第22話 Ich liebe dich
「大変ですね。あちこち飛び回って」
居酒屋のカウンターに並んで食事を摂りながら、俺たちは簡単に近況報告を済ませた。
大垣先輩は卒業後、実家のある東京に戻って大手出版社に入社し、今はMアーツというクラシックの専門誌を作っているという話だった。
「てか、学園祭でお前が出て来たときは、マジでびっくりした」
「あれは不可抗力ですよ」
よりにもよって、近藤さんからも裏切られるなんて。確かに、自分に出来ることがあれば何でもするとは言ったけど。
「何であんなことになったの? やっぱ陽夏が原因?」
「……先輩、俺に用事があるって、仕事の延長ですか?」
「あ、ゴメン。そういうつもりじゃなかったんだけど、理由を知りたいって言うか……これ、職業病なのかな」
そう言って、先輩はビールの入ったグラスを空けた。
「何飲む?」
「同じものを」
先輩が手を挙げて店員を呼び、焼酎を二つ注文する。
「そう言えば、昔お前がどこまで飲めるか確かめようとしたことがあって」
「なんですかそれ?」
完全にアルハラだ。
良い子はマネしてはいけません。というテロップ付けてもらってもいいでしょうか?
「全員返り討ちにあったけど」
大垣先輩は、はははと笑ってお通しの枝豆を摘んだ。
「本当に酒強いよな。……酔いたいとか思ったことないの?」
冗談めかして言いながら、何となく違うことを訊かれている気がした。案の定、先輩は何かを探るような瞳で、でも、無理強いすることもなく俺の言葉を待っている。
先輩は、きっと、ずっと前から知っていたんだなと思った。
「ありますよ……何回も」
ってゆーか。
「大垣先輩、陽夏に余計なこと喋ったでしょう?」
「余計なことって?」
「サークルの」
俺が睨むと、大垣先輩は「あ、それ」と頷いて、
「いや、あいつが電話かけてきてさ……取材受けるから、お前のこと教えろって……」
「何吹き込んだんですか?」
「見たままを喋っただけだよ。浜田がお前のこと毛嫌いして、あの手この手で嫌がらせしてたって…………そんな顔するなよ」
「したくもなりますよ」
おかげでこっちはとんでもない修羅場に見舞われたのだ。
思い出したらまた憂鬱になってきた。
「まだ仲直りしてないの?」
「え?」
「いや、喧嘩してるんだろ? 陽夏と。真帆さんから聞いたよ」
「真帆さん? 真帆さんも知ってるんですか?」
一体何を? どこまで? まさか、あいつ洗いざらい全部喋ったりしてないよな?
もう、どんだけダダ洩れてんだか。
「このまま日本にいたら潰れるからって、年末ドイツに帰ってたんだよ。あの二人。俺も、同行して取材してた」
先輩の話に驚愕した。
十分にあり得る可能性なのに、これぽっちも考えなかった。当たり前のようにあの母子があのアトリエで生活している姿を思い浮かべていたが……そうだ。陽夏にとってドイツは遠い国ではない。
「知らなかった?」
「頻繁に連絡取りあってるわけではないので……」
「調律師に嫌われて落ち込んでるんだって真帆さん呆れてたけど……」
先輩がグラスに口をつけた後、ため息を吐いた。
「いやー、お前よくやってるよな。あの二人、一緒にいると朝から晩まで親子喧嘩してんの。止めても止めなくても険悪になるしさ……真帆さんはその分、演奏会でストレス発散してたみたいだけど、陽夏はね……全然ピアノ聴かせてくれないし」
「大垣先輩、聴かなかったんですか? あいつの演奏」
四六時中ピアノを触っているような人間だ。取材をやっていたなら、その音を耳にする機会はあったはずだ。
「あいつ俺の前ではまともに演奏しなかったもん。真帆さんの練習に付き合ってたぐらいで、がっつり弾くってこともなかったし、その練習ですら適当に流してるから、それがまた火種になるし……ただ、あいつの演奏聴いたって人間は、皆口を揃えて絶賛するんだよ。お前は、聴いたことあるんだろう? 演奏聴いてどう思った?」
「プロと遜色ないですよ。古典でも現代でも何でも弾くし、どうしてこんな所にいるんだろうって不思議なぐらい…………青柳真帆の息子ってネームバリューがなくても世に出て行けるぐらいの技術はあると思います」
幼少期のトラウマさえなければ、陽夏はとっくにデビューしていたはずだ。
そして、俺たちもプロ奏者と調律師として出会っていたら、こんな風にはならなかったかもしれない。
「そっか……」
納得しているのかいないのか先輩は、頷いて、
「で、お前も一緒になって面倒見てるってこと?」
「……まぁ、そうですね。ピアノのことがメインですけど、他にも勉強とか……」
「栗原さんの演奏会でお前が譜捲りしたのも、サポートの一環?」
それは……
「……いろいろあるんですよ。そこらへんは本人に聴いてください」
……ってゆーか、てゆーか!
「先輩、やっぱり取材してるでしょう?」
「あははは。ごめんごめん。飯は全部俺が奢るから」
何か追加で注文すれば? とメニューを差し出されたので、焼酎をもう一杯追加した。
「……あいつ、ピアノは弾いてたんですね」
「多分、裏ではね。俺には警戒心があるんだろ。こっちはゴシップネタが欲しくて取材しているわけじゃないんだけど……」
困ったように笑ってグラスを空けた後、先輩は店員を呼んでお酒とつまみを適当に追加した。
「ああ、そう言えば、陽夏から言付かってたんだ」
先輩は足元の荷物カゴから手提げ袋を取り出して、カウンターの上に置いた。
「何ですか、これ?」
袋の中身を確認しようとしたら、大垣先輩が腕を掴んで止めた。
「ここで開けるな。クッキーが入ってる」
クッキーぐらい、今見たっていいじゃないか。とは思ったものの、先輩が止めるので受け取ったまま、カウンターの脇に置く。
代わりに、と言っては何だが……
「あの……これ、西村先輩に渡してくれませんか?」
トートバッグの中から取り出した封筒を先輩の前に置いた。
「会う時があったら、そのついでで構わないので」
俺の口からその名前が出てくるとは思ってなかったのだろう。大垣先輩は驚いたように身体を引いて、その封筒を受け取った。
「何か伝えておくことある?」
「うーん…………別に」
何を言えばいいのかは、まだ分からないけど、これをずっと自分が持っているのは違う気がした。
大垣先輩は、中身を訪ねることもなく封筒を自分のカバンにしまった。
「答えたくなかったら、答えなくていいんだけど…………」
注文した商品がきて、しばらく無言のまま飲み食いした後、先輩が遠慮がちに口を開いた。
「はい」
「お前ら、どうだったの? 実際のところ」
核心を突く質問だった。
以前なら、すぐに否定しただろう。大垣先輩であろうとなかろうと、率先してカミングアウトしたいわけではないし、知らせなくていいことをわざわざ自分から暴露することもない。
でも、なぜだろう。今なら、大垣先輩には打ち明けられそうな気がした。
「…………先輩は気付いてたんじゃないんですか?」
西村先輩と一番仲が良かった。サークルでも、それ以外でも。
大垣先輩は腕を組んで、心底困ったように「うーん」と唸った後、観念したように顔を上げた。
「あいつ嘘つくの下手過ぎて……」
やっぱり。
「よく分かります」
ちょっとカマかけられたぐらいでめちゃくちゃ動揺している姿が頭に浮かぶ。
「てか、まぁ、本人から直接聞いたわけじゃないけどさ。コンクールの準備してる時からお前らイチャついてたし……」
「してませんよ、そんなの……!」
「いやいやいやいや、ゴメンゴメン。茶化してるわけじゃなくて、見てて楽しそうだったって意味な」
こうして、西村先輩の話題に触れること自体、自分の中でタブーにしていたように思う。まして、当事者であるサークルメンバーが、あの状況を見て何を思ったかなんて、怖くて確かめる勇気もなかった。
「……浜田がワーワー騒ぎ始めて、明らかに空気変わったじゃん。だから、そういう事もあるかもなぁ、とは思ってたよ」
大垣先輩の話を聞きながら、焼酎を一口飲んだ。甘くて苦いアルコールが喉を通っていく。
「そっか。……そりゃ、辛かったよな」
「結婚式の招待状とかマジで地獄に堕ちろ、って思いました」
偽らざる本心を打ち明けたら、大垣先輩は盛大に吹き出した。
「あれな。俺もびっくりしたけど……引っ越しの時だろ? 西村に渡したメモ、浜田が保管してたってこと?」
「分かりませんけど、住所教えたのその時しかなかったですからね」
浜田はどうしても俺に知らせたかったのだ。西村先輩と結婚したことを。
「あの時、浜田を連れてく予定なかったんだよ。……最後ぐらい二人でゆっくり話した方がいいんじゃないかって思ってたから。なのに、あいつ無理やり車に乗り込んできて……西村も浜田に押し切られると強く出れないんだよな……本当に、もう、なんつーか……」
「……想像つきますよ。だったら無理して来なくて良かったのに」
あれだけ揉めていたことを知っているはずなのに、浜田を同伴させればどんなことになるか、想像しなかったのだろうか。
どうせ、浜田にグズグズ言われて断れなかったんだろう。飲み会の度に浜田に言い寄られて、フラフラしていた。
穏やかで、誰にでも優しい人だったとは思う。きっと、ご両親の育て方も良かったのだろう。喋り方や、表情がとても柔和で、誰に対しても分け隔てなく接する人だった。
傍にいると陽だまりにいるように温かくて……でも、そんな世界が維持できたのはほんのひと時で、一たび風が吹けばあっという間に壊れてしまった。
先輩は、戦うことをしなかった。
相手が強く出ると拒むことができず、その度に迷って立ち止まる。泣かれたり、我儘を言われれば尚のこと。
「…………クズ」
「え?」
「陽夏が西村先輩のこと、クズ男って……」
そんな風に言われること自体、過去の自分を否定されているようで、いい気分はしなかった。客観的な事実だけを見ればその通りなのに、自分の選択が間違っていたと認めることができなくて、どこかで先輩を庇っていたのだと思う。
大垣先輩が苦笑した。
「言うねぇ」
「口悪いですからね」
あの苛烈さは、真帆さん譲りかもしれない。
「まぁ、概ね正解かな、このことに関しては。浜田もお前も被害者だよ。西村がしっかりしなきゃいけなかったのに、楽な方に逃げるとこあるからな、あいつ……」
グラスに入った氷がカランと音を立てた。
「……陽夏との喧嘩って、やっぱり西村が原因?」
「それだけ、ってわけではないですけど……」
大きな原因の一つではある。
陽夏は自分の気持ちを蔑ろにされたことを怒っていたのだ。俺が陽夏にきちんと向き合おうとしなかったから。
陽夏のことは嫌いじゃない。でも、西村先輩の時とはわけが違う。
あいつはまだ十六なのだ。ノンケで、しかも未成年なんて恋愛対象になるわけがない。
「だいぶ本気っぽかったけど……?」
「何考えてるんでしょうね……女と恋愛できるのに」
わざわざ男を好きになる理由があるだろうか。
「んー……まぁ、でもそういうのって理屈じゃないからなぁ……」
世間体など関係ないと陽夏は言うが、誰に何を言われても本当にそう言い切れるだろうか。自分自身、まだ家族にだって話せていない。実家に帰省するたびに両親は俺が彼女を連れてくることを期待している。二十代半ばで彼女ができて、三十前後で結婚というのは、絵にかいたような理想形だが、残念ながら俺にその瞬間が訪れることはない。
そんなことを、あいつは考えたことがあるのだろうか?
大垣先輩とはそれから、三十分ほど話をして店を出た。
自宅に戻ると、広げたままの調律道具が残されていた。大垣先輩からの呼び出しを受けてそのまま出掛けたので、上前蓋も外したままだ。
今日は、これ以上の作業ができないので、アクションを元に戻して片づけに取り掛かった。交換したパンチングクロスをまとめてゴミ箱へ捨てる。パラパラと落ちていく赤いフェルトが一枚、ゴミ箱の縁に当たって外に出てしまった。
床に落ちた赤いフェルトを指先で摘まみ上げる。
ここに来なくても、陽夏はピアノを弾き続けている。
ドイツだろうが、日本だろうが、俺がいようといまいと、それが陽夏の本質なのだ。そのことに、少しだけ安心した。
何となく捨てられなかったパンチングクロスは、工具袋の上に放ってそのまま袋を閉じる。
大楽先輩から受け取った袋の中には、クッキーが入っていた。家で開けろ、と注意された理由はすぐにわかった。中に入っていたのは、手の平ほどのハートのクッキーだった。
カラフルなアイシングで装飾されたクッキーには、クリスマスツリーの絵と共に『Ich liebe dich』の文字がある。
ドイツ語を知らない俺でも、この言葉の意味ぐらいは理解することができた。
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