第28話 男同士の××
寝不足と栄養不足による貧血。
香奈子さんが一旦は救急に連絡はしたものの、倒れた際に頭を強打しなかったことと、電話を掛けている最中に陽夏の意識が戻り、貧血を起こすに至った寝不足やら食欲不振などの事実がボロボロ出てきたことなどから、その要請は取り下げられた。電話の応対をしてくれた担当者から、栄養を充分に摂り安静にするよう指示を受け、騒ぎは最小限に収まったのである。
「あなた、ちゃんと陽夏の食事見てるの? 最近順調に背が伸びてるなって安心してたのに、どういうことよ?」
「文句なら、ストライキ起こしてた栄養士に言ってちょうだいよ」
香奈子さんと真帆さんは、楽屋まで付き添いはしたものの、陽夏の無事を確認した途端、早くも部屋を出て行こうとしている。
ストライキを起こしてた栄養士って……俺のことか? 栄養管理も俺の仕事だったのか。初耳だ。
「あの……二人ともどこに行くんですか?」
「え? 演奏会まだ終わってないし、せっかくここまで来たんだから聴いて行かなきゃ元が取れないじゃない」
出た!! 元が取れない発言!
しかも、元を取る取らない以前に、真帆さんは今日ビタ一文払ってはいない。一体、どの口がそんなことを言っているのか!?
しかし、真帆さんは舞台の方を指さして、さも当然のように言い放つ。
「あと、任せてもいいわよね?」
「真帆、先行ってて私、トイレ行ってくる」
そして、香奈子さんもどうやら真帆さんに付いて行くらしい。
あの……ここでぶっ倒れているのは、お宅の大事な息子と、大切な
二人の切り替えの早さについて行けず、唖然としている俺の目の前で扉はバタンと閉まった。
「あー……やっと静かになった」
ソファーの上に仰向けになっていた陽夏が背伸びをしながら言った。
シャツのボタンとベルトを緩められた状態で、身体の上にはブランケット、そして、足の下には自分のリュックが敷かれていた。救急の指示通り香奈子さんが対処した結果だった。
「寒くない?」
「大丈夫」
とは言うものの、陽夏の顔は相変わらず白さが目立つ。
「…………驚かせるなよ」
「いやー、あんなことになるなんて思ってなくて。目の前がザザーって」
いつもの口調で話しているが、机の上には残された弁当がそのまま置いてある。先ほど救急と話をしていた時も、ここ数日まともに寝てないだとか食欲がなかっただとか、日ごろの陽夏からは想像もできない状況が、本人の口から語られていた。
こいつも一人でずっと悩んでたんだろうな、と思うとあまり強く言うわけにもいかない。
「演奏、どうだった?」
感想を訊かれて顔を上げると、期待に満ちたドヤ顔が、褒め待ちの犬みたいにこちらを見ている。
本当、お前も頑張ったんだよな……。
文句のつけようもなく、今日の演奏は百点満点だ。物議をかもしたアンコールも、演奏だけに注目すれば、感謝の気持ちに溢れた最高の贈り物だった。
「感動したよ……すごく」
オケもピアニストも会場も一つになって、あの瞬間を作り出したのだ。焦げそうなほど熱くなった会場に、雨のように降り注いだ拍手と歓声……学生時代からたまにクラシックのコンサートに行くことはあったし、この仕事に就いてからは、現場に立ち会うようにもなったが、あんなに素晴らしい時間を共有できたことなんてあっただろうか?
「近藤さんも香奈子さんも涙腺崩壊してたし……。最高の恩返しになったんじゃないかな」
「そう……なら、良かった」
陽夏は、ホッとしたように笑顔で頷いた。
静かになった室内に、拍手の音が聞こえてくる。
後半の演目が始まったのだ。
アンコールのおかげで前半はやや押し気味だが、このまま行けば何とか時間内には終わるだろう。
明日も仕事があるので、このままとんぼ帰りすることにはなるが、どうやって帰るべきか……。
「ねぇ、約束」
ぼんやりと壁にかかった時計を見ながら、この後の予定をたてていた俺の耳に、陽夏の呟きが聞こえた。
声の方を見ると、ソファーに寝転がった陽夏が顔だけこちらに向けている。演奏会の前に交わした約束が破られないか、半信半疑のまま俺の反応を探っているようだ。
もちろん今更反故にする気もないが……。
ローテーブルをよけてソファーの前に腰を下ろす。その行動の一部始終も陽夏がずっと見ているので何となくやりづらい。
「…………目、閉じろ」
今日一番の功労者に言って、俺はそっとキスをした。
唇の先がちょっと触れるだけの、スタッカートのような軽いキス。
「ふふ……」
それでも、陽夏はにんまりと笑顔を浮かべた。
「何?」
「いや、ほっぺにチューとかで済まされるのかと思ってたから……」
「その手があったか……」
考えもしなかった。確かに、どこにしてとも指定されてなかったわけだし、究極チークキスでも約束は果たせたんじゃないだろうか。ドイツならそういうの日常茶飯だろうし。
「……お前、ドイツに帰るの?」
腰を下ろしたまま、陽夏に尋ねる。
この演奏会は、実質、陽夏のデビュー公演ってことになるのだろうか。地方楽団の定期演奏会ではあるが、これを機に香奈子さんは陽夏の営業を一層強化するだろう。栗原さんだけでなく、陽夏のことを待っている音楽家だっているはずだ。
次に陽夏が立つ舞台は、日本? それともドイツ? どちらなのだろう。
「……年末向こうに行ってたんだろ?」
大垣先輩から受け取ったクッキーは開封しないまま、ピアノの上に置いてある。
オレンジのリボンがついた、ド派手なクッキーだった。見た目はとても可愛いけれど味は期待できないのだろう、という大方の予想とは別に、陽夏がドイツに帰ってしまうかもしれないと先輩に聞いてしまったから、何となく開封できなかった。
もう大丈夫という保証はないけれど、あれだけの演奏ができることを証明した陽夏に、日本で学ぶことが残っているのだろうか?
「俺が帰るって言ったら創平も一緒に来てくれるの?」
なら、戻るけど、と陽夏は俺を見る。
「えっ……俺? 何故?」
「また調律してくれるんじゃないの?」
「いや、もちろん、それはそうだけど……」
当然のことながら、日本にいる間は……否、それどころか、地元に留まるならという前提だ。これから東京の音高に行きますなんて言われても、対応はできない。出張費を出してくれるなら話は別だが。
「創平も行きたいんでしょ? ドイツ。一緒に行こうよ」
「そりゃいつかは行きたいけど……」
仕事もあるし、今すぐどうこうなんてできるわけがない。近藤さんが春から現場を離れることが確定しているこの状況であれば尚更。
「じゃ、創平がドイツに行ける日まで俺もこっちにいる」
「や、そういうことじゃなくて…………」
俺の都合ではなく、お前の将来の話をしているのだ。
「そういうことだよ」
反論をピシャっと一蹴して陽夏は、怒ったような顔で俺を見た。
「創平は俺のこと好き?」
ストレートすぎる質問に、顔がクラっとした。
当然と言えば当然、陽夏の最大の関心はそこだ。何しろ『西村さんに勝つ』ために今日このステージに立ち、『創平に聴いてほしくて』あの献呈を弾いたのだから。最悪のゲネプロから一転、真剣に音楽に向かい合う陽夏の音を耳にしたオーケストラの感動はどれほどだっただろう。
そのすべてが陽夏の個人的な事情だったなんて、口が裂けても言えない。
「………………」
「じゃ、嫌い?」
「…………嫌いではないけど……」
困り果ててどうにかこうにか答えると、陽夏は一層怪訝な顔をした。
「けど? けどって何? 結局どっちなの? …………YES、NOをはっきり言わないのは日本人の悪いとこだよ」
「いろいろ問題ありすぎて、今すぐ回答できない」
男同士で、八つも年下で、未成年で……万が一、天地がひっくり返って陽夏とそんな関係になったとしたら、俺は完全に犯罪者だ。
出来るわけがない。未成年男子学生と恋愛なんて……。
答えると、陽夏が急にソファーの上で身体を起こした。
「おい、何やってるんだよ……!?」
「いってぇ…………」
「バカ……! まだ寝てろ…………っ、おいっっ!」
言わんこっちゃない。
しかし、頭を抱える陽夏の身体を支え、再びソファーの上に寝せようとした瞬間、ぐっと体を引っ張られた。そのまま縺れるように、ソファーの上に倒れ込んでしまう。
陽夏にがっちりとホールドされて、上半身だけソファーと陽夏にもたれるような恰好だ。
「え? …………仮病?」
「頭痛いのは本当……」
陽夏は俺の肩口に顔を埋めた。くぐもった声が身体に直接響く。
いつぞやの未遂事件が脳裏を掠めた。
「こんなとこで変なことするなよ」
注意すると、陽夏はクスっと笑って、
「ここじゃなかったらいい、みたいな言い方……」
なんてことを言い出すんだ!
そんなつもりは毛頭もない。
首に回った陽夏の指が、故意か無意識かうなじに触れる。
「陽夏っ! もういいだろ。離せ!」
「俺のこと、ちゃんと考えてくれる?」
「わかったから、離せ」
陽夏のことを考えるなら、ドイツへの帰国を促す。その一択だが。
「創平は人のことだけじゃなくて自分のこともちゃんと考えてよ」
「……そうだな」
陽夏にもう会えなくなると思ったら、自分自身はどうなのだろう?
何年後かにCDで陽夏の演奏を聴いて、元気でやってるんだなぁ……なんて思うのだろうか。
その時の光景を想像してみた。
ピアノを弾いて皆から称賛される陽夏と、それをネット越しに見ている独りぼっちの俺。いやいや、違う。俺だって仕事をしている。お金をためてドイツに行って、その時は今度こそ正式に仕事のパートナーとして陽夏にも会いに行く。きっとその頃には陽夏も酒が飲める年齢になっているだろうから、陽夏の行きつけの店に連れて行ってもらおう。
そんな未来が待っているなら、日本にいても、もっと仕事を頑張れそうだ。
「俺、それまで待つよ」
静かな、でも不退転の決意を秘めた声がした。
陽夏の腕から力を抜け、俺はゆっくりと体を起こした。
「創平と一緒にいたい」
真顔で言われて、思わず目を反らした。
自分の頬が熱くなるのを感じた。
少しだけ――ほんの少しだけ――同じ気持ちかもしれない。
なんてことを思っている自分がいた。
「…………帰ったら何食いたい?」
本当に、そんな未来があったらいいのに。
毎日こんな風にバカやって、ピアノやって、二人で食事して……それで?
陽夏の頭を撫でる。汗に濡れて、いつもよりクセが強くなっている。指先に緩くカールした髪が絡む。猫のお腹を撫でているように、柔らかくて気持ちがいい。
「唐揚げとカレーとハンバーグとオムライスと……」
「子供が好きなものばっか…………」
笑ってしまう。でも、今後の食事リストには入れておこう。
「あと、勉強教えてほしい……特に国語と古典」
「はいはい」
「それと…………」
陽夏が言いよどむ。
「何? 他にも何かある? 数学? あ、日本史とか?」
「えっと…………」
頬をうっすら赤くして、何か言いたそうな顔で俺から視線を外す。
もじもじして、先ほどまで好き勝手言っていた人間と同一人物とは思えない。
「あー……やっぱりいいや。あー、でも……うーん…………」
「はっきり言えよ。日本人がどうとか言ってたのお前だろ」
煮え切らない態度にしびれを切らして言ったら、陽夏は意を決したように俺の方を振り返った。
「男同士の…………セッ……クス……って……どうやるの?」
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