第19話 情報漏洩

 何が起こったのか分からなかった。

 ぼやけた視界いっぱいに陽夏の顔が映って、回避する間もなく唇が重なった。

 最初、僅かに触れただけの唇は、その後しっかりと押し付けられ、柔らかく下唇を甘噛みして離れていった。

 声も出ない。陽夏を押し返すことも、息をすることさえ忘れていた。


 お互い言葉を発することができないまましばしの沈黙……そして。


「ヤバイヤバイ! 演奏聴きすぎた! お茶準備しなきゃ!」


「私、冷たいの取って来るね!」


 廊下の奥から、はっきりと響いてきた学生の声に、我に返った陽夏は後ろにのけ反って体を離した。焦ったように俺から目を背けた横顔が真っ赤に染まっている。


「おっ、俺、栗原さんに謝らないとっ……!」


 言い訳するように叫んで立ち上がり、何もないところで転びそうになりながら、陽夏はバタバタと廊下の奥へ消えてしまった。

 あっけにとられてその姿を見送った後、俺はヘナヘナと体の力が抜けて後ろに倒れそうになった。廊下の壁にゴツと後頭部が当たって、ようやく頭が回り始める。


 キスされた…………陽夏に。


 何故? どこをどうしたらそうなる?

 思春期特有の何か……だろうか?

 魔が差したとか、血迷ったとか、慣れないことして変なスイッチが入ったとか。


 そう。多分、きっとその類。


 バクバクしている心臓を鎮めるように、自分に言い聞かせる。

 陽夏は今日、不本意ながらこの会場にやってきて、無理やりステージに立たされた。体調が万全ではないにも関わらず、吐くことも逃げることもせず、一曲まるごと演奏することができたのだ。

 箸にも棒にもかからないあんな演奏でも嬉しそうに陽夏を迎えた栗原さんの笑顔がすべてを物語っていたではないか。

 それだけすごいことをしてみせたのだ。今までの陽夏からは考えられないぐらいの偉業を達成したに違いない。

 それで、キャパオーバーになった挙句、抑えきれない感情の発露があんな形で……。


 …………ってことだよな?


 外国育ちだし、スキンシップに対するハードルは日本人より低いはずだ。

 陽夏に関しては、出会った時から距離感が微妙だったし、真帆さんのヴァイオリンに喧嘩を売った時は、豪快にハグしてきたし、そんなあれやこれやを、ほんのちょこっと踏み外したら、お礼にキスぐらいしてくるかもしれない……と思わなくもない。


 気まずさもあって陽夏と顔を合わせたくなかった俺は、ホールに戻り、ピアノを撤収していた近藤さんの仕事を引き受けた。


「あ、いた」


 今日の作業を記録するため、ボールペンをノックしていたら、背後で野太い声がした。スタッフがまだ何かやっているのだろう、と気に留めず作業カードに視線を落とすと、


「高槻」


 今度は、しっかりと名前を呼ばれた。

 驚いて振り返ると、そこには懐かしい顔があった。


「先輩……」


 情報宣伝パート、元パート長の大垣渉先輩だった。あの時と変わらない笑顔で、しかし、スーツ姿もすっかりこなれた大人の先輩がそこに立っていた。

 まさかこんな所で、あの時のサークルメンバーに再会するなんて思ってもみなかった。

 驚いた拍子に作業の記録カードがヒラヒラと落ちて床を滑る。


「何で……?」


「あー、お前と同じ。仕事」


 落ちたカードを拾い上げ、先輩は俺の手にそれを乗せた。

 濃いグレーのジャケットに白のシャツ。少し長くなった髪を整髪剤で撫でつけた大垣先輩は自身の言葉を証明するかのように、首から下げた身分証明のカードを見せてきた。


「久しぶり」


 西村先輩の同期にして、親友。そして、俺を学園祭実行委員に勧誘したのも、コンクールにエントリーする西村先輩のために動画撮影を手伝うよう声をかけてきたのもこの先輩だった。


「…………」


「高槻?」


「ああ、すみません。びっくりして…………」


 俺はこの学校を卒業して以降、サークルメンバーとは一切連絡を取ることはなかった。それだけに、大垣先輩の登場は完全に不意打ちだった。


「いや、びっくりしたのはこっちだよ。お前いつから譜捲りするようになったの?」


 言って、破顔する。

 その笑い方や、喋り方も昔のまま変わらない。


「……見てたんですか?」


「だから仕事なんだって。俺、出版社で働いてて、今、学園祭の特集やってんの」


 そう言いながら渡された名刺には、大手出版社の名前が印字されていた。


「栗原さんが無名のピアニスト連れてくるって聞いたから、見に来た。母校だし」


「……ああ…………なるほど」


 でも、それってマズくないか?

 陽夏の延長線上には真帆さんがいるわけで、情報を公開するにも、香奈子さんの許可を得てからでないと……。


「ねぇ、お前野宮陽夏と知り合い?」


 案の定、質問が来た。


「パンフレット読んでも、名前と年齢と出身地ぐらいしか書かれてないし、何者なの?」


「あー、いやー…………」


 マズイ……これ以上、陽夏のことを突っ込まれたくない。


「十六歳ってことは高校生? お前のとこの近くって言ったら青城とか?」


「………………」


 残念ながら、陽夏は高校生ですらない。


「栗原さんが連れてくる子だからよほどだろう? お前、いつからあの子と知り合いなの?」


 記録カードに日付と作業内容を書き込んでピアノに戻す。


「おい、高槻」


「すみません。俺の口からは何も言えません」


 ピアノの蓋を閉めて立ち去ろうとしたら、大垣先輩に腕を掴まれた。


「なぁ、頼むって。伴奏、確かに上手かったけどさ。あのアンコールって何だったの? 栗原さん、今日は機嫌が悪いって言ってたけど、普段はもっとすごいってことなのか?」


「いや……すみません」


「じゃ、本人に直接聞くから、取り次いでくれない?」


「それも無理です」


 いくら大垣先輩の頼みでも、こればっかりはどうにもできない。


「高槻ー」


「先輩、本当、勘弁してください」


 俺だって仕事でここに来ているのだ。こちらにだって、守秘義務ってものがあるんですよ。

 ピアノの前で、大垣先輩と押し問答を繰り広げていると、


「創平っ……何やってんの!?」


 廊下の方から鋭い声がした。


「あ……」


 陽夏だ。

 ぶすくれた顔で、俺たちを睨みながら、大股でこちらまでやってくる。

 さっきのあれキスは……

 陽夏は、俺と目が合うと照れ臭そうにプイッと視線を逸らした。それでも、この状況を看過することはできなかったらしく、


「誰、こいつ?」


 いきなり大垣先輩をコイツ呼ばわりした。

 しかも、本人が目の前にいるのにそちらには見向きもせず、俺に質問してくる。警戒するのは結構だが、失礼にもほどがある。


「俺の先輩だよ……ちゃんと敬語使え」


 忠告を聞いているのかいないのか、陽夏はますます機嫌が悪くなって、フンと鼻を鳴らしたかと思うと、特大級の爆弾を投下した。


「ああ。あんたが西村さん? 結婚おめでとうございます」


「陽夏っ…………!」


 予期しなかった展開に、焦ってしまう。


「何で君が西村のこと知ってんの?」


 大垣先輩が目を見開き、陽夏と俺を交互に見る。


「お前、西村と連絡取ってんの?」


「取ってませんよ……!」


 取れるわけがない。

 携帯電話に残っていた連絡先も消した。卒業してからこの辺りに立ち寄ったこともなかった。当時先輩が住んでいたマンションまでの道のりは思い出せても、東京の住所までは、聞いたこともなかった。


「招待状が来たんです…………浜田から」


「はぁっ? 何で?」


 大垣先輩が眉を顰める。

 ですよね。

 当時の俺たちのいざこざを知っている人間なら、大抵はこんな反応をする。


「さぁ、何ででしょうね?」


 どうせ、マウント取りたいだけだろ。

 当時から浜田の粘着質な性格にはうんざりしていた。でもそれを止めようとしない西村先輩にも、強い悲しみを感じていた。どこにいても、こんなに時間が経ってもあの人は俺を助けようとしない。その態度が、もうお前とは関わりたくないんだと突きつけられているようで……。

 調律バッグの中にクロスを放り込んで、ファスナーを閉めた。


「でも、どうしてお前の住所…………」


 言いかけた大垣先輩は、何かに気付いたように天を仰ぐ。


「……まさか、引越しの時?」


 大垣先輩がずっと俺の様子を伺っている気配がしたが、どんな表情をしているのか、確かめる勇気はなかった。


「……ゴメン。高槻……」


「何で先輩が謝るんですか?」


 大垣先輩に謝られるようなことは何もされてない。


「いや。何となく」


「…………」


 別に、気にしてはいない。もう全部終わったことだ。

 キャリーバッグと陽夏を引っ張って、控室へと向かう。

 泣きたい。逃げたい。腹立たしい。色々な感情が綯い交ぜになってどうやって気持ちを収めればいいのか分からなくなってしまう。


「……創平……」


「お前、本当最悪」


 苛立ちをぶつけるように、声をかけてきた陽夏に言った。

 こんな感情を抱えたままでは、とても控室には戻れそうにない。

 自分が冷静さを欠いていることは重々承知している。でも、そこかしこに当時の思い出が残っているこの場所で、よりにもよって西村先輩と一番仲の良かった大垣先輩に、今自分が置かれている状況を知られたくはなかった。苦しんでいる姿なんて見せたくはなかった。


「取材の依頼だって。ちゃんと真帆さんと相談しろよ」


 ポケットにしまった名刺を陽夏に渡して、俺は頭を冷やすために校庭に出た。


***


 今のアパートは、不動産会社に勤める姉の伝手で見つけてもらった。

 楽器可物件で駐車場付きという制限もあったため、物件探しは思うように進まなかったが、二月末退去予定の部屋が出たという連絡を受け、少し早い時期ではあったが申し込みをした。

 引っ越し費用を最小限に抑えるため、荷物は極力自力で運ぼうと考えていた。


 大学の学食で近況報告がてら大垣先輩にそんな話をしたら、西村先輩も一緒に手伝いに来てくれることになった。学園祭の後、西村先輩から一方的に別れを告げられて、まともに顔を合わすことも、話すこともなくなっていたので、大垣先輩が気を使ってくれたのだと思う。

 緊張しながら迎えた引っ越し当日、手伝い要員として現れたのは大垣先輩と西村先輩、そして呼んでもいない浜田だった。

 こうなったら、もう西村先輩と話どころではない。

 浜田は勝手に押しかけてきた挙句、こちらの指示は全く聞かず、開けなくていいと言った箱を開けるわ、頼んだ片づけはそっちのけにするわ、足を引っ張ってばかりだった。どうにもならないので、昼ごはんの買い物を頼んだら、荷物持ちがいるとか何とか言って西村先輩を連れだして、そのまま一時間以上戻って来なかった。

 浜田と関わるとろくなことがない。俺が嫌がることだと分かっていながら、それを狙ってやっているのだから、当然だ。

 しかも、それを善意という形にして、こちらが断れない状況で放り込んでくるのだから本当に質が悪い。

 招待状だって、引っ越しだって『自分は気を使ったのに、高槻君が嫌がった』と涙を流せば、浜田の主張はまかり通ってしまう。

 つくづく「正義」なんて、何の役にも立たない言葉だ。

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