第20話 *瓦解
「お前、大丈夫なの?」
演奏会が終わって一週間。
陽夏は例のごとく俺の家で夕飯を食べていた。
演奏会は、百点満点ではなかったものの、陽夏がステージでピアノを弾いたというので皆手ごたえを感じたようだった。狸ジジイ呼ばわりされた栗原さんは、謝罪を受けたようだが、早速次の約束を取り付けようとして陽夏をドン引きさせていた。
大きな一歩には違いない。でも、ステージで一回弾けたからと言って、何年も抱えていたトラウマが解消するとは思えなかった。
「何が?」
「福尾さんの依頼受けたって聞いた」
「…………多分」
多分って……。
今度は伴奏ではなく、ソリストとしての出演要請だ。
福尾さんは山形県の交響楽団に在籍している指揮者だ。栗原さんと同じく真帆さんと親交のある人で、クラシックの面白さを世間に広めようと、童話を題材にした子供向けのオペラを作るなど、色々な取り組みをしている人だった。
「母さん絶好調だし。それ見てたらちょっと安心した」
「そっか……」
だったら良いのだが。
復帰公演が大盛況だった真帆さんは精力的に活動の範囲を広げていた。もはや、スエットおばさんの片鱗はどこにも見当たらず、綺麗なドレスに身を包み、ストラディヴァリウスを構える姿は女王の風格も満点だ。
不倫騒動直後は凄まじいバッシングとファン離れの憂き目に遭いながらもステージに立っていたという話だが、レナさんへの献身的な看病とその後の謹慎生活が周囲の関係者から漏れ伝わるにつれ、この数年間で彼女に対する世間の評価も変化していたらしい。
真帆さんの活動拠点はヨーロッパなので、日本ではワイドショーのネタにもならないが、苦難を乗り越え深みを増した彼女の演奏は瞬く間に知れ渡り、海外の名門オーケーストらから共演依頼が殺到しているという話だった。
「創平も来るんだよね?」
「んー……どうかな。仕事ならもちろん行くけど、ホール付きの調律師がいるだろうし」
仕事の依頼が来なかったとしても陽夏の演奏は聞いてみたい。
自ら進んで手を挙げた陽夏の変化に真帆さんのマネージャー兼、事務所社長の香奈子さんは手を叩いて喜んだ。
香奈子さんは五十台前半の、所謂バリキャリで、陽夏が説明していたように不倫騒動の真帆さんを庇ったために青柳の会社を破門された。個人で芸能事務所を立ち上げ、現在の所属タレントは真帆さんのみだが、当然陽夏もそこに引き入れたいと考えている。
山形の公演予定は一月最後の金曜日だ。
夜の公演となると一泊することになるだろう。費用はどうにか工面するにしても、店休日と重なっているわけでもないので、スケジュールの調整が必要だ。
「休み取ろうかな……」
当日休みを取ってその日の最終で戻るか、午後休プラス翌日午前休にするか……。
「本当?」
「うん。今ならシフト調整できるし」
「やったー!」
陽夏が満面の笑みで万歳をした。大げさなリアクションに笑ってしまう。
「それよりお前、期末テストもうすぐだろう?」
「来週の水曜から。古典で三十点取れる裏ワザとかないの?」
相変わらず、英語以外の教科は問題だらけらしい。日々の授業に加えて、ピアノの練習もやっているのだから仕方がない。
「テスト範囲は分かってるのか?」
「教科書にマルつけてある」
勉強に対しては驚くほど集中力を発揮しない陽夏は、机にぺったりと頬を付けたままペンを持った手で教科書を指さした。全く動く気配を見せないので、俺はローテーブルの端っこに放置された教科書に手を伸ばした。栗色の頭が邪魔すぎて、半ば覆いかぶさるようして教科書を引き寄せていると、
「……そう言えば創平さ。あの時のこと忘れてないよね?」
胸元で陽夏の声がした。
「あの時?」
やっと教科書の端っこに指先が引っ掛かかる。あともう少しだ。
「栗原さんの演奏会で……」
「ああ」
何か色々あったけど。俺、陽夏にキレたよな。あのまま外に出て気分が落ち着いてから楽屋に戻ると、陽夏が謝ってきたのでこちらも謝って、それで終わったはずだ。ただ、大垣先輩に対しての謝罪はどうなったのか知らないので、その点については気になっていた。
「……ってゆーか、お前、公私はちゃんと分けた方がいいぞ。大垣先輩は多分気にしないだろうけど、どんな世界に行っても、敬語とか礼儀とかそういうのに煩い人間いっぱいいるから……」
やっとのことで教科書を引き寄せる。教科書をパラパラ捲りながら、テーブルの上を見ると、茶色の瞳が不機嫌そうにこちらを見ていた。
あれ? と思った。
何か……こいつ――怒ってる?
陽夏が上体を起こし、大げさにため息を吐く。
投げやりな態度に、部屋の空気が不穏に揺れた。
「そうじゃなくて……」
「え……――うわっ!!」
低い声がした、と思ったら陽夏の手が伸びてきてそのまま後ろに押し倒された。
不意打ちに為す術もなく、受け身を取ることもできなかった。鈍い音がして後頭部に衝撃が加わり、直後、バサバサと教科書が手から滑り落ちた。
「いってぇ…………いきなり何するんだよ……!」
「それ、わざとやってんの?」
抗議の声などもろともせず、陽夏は馬乗りになって上から俺を見下ろしてきた。何かがおかしい。そう思った時には、両肩をぐっと上から押さえつけられ、動きを封じられていた。
「な……何?」
まさか、殴ったりはしないよな?
上から怒気を孕んが表情で睨まれて、若干の恐怖を感じた。
訳が分からない。礼儀について注意されたことがそんなに気に喰わなかったのだろうか。
「……もういい。何も聞かない」
「え……ちょ――――っ」
不機嫌な様子で吐き捨てた陽夏が上体を屈め、唇を重ねてきた。
顔を背けてキスから逃れようとしても、角度を変えて追いかけてきた陽夏に再び唇を奪われる。身体の重みに苦しくなって喘ぐと、その瞬間、無理やり歯列を割って舌が入ってきた。
温かくて柔らかい陽夏の舌が、上顎をなぞるように動く。大学でのキスとは全く違う、性的な意味のあるキスだった。
のしかかってくる陽夏の体温が服を通してジワリと伝わってくる。その感覚と間近で感じる吐息に頭がクラっとした。
「陽夏、やめ……」
「やめない」
剣呑な表情のまま陽夏はきっぱり断言して、抵抗する俺の手を掴み、そのまま床に縫い付けてしまった。
陽夏が何をしようとしているのか、もう疑う余地はなかった。
こいつは気付いている……俺のこと。
いつ? どこで? 無意識のうちにそんな態度を取ってしまったのだろうか?
そんな疑問で頭がいっぱいになり、混乱に拍車がかかった。
猛禽類が獲物を堪能するように俺の口腔を侵した後、陽夏は首筋に顔を埋めてきた。
「っ…………」
うなじの辺りを舐められ、思わず声が漏れた。
抵抗らしい抵抗も出来ないまま、強制的に煽られてしまう本能を悟られないように、ほんの少しだけ腰を引いた。しかし、密着した身体でそれを察知した陽夏は、何か確信を得たように俺のズボンの中に手を差し込んできた。
「陽夏っ…………!」
非難の声は冷たい瞳で一蹴され、息をひそめている欲望に下着の上から手を添えられた。陽夏の長い指が下から上にゆっくりと形を辿るように動いていく。
もう何年も他人にそんなことをされたことのなかった身体は、俺の意思とは無関係に呆気ないほど簡単に反応した。本能のまま、せがむように、その先の快感を求めて陽夏の行為を受け入れようとする。
「やめろっ……」
これ以上されたら、洒落にもできない。
あさましく陽夏を求めてしまう身体と、それを受け入れられない理性との狭間で身動きがとれなくなっていた。
陽夏にこんなことをされた怒りや羞恥心とともに、異質な自分をより強く感じて情けなさがこみ上げてくる。
「西村さんなら許すの?」
陽夏が口にしたその名前に、心が竦んだ。
こいつは、何を、どこまで知ってしまったのだろう?
俺たちは、ただの先輩、後輩の関係ではなかった。
混乱の中思い出したのは、先輩の笑顔、声、そして…………
――創平――
耳もとで囁かれた俺を呼ぶ声と、熱い吐息。
先輩は、初めて素のままの俺を受け入れてくれた、大切な人だった。
そしてもう、二度と戻ることのない……。
心の中でガラガラと音を立てて、楽しかった思い出が瓦解した。
「大垣さんから聞いたよ。大学のサークルで何があったのか。……俺、ずっと勘違いしてた。創平は浜田さんと付きってたんだと思ってた……でも、違った」
「…………」
「創平は西村さんと付き合ってた。……違う?」
「はるか……っ……」
陽夏は訊ねながら、今度は下着の中に手を差し入れてきた。
躊躇いもなく侵入してきた指の冷たさに、ビクビクと反応しながら、欲望は留まることなく膨らんでいく。先端から滲んだ愛液がクチュ……と卑猥な音を立て、陽夏の指を濡らした。
「やだ…………」
どうしようもない状況に涙が滲む。
陽夏はズルリとズボンの中からそれを引き出し、敏感な先端を撫でるように上下に動かした。そのまま再び首筋に顔を埋め、耳朶を噛まれた。
「……あっ…………」
腰のあたりに苦しいほどの快感が突き抜け、漏れてしまった自分の声に羞恥心を煽られた。
先輩の触れ方とは全く違う。
呼吸の深さも手の感触も、頬に触れる柔らかい髪もなにもかも。それなのにあの時と同じように身体は熱を帯びる。
心は置いてけぼりのまま、そしてまた、先輩の体温を、声を思い出す。
陽夏の手技に追い詰められているうちに、頭に靄がかかったようになり、もう、吐き出すことだけしか考えられなくなってくる。
いやらしい水音が一層大きくなり、陽夏の長い指は俺の体液で濡れぼそっていた。
もう、いいや。そう思った。
陽夏とセックスをしても、きっと何も変わらない。
だったら、せめて痛くない方ががいい……
「おまえ、さ……」
熱に浮かされたように身体をまさぐっていた陽夏の服を掴んだ。陽夏の下半身も服の上から分かる程度には昂まっている。
ぶつかった視線は憂いを帯びて、大人の色気を孕んでいた。
大丈夫。多分、こいつとならできる。
「お前……男同士のセックスに興味があるの?」
それほどまでに陽夏が求めるのであれば……構わない。
こちらも、仕事が忙しくて性欲処理がおざなりになっていたので好都合だ。
ただ欲望を処理するだけだと割り切れば、セックスなんてどうってことない。過去のことなど忘れて、陽夏が求めるまま、ただ快感に溺れてしまえばいい。
「だったら、ベッドに行こう……相手してやるから」
身体はこんなに熱いのに、酷く冷たい声だと自分でも思った。
解っている。これは、誘う言葉ではなく陽夏を突き放す言葉だ。
でも、それを知られたからと言って、どうなるのだろう。
全部……何もかも壊れてしまえばいいのだ。
陽夏も、先輩も、いつまで経っても心に残って消えない思い出もなにもかも。
俺の言葉に、陽夏は唇を噛み締めた。
「……創平は西村さんに、言いたいことちゃんと言えたの?」
「…………」
「浜田さん酷かったんだってね。周りの人間巻き込んで、創平を孤立させて……」
「…………」
「どうしてそんな女と付き合うんだって、西村さんに文句言ったの?」
「はっ…………」
真剣な眼差しを向けてくる陽夏を見て、思わず笑いが零れた。
笑って——涙も一緒に零れた。
「文句って、何? そんな女より俺を選べって?」
生物の本能がそうであるように、西村先輩は当たり前の選択をした、ただそれだけだ。
「…………お前、バカなの?」
そんなこと言えるわけがない。
「男に、男の俺を選べって言えると思ってんの……?」
どうしたら、そんなことができる?
「『普通』に戻ろうとしてたんだよ、先輩は……! そんな人に俺と一緒にいてくださいなんて言えるわけないだろ……!」
道徳や配慮なんてどれほどの意味があるのだろう。
どれだけ性的マイノリティに対する理解が深まったところで、大抵の人間には他人事で、当事者になれば戸惑うのは当然だ。
普通に戻れる道があれば、普通に戻りたいと願うのも――他ならぬ、自分自身がそうだったから。
「俺がどんなに好きだと思っても、世間体や常識の前には何の意味もないんだよ! 皆、普通でいたいし、普通でいれば周りの人間も安心する。そういうことなんだよ!」
女性を好きになれたら、どんなに良かっただろう。或いは、自分が女性だったら……。
浜田とだって真っ向勝負をしていた。西村先輩に対しても、自分の気持ちをそのまま伝えることができた。泣いても縋ることだって出来たかもしれない。
でも俺はこんな風に生まれて、どうしようもない本能を抱えて、そして西村先輩を好きになってしまったのだ。
相手が迷惑するかもしれないと怯えながらそれでも惹かれてしまう心を止められなかった。
こんなに苦しむのなら、冗談でも「キス」なんてしなければ良かったと何度も思った。
何も、始めなければ良かったのだ。
本当の自分を隠して、誰にも見せなければ良かったのだ。
見上げた陽夏の顔がぐにゃりと歪んだ。
「好きでも……どうしようもないことはある」
とめどなく涙が溢れてきて、こめかみを伝って落ちていく。
「……俺のことバカバカ言ってるけど、創平の方がよっぽどバカじゃん」
身体がふっと軽くなった。
涙で滲んだ視界の中、陽夏がずずっと鼻をすする音がした。
「フラれても何でも、好きなら好きって言えばよかったんだよ! そんな女選ぶなって言ってやれば良かったんだよ! 何でもかんでも我慢して、言いたいこと言わなかったから、そんな風になってんだろ!?」
容赦のない陽夏の言葉が胸に突き刺さる。
「俺は西村さんのことが許せない。ハブられてる創平を見捨てて、クソみたいな女を選んで……何で創平がそんな奴のために傷付かなきゃならないんだよ? 最低のクズ男だろ! 創平の方から振ってやれば良かったんだよ!」
陽夏も泣いていた。
どうしてお前が泣いてるんだよ。
そう言ってやりたいのに、涙が出るばかりで言葉は出てこなかった。
「俺は創平のことが好きだよ」
言葉と共に何の駆け引きもない、ただ真っ直ぐな気持ちが降って来る。
こいつは、バカだ……。
「ばあちゃんみたいに口うるさくて……でも、ピアノが好きで、いつも一所懸命な創平が好きだよ!! そのままの創平が好きなんだよ!! 創平が西村さんのこと忘れられなくても、世間体とか常識とかそんなのも関係ない。勝手に子供扱いして俺の気持ちなかったことにすんな!!」
本当に、バカだ……。
陽夏はガサガサと散らばった文房具を鞄に詰め込んで、部屋を出て行く。
遅れて、バタンと玄関の扉が閉まる音がした。
一人になった部屋に嗚咽が零れた。
陽夏の言葉が突き刺さったまま、身動きが取れなかった。
あいつの言っていることは全部当たっている。
俺だけではない。
あの時、お互い言いたいことを我慢した。
それが相手を傷つけない、唯一の方法だと嘯いて、結局守りたかったのは自分自身の体裁なのだ。
弱虫だったのは、先輩も俺も同じこと。
強さのない優しさなど、人を傷つけるだけだと知っていたら、もっと違う対応を取ることができたのだろうか?
そんなに浜田が好きなんですか? って訊けば良かった。
あの楽譜にどんな意味があったのか、と。
普通に戻るために、俺だけではなく、ピアノまで捨てていくのか……と。
一人で平気だなんてただの強がりだった。
自分はこんなだから、と諦めたいわけでもない。
本当は、ずっと一緒にいたかった。
本当に、本当に好きだったと、心の内を全部晒して先輩の前で泣いてしまえば良かった。
堰を切ったように溢れ出る感情を止められないまま、俺は子供のように泣き続けた。
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