第21話 鳴らないピアノ
陽夏と顔を合わせないまま、十二月に入った。
俺と陽夏の関係が上手くいってない事は明白で、近藤さんは随分心配していたが、全てを打ち明けるわけにもいかず、ただ陽夏の担当を外してほしいとお願いした。
「……何があったのかは知らないけど、もう少し考えてくれないかな。困ったことがあれば、相談には乗るから」
そう言われたが、あれほどの醜態を晒し、陽夏の気持ちを知った今、素知らぬ顔をして今まで通りの対応を続けることは出来そうになかった。
あの日以来陽夏からの連絡は途絶え、結局一月最後の金曜日も仕事の予定を入れてしまった。
陽夏がいなくなった部屋はとても静かだった。些細なことでギャーギャー騒ぐ声も聞こえないし、教科書や日本語にブツブツ文句を言う人間もいない。
調理師や、家庭教師や、第三の祖母ちゃんとしての付帯業務からも解放され、自分の時間を自分の使いたいように使える。
こんなに楽で喜ばしいことはない。これこそが俺が求めていた、いつも通りの生活だっだ――はずなのに。
家に帰ると気分がふさいでしまい、何故か力が湧いてこない。
それどころか、一週間、二週間と時間が経つにつれ、部屋の広さや暗さがやたらと気になり始めた。
照明を変えたわけでもないのに、あのふわふわの茶色頭が視界に入ってこないだけで、部屋全体の明度が落ちている気がする。周りの部屋からは、相変わらず楽器を練習する音が聞こえてくるから尚更だ。
この部屋のピアノは沈黙したまま。天衣無縫なあの素晴らしい演奏はどこへ行ったのかと
休みの日の夕方になると、ドアのチャイムが鳴ってひょっこりあいつが現れるんじゃないかと気になってしまうし、食事の分量もいまいちわからなくて、いつも作りすぎてしまう。
街に出たら出たで、いつもの景色がクリスマスのイルミネーションに彩られているから余計に自分の部屋の暗さを実感してしまう。
それでも時間は容赦なく過ぎ、年末のイベントに忙殺されているうちにあっけなく一年が終わってしまった。
このままじっと耐えていれば、そのうち平穏が訪れる。四年前の経験から俺はそのことをよく分かっていた。いずれ、陽夏の担当には俺ではない誰かが付くようになるだろう。何度も店に顔を出して、芝さんとも随分打ち解けていたので、芝さんが担当するのかもしれない。
調理師や家庭教師や、その他様々な付帯業務込みで気に入られた俺とは違って、芝さんなら今度こそあの親子の期待に応えるだろう。
危惧していた一月末の演奏会にはやはり近藤さんが同行することになったらしい。
その日だけでも一緒に来てくれないか? と近藤さんに懇願されたが、結局、俺ははっきりとした回答はできなかった。
皆があちこちで陽夏のために身を削っているのに、自分だけが逃げ出していいのだろうか、と葛藤する気持ちは常にどこかにあってて、モヤモヤした気持ちを抱えたまま火曜日の店休日を迎えた。
外は洗濯日和の快晴なのに、相変わらずのやる気のなさで十時過ぎまでベッドの中でダラダラ過ごした。洗濯の後、買い物に出かけて戻ってきたら、いよいよやることもなくなって、ゴロンと絨毯の上に転がる。たまには手の込んだ食事を作ろうと思ってスーパーで食材を買ってきたはずなのに、一向にその気力が湧いてこなかった。
何もしないでぼうっとしていると、あの日の陽夏の言葉を思い出してしまう。
俺に対して『気持ち悪い』と言い放った浜田。
釣り糸に絡まった海鳥のように、あの言葉の呪縛から解放されることなどなかったのに、そんな俺を陽夏は認めてくれたのだと思ったら、意味もなく泣きたい気持ちになってきた。
肝心なことを何一つ伝えてくれなかった先輩と、ストレートに自分の気持ちをぶつけてくる陽夏。対照的な二人の行動を、否が応でも比べてしまう。
どちらが俺のことを考えてくれいるかなんて一目瞭然なのに。
だからこそ、心のどこかでもう一人の俺がこう囁くのだ。
――やめとけよ。ノミヤハルカもあっち側の人間だ――
ラックに並べられた楽譜が目に入る。
西村先輩も楽しそうにピアノを弾いていた。運指を確認したり、同じフレーズを何度も弾いたり……コンクールの予備審査に提出する動画だって何度も何度も撮り直しをした。
キスもした。セックスもした。他の恋人と同じようにデートもドライブもした。
不思議なことに、西村先輩のことを思い出しても以前ほど心が痛まなかった。
目を閉じて、あのコンクールの演奏を思い出してみる。
でも何故か頭に浮かんだのは、バスケットボールの匂いが入り混じったむせ返るような夏の空気と、蝉の声が反響する体育館で聴いたあのピアノの音だった。
……ダメだ。
記憶を振り切るように、俺は反動をつけて起き上がった。
心がモヤモヤする。そして、モヤモヤしている自分にイライラする。
暇な時間があるから余計なことを考えてしまうのだ。
仕事場から持ち帰っていた調律バッグを開けて、ピアノに向かった。
上前板と鍵盤蓋を外してアクションを引っ張り出し、状態を確認してみる。
四年前、自分の力と知識だけで悪戦苦闘しながら修理したピアノだが、やっぱり粗は目立つ。それに加えて、ここ数ヶ月陽夏がピアノを弾いていたせいか鍵盤の高さに僅かなばらつきがあった。このピアノを引き取ってから、フェルト類の交換は全く行っていなかった。いっそのこと全て交換してしまおうと鍵盤を外すと、手前に緑、そして奥側に赤のフェルトが姿を現した。
芝さんがシュタイングレーバーの調律に行った時、陽夏がぶちまけたと言っていたパンチングクロスがこれだ。
鍵盤の沈みが気になった部分を確認すると、フェルト自体がだいぶヘタっていた。パンチングクロスを交換し、無心になって鍵盤の高さを確認していたら、ベッドの方から電子音がした。
一体誰だろう?
気が付けばもう陽が傾き始めている。時計の針は午後五時を指していた。
少し待ってみたが、電話は一向に切れる気配がない。
電子音に急き立てられるように、トクトクと音を立てて鼓動も早まる。
足早にベッドに駆け寄り、布団に埋もれていたスマートフォンを拾い上げた。
画面を確認するとそこには見知らぬ番号が表示されていた。
「もしもし」
『お、番号変わってなかった』
画面をタップして電話に出ると、相手の方も驚いたように声を上げた。
『オレ、オレ。あ、誰だか解る?』
「オレオレって、それ、普通に詐欺ですよ、大垣先輩」
『すまん。取り込み中だった?』
誰かに八つ当たりしたい気分がそのまま声に現れてしまったのだろう。大垣先輩の訝し気な声が聞こえてきた。
「いいえ。……どうしたんですか? 珍しいですね」
『いや、お前に用事があって店まできたけど休みだったから……今何してるの?』
「別に何も……家にいますけど……ってゆーか、先輩、こっちに来てるんですか?」
『出張の帰り』
また雑誌の取材でもしていたのだろうか。
『今から出て来れる? 久しぶりに呑まない?』
四年前と何も変わらない、フランクな喋り方だった。
大垣先輩の誘いを受けるか一瞬迷ったが、この部屋に一人で居たくない気持ちの方が勝った。先日の学園祭では、ゆっくり話もできないままだったので、少しは気晴らしになるかもしれないと俺はその誘いを承諾した。
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