が研ぎ澄まされ、これまでの演奏とは明らかに一線を画する演奏だった。
自分の頭に描いた風景を、ピアノという楽器を通して全身で表現する。
そして会場に嵐が吹き荒れた。
今まで聴いてきた陽夏の演奏とは全く違う質量に圧倒される。
オーケストラを指揮する福尾さんがにやりと笑った気がした。そこに続くオーケストラのメンバーも『来るなら来い』と陽夏の演奏を受け止めてさらなる高みへと導くようだ。音楽の力比べを見ているような気分だった。福尾さんのタクトの先から生まれる何十もの楽器の渦を、陽夏のピアノが凌駕する。
第一楽章の不穏な空気とは違い、第二楽章ではつかの間の平穏が訪れる。穏やかな旋律に全身を横たえ、夜の帳に包まれたような空気が流れる。凪いだ空気の中、陽夏のピアノは遠くに光る星の輝きのようであり、真夏の夜に田園を吹き抜ける風のようでもあった。
そして、第三楽章、皆が安堵したのも束の間、再び嵐が訪れた。
ギリギリのラインを疾走するピアノは更に冴えわたり、汗だくの福尾さんの顔にも見間違いようのない笑みが浮かぶ。時に絡み合い、溶け合い、衝突しながら音楽の熱量は最高潮に達した。会場は一つになり、みんなで作り上げた音楽の中で、陽夏は自分の役目を立派に果たしていた。
近藤さんの目に光るものが浮かんだ。
今まで消化不良で終わっていたもの全てを放出するように、自分の世界を観衆に見せつけた陽夏の演奏をオーボエが受ける。
そして、曲はフィナーレを迎えた。
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