第23話 支払いはユーロで


 その日は、酷く寒いのに宇宙まで突き抜けそうなほどの晴天だった。

 近藤さんは今日の朝、会場のある山形県へと出発した。

 仕事を投げ出し、敵前逃亡したも同然の俺に最後まで声をかけてくれて、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。演奏会が終わったら陽夏と話をすることを約束し、その背中を見送ったものの、複雑な心境に変わりはなかった。

 陽夏に対する後ろめたさもさることながら、近藤さんに迷惑をかけている現状は、社会人失格だ。


「そんなため息ばっか吐くぐらいなら、行って来たら? 午後のアポイント、俺が代わりに引き受けてやるからさ」


 午前中、工房で整音作業をやっていたら芝さんに言われた。


「いいえ。それはさすがに……」


「だったら、その構ってちゃんな態度やめろよ。気になるだろ、こっちも」


 かまってちゃん!? なんて失礼な!!

 とは思ったものの、芝さんの言う通りだった。


「すみません。先、昼飯行ってきます……」


「はいはい。ちゃんと気分切り替えて来いよ」


 ロッカーから取り出したコートを作業着の上から羽織り、ポケットに財布だけ突っ込んで事務所の階段を降りる。

 手っ取り早く、通りの向かいにある定食屋に行こうと、歩道の縁石の前に立って車道の様子を伺っていたら、車列の最後尾にいたタクシーがウインカーを点灯した。

 マズイ。客だと思われてしまったのだろうか。少し焦って後退り、タクシー待ちではないことをアピールしてみたが、よく見ると屋根に取り付けられたランプは消えていた。

 なんだ。降車か……。

 ホッとしたのも束の間、俺の五メートル前で停車したタクシーの後部座席から現れたのは、ヴァイオリンケースを携えた真帆さんだった。


「……どうしたんですか?」


 長いストレートの髪を下ろし、真っ赤なコートを着た真帆さんは俺の存在に気付くと、ブーツをカツカツ鳴らして、一直線にこちらへ向かってくる。

 陽夏の調律を断り続けていることに、文句を言いに来たのだろうか。

 どんな罵声も覚悟の上ではあるが、やはり、本人を前にすると恐怖と緊張でじっとりと汗が浮かぶ。

 真帆さんは俺の前で、ぴたりと足を止め、ほい、と左手を差し出した。


「ごめん。高槻君、お金貸して」


「………………はい?」


「お金貸して、って言ってるの。三千円……いや、二千円でいいから」


 ほら、と催促するように左手をさらに突き出す。


「あのタクシー、カードじゃ決済できないんだって!」


 それがこの世の悪だとでも言うように、ビシッと指をさして訴える。


「え……っと…………」


「手持ちが千円しかないから、残りユーロで払うって言ったのに、それもダメだって!!  ユーロだってお金なのに!」


 当たり前だ。乗る前に財布の中身確かめろよ……否、それよりも帰国した時点で換金するか、銀行に行けば済んだ話では……?

 タクシーの方を見ると、運転手が時計を気にしながら、睨むような表情で俺たちを監視していた。どうやら個人タクシーらしい。


「まぁ……お金はいいですけど…………」


 後でちゃんと返してくれれば何の問題もない。

 財布から三千円を出して渡したら、真帆さんは一瞬で笑顔になり、もう用事は済んだとばかりに踵を返した。


「あの……真帆さん。演奏会は……」


「三週間後にニューヨーク」


 誰が貴方のスケジュールを聞いているんですか。


「じゃなくて、陽夏の……」


「ああ、今日だっけ?」


「そうですよ!」


 まさか忘れていたのか?


「行かないんですか?」


 驚いて尋ねると、真帆さんは行かない行かないと顔の前で手を振った。


「二時間前に飛行機降りたばかりなのに、また移動なんてまっぴらよ」


「ちょっと待ってください……!」


 好き勝手なことを言って、タクシーへ向かおうとする真帆さんのコートを思わず掴んでいた。


「心配じゃないんですか? あいつのこと」


 母親なのに……。

 あまりにドライな対応に驚いて問いただすと、


「だって、結局はあの子の問題でしょ。私が心配してどうこうなるものでもないし」


 更に突き放すようなことを言って、俺の手を振り払った。取り付く島もないその態度に、絶望を覚える。

 確かに、真帆さんが駆け付けたところで陽夏がきちんと演奏できるという保証はない。でも、母親として何もできないと言うのであれば、せめて音楽の先輩として陽夏にかけてあげられる言葉があるのではないだろうか。


「陽夏のトラウマって、真帆さんとお祖母さんの喧嘩が原因なんですよ」


「…………どういうこと?」


 真帆さんがようやくこちらを振り向いた。


「演奏会の日、二人が喧嘩していることを見たって言ってました。自分が疎まれてることを知って、ステージに上がるのが怖くなったって……」


 真帆さんは口を噤み、やがて納得したように、深々と頷いた。


「…………確かに、あの時母と喧嘩したわ。そっか……あの時、あの子もいたの……」


「今ならまだ間に合います、陽夏の所に……」


「わかった。陽夏が帰ってきたら話してみるわ」


 言って、またしても、タクシーへ向かおうとする。


「だから、真帆さんっ!」


 腕を掴んでまたまた引き留めると、真帆さんはいい加減にしろ、と言いたげにクルリとこちらを向いた。


「それより、あなたどうなのよ?」


「えっ……俺は…………はい。すみません。俺もちゃんと陽夏と話を……」


「そうじゃなくて、近藤さん!」


「は?」


 思わぬ人の名前が出て、頭の中がポカンとなった。


「ひょっとして何も聞いてないの?」


 俺の反応に、真帆さんは心底驚いた様子で目を瞠る。

 ヴァイオリンを構えた瞬間に見せる獣のような鋭い光は消え、黒曜の瞳には陽夏と同じ温かさと思いやりの色が浮かんでいた。


「あの人、耳を患ってるでしょう?」


「…………え……」


 突然何を言い出すんだ?

 そんな筈は…………


「覚えてない? 貴方が初めてウチに来た日、近藤さんの調子が悪かったのよ」

 

 真帆さんに言われて、当時のことを思い出した。

 調律の途中で、俺は陽夏に腕を噛まれて……否、そうだ。その後、作業の続きをやったのは近藤さんだ。一筋の光のように、その記憶が頭の隅に蘇った。

 しかし――


『他にもちょこちょこね……』


 それと同時に、アメリカンドックを作った時、台所で真帆さんが言った言葉を思い出す。


 背筋がゾワリとした。


 あの時、俺は自分の調律に問題があったのだと思っていた。

 でも……もしも、としたら?

 近藤さんがピアノに触れる姿を見たのはいつだろう?

 栗原さんの演奏会の時……否。あの時も近藤さんは……。

 背中に冷たい汗が流れた。

 その時、真帆さんが何かに気付いて、ちょっと頭を下げた。真帆さんの視線を追うようにそちらを見ると、芝さんが昼食に出かけるところだった。


「芝さん……!」


 真帆さんに黙礼をして歩道に向かう芝さんを呼び止めた。


「すみません! 午後の調律……」


 それだけ言うと、芝さんは全てを分かってくれたらしく、


「いいよー! お客さんに説明だけしといてくれよー」


 両手を口元に当ててメガホンを作りながら了承してくれた。


「ありがとうございます!」


 礼を言って頭を下げた後、隣で俺たちのやり取りを眺めていた真帆さんから三千円を奪い返した。


「やだ。ちょっと何するのよ! 泥棒!」


「泥棒って何ですか! 貸したお金取り返しただけでしょ。今から山形に行きますよ」


「高槻君だけ行けば十分でしょ。どうして私まで……」


「今まで散々ネグレクトしてきたんだから、それぐらいしたってバチ当たらないでしょ! ここで待っててください!」


 工房にある調律バッグを取りに走る。

「人でなし! 私、何時間かけて日本に戻って来たと思ってんのよ!?」


 背中に、的外れな罵声が飛んできたが知ったこっちゃない。

 俺は後ろを振り返って、真帆さんに叫んだ。


「嫌ならタクシー代、ユーロで払ってください!」


 運転手が納得すれば、の話ではあるが。

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