第27話 アンコール

「ブラヴォー!」


 間髪入れず、客席の誰かが叫んだ。

 そして、パラパラと始まった拍手は、やがて大きな音のうねりになって会場全体を包み込んだ。客の入りがいつもより悪いという話など忘れてしまいそうなほど大きな歓声が沸きがる。

 陽夏が礼をすると、その拍手はさらに大きくなった。

 しばらくして、陽夏と福尾さんが舞台袖に戻ってきた。

 拍手が止む気配は全くない。


「カーテンコール、行っておいで」


 福尾さんに背中を押されて、陽夏は再びステージに戻った。

 客席に礼をし、コンマスの秋月さんと握手を交わし、再び舞台袖に戻ってきたが、拍手の勢いは全く衰えることがない。

 それどころか、拍手に紛れてドドドドと低い地響きのような音が聞こえてきた。

 陽夏の顔がクシャと涙に歪んだ。

 楽団のメンバーが陽夏の演奏を称えて足を踏み鳴らしていたのだ。素晴らしい演奏をした者にだけ送られる特別な賛辞であると同時に、楽団メンバーに認めてもらえた証でもあった。


「ははは……皆まだ君の演奏聴きたいってさ」


 ペットボトルの水を一口飲んで、福尾さんが泣いている陽夏の肩を抱く。


「良かったらアンコール、弾いてく? 後半十分ぐらい時間確保できるよ」


 まさかのアンコールのオファーだ。

 定期公演でのアンコールが演奏されることは滅多にない。


「あ……あの、福尾さん……」


 予期しなかった展開に、香奈子さんが間に入ろうとするが、陽夏がそれを制止した。陽夏は先ほどの演奏で消耗しきっている。首筋にいくつもの汗が流れ、髪の毛もしっとり湿っている。


「いいよ。俺、弾く」


 その宣言を受けて、真帆さんがチラリと陽夏を一瞥する。


「大丈夫なの?」


「大丈夫だよ」


 陽夏はグシグシと涙を拭って水を一口だけ飲むと、ちらと俺のほうへ視線を移した。


「ちゃんと聴いてて……創平のために弾くから」


 真剣な……というよりは、何かに憑りつかれたような眼差しで、ペットボトルを渡す瞬間ちょっとハグをしてステージへと戻っていった。


「……何かあの子変じゃない? 本当に大丈夫?」


 香奈子さんが不安げに真帆さんに問いかける。


「大丈夫って言ってるんだから、大丈夫よ…………多分」


 皆が冷や冷やしながらその動向を見守る中、陽夏は落ち着いた様子で、椅子に座る。ハンカチで手を拭き、何かに祈りをささげるように胸元を触るような仕草を見せた後、ピアノを弾き始めた。

 静かな空間に響く音色に皆が息を飲んだ。

 それは、この上なく素晴らしい音だった。

 あまりの素晴らしさに、コンマスの秋月さんはステージの上で感動の涙を流したほどの名演だった。

 しかし……。

 舞台袖には、微妙過ぎる空気が流れていた。

 陽夏がアンコールに選んだ曲は、ロベルト・シューマン作、献呈。

 作曲者であるシューマンが、結婚前夜妻のクララに捧げた歌曲『ミルテの花』の第一曲。更には、陽夏が弾いたのはコンサートでよく演奏されるリスト編曲版ではなく、その曲を受け取ったクララ本人がアレンジしたピアノ独奏版であった。リスト編とは違い、難易度や派手さはぐっと下がるものの、この曲にまつわるエピソードを知る者であれば、陽夏がこの曲に並々ならぬ思いを込めたことなど、手に取るようにわかるわけで……。

『創平のために弾く』曲としては、微妙なことこの上ないわけで……。


「ねぇ、これってさ……」


 香奈子さんがヒソヒソと真帆さんに耳打ちする声が聞こえる。そして、背後の真帆さんが冷たい目で俺を見ている気配を感じた。福尾さんは苦笑いで俺に笑いかけ、もはやそんなことは関係ないとばかりに、近藤さんだけが陽夏の晴れ舞台を涙ながらに見守っていた。

 愛らしい曲にたっぷりの情感を込めて、最後の一音が消えた。

 先ほどの協奏曲の焦げるような熱さが鎮まり、その感動がいつまでも消えないぬくもりへと変化した。

 オーケストラ、そして会場に集まったお客さんに感謝の気持ちを伝える、アンコールにふさわしい曲だった。

 きっと皆、この演奏に心を奪われ、惚けていたのだろう。

 数秒間の静寂の後、会場が揺れんばかりの拍手が巻き起こった。

 演奏会は大成功だ。

 椅子の上で脱力していた陽夏も、盛大な拍手に促されるようにゆらりと立ち上がって客席に礼をした。

 称賛の言葉が降り注ぐ舞台袖で、陽夏はまっすぐに俺の方へと歩いてきた。

 いや、すごかったよ。感動したよ。こんな瞬間に立ち会えて本当に幸せだと思ったよ。

 でも、いくらなんでも最後のアンコールはやりすぎだ。


「お前なぁ……!」


 陽夏に一言文句を言ってやろうと口を開いた瞬間、


「…………あ………ヤバ」


 陽夏はガシッと俺に抱き着いてきた。

 否、抱きついてきただけではなく……


「えっ? …………ちょっと……重っ……おいっ!」


 全体重をかけてしなだれかかってきた。

 最初は怪訝な顔で陽夏の行動を見ていた香奈子さんもその異変に気付く。

 俺は、重さに耐えきれず、陽夏の体を支えたままその場にゆるゆると腰を下ろした。


「陽夏?」


 呼びかけてみるが、返事はない。


「はるかー」


 真帆さんがペチペチと陽夏の蒼白の頬を叩くが、目を覚ます気配もない。

 会場では、陽夏のカーテンコールを待ち望む観客からの拍手が続いていたが、対応できる状況ではない。


「僕、代わりに行って終わらせてくるから、戻ってきたタイミングで照明上げて。前半はこれで終わりにするよ」


 福尾さんがテキパキと指示を出し、香奈子さんは真っ青な顔で救急に電話を掛け始めた。

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