第18話 レントより遅く

***


 ドビュッシー作、レントより遅く。

 おしゃれな人が集う五時のお茶会のために書いたと言われるフランス印象派を代表する曲の一つだ。

 曲自体はそれほど難しいわけではないが、奏者は楽譜に書かれた指示を手掛かりに、曲の中に揺らぎを作り出さなければならない。

 弾き手のセンスが問われる作品だった。


 暗譜していると本人が申告していた通り、演奏中、陽夏は一音も間違うことはなかった。ただ、それは俺が想像していた陽夏の演奏には程遠く、面白味に欠けるものだった。

 あの素晴らしい情景が、音色が、何一つ聞こえてこない。CGでベタ塗りされた絵葉書を一枚、ポンと手渡されたような……そんな演奏だった。

 短い時間の中で、陽夏の調子が徐々に崩れていくのが分かった。譜面よりも、ぎこちないピアノの音の方が気になって、最後は祈るような気持ちで演奏が終わるのを待っていた。

 演奏が終わるや否や、陽夏は音の余韻も消えないうちにガタガタと椅子を慣らして立ち上がり申し訳程度の礼をした。

 逃げるように去っていく陽夏を、聴衆はポカンとした表情で見守っている。


「陽夏…………!」


 その名を呼んで、急いでそれを追う。

 観客のざわめきが一層大きくなったが、関係ない。


「おー。すごいすごい、最後まで弾けたじゃん」


 舞台袖には、笑顔で出迎える栗原さんがペットボトルを差し出していたが、陽夏はうっすらと涙を浮かべた目で睨みつけて、


「この狸ジジイ!」


 とんでもない暴言を吐いて、通路の方へと姿をくらましてしまった。


「すみません……! 俺、ちょっと行ってきます」


 陽夏の代わりに頭を下げた俺に、栗原さんは笑顔で手を振る。

 陽夏の暴言など意に介した様子もないことに安心したが、それを見ていた学生たちは顔面蒼白で、きっと生きた心地がしなかっただろう。


「陽夏……!」


 楽屋に続く廊下の途中で陽夏を見つけた。


 ――いやー。ゴメンなさいね。あの子のこと、前から口説いてるんですよ。ずっと片思いなんですけどね――

 

 ホールの方から栗原さんの声が聞こえる。


――今日ね、無理やり連れてきたら機嫌が悪くて。楽屋でもこんな感じで、地縛霊みたいな顔してて……――


 栗原さんが陽夏の顔真似をしたのか、会場が笑いに包まれた。


――……えーっと、サイトウ君、サイトウノブユキ君。舞台袖に楽譜忘れてたよ――


 ピアノの上に残してきた楽譜についても、しっかりと持ち主を探してくれたようで、サイトウ君が名乗りを上げると、会場はより一層大きな笑いと拍手に包まれた。

 さすがと言うか、トークに定評のある栗原さんで良かった。

 責任を取ると本人が宣言していた通り、栗原さんは陽夏がぶち壊しにしてしまった演奏会を立て直しながら、それとなくフォローまで入れてくれていた。

 演奏会の方はもう大丈夫。

 問題は……


「陽夏!」


 先を行く背中に何度呼びかけても反応することなく、陽夏は足早に廊下を進む。てっきり控室に戻るものだと思っていたが、それさえも通り過ぎて陽夏の足は、トイレへと向かっていた。


 吐く気か……!?


 体調が良くないことは分かっていたが、これほどまでとは思わなかった。先程ろくに挨拶もせずにステージを降りたのもこのためだったかのかと、その深刻さに今更気付く。突き当りを曲がった陽夏を走って追いかけると、陽夏は廊下の中ほどで壁にもたれ、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。


「あー…………昼飯食うんじゃなかった……気持ち悪い……」


 唸るように言って、胸元を擦っている。


「大丈夫か?」


 俺も陽夏の隣に膝を折り、その背中に手を当てた。


「水持って来ようか? 飲める?」


 吐いた方が楽になるのか? いや、控室なり救護室なりでゆっくり休んだ方がいいのか? どうしたら良いか分からず訊ねると、陽夏はゆるゆると首を振った。


「いい……」


 そのまま、腕を引っ張られてぎゅっと抱きしめられた。


「……陽夏?」


「すぐよくなるから、ちょっとだけこうしてて…………」


 胸のあたりでくぐもった声がする。まるで子供だ。

 しがみついてくる陽夏の背中に手を伸ばし、ゆっくりと擦る。

 陽夏の演奏は、残念な結果に終わってしまった。それでも栗原さんは戻ってきた陽夏に労いの言葉をかけた。きっと、今までの陽夏からすれば、最後まで弾き切ったこと自体がすごいことだったのだろう。

 陽夏の背中を撫でながら、舞台に押し出された瞬間の何とも言えない緊張感を思い出していた。舞台袖で見ているのと、スポットライトの中とでは全く世界が違っていた。


 陽夏はこれだけ弾けるのだから、才能があるのだから、当然プロになるべきだと誰もがそう思っている。陽夏の音楽にはそれだけの価値があると誰もが確信している。でも、俺たちが躍起になって陽夏を送り出そうとしていた世界は、あんな世界だったのだ。

 プロの奏者は毎回毎回、衆人環視の中、あのプレッシャーと戦っている。否、プロだけではない。あそこに立って演奏する人間であれば誰だってそれを経験するのだ。


 ――簡単に言うね――

 

 不意に西村先輩に言われた言葉を思い出した。

 西村先輩の努力を俺はずっと隣で見ていた。簡単に言ったつもりなどなかった。国際コンクールのあのステージで、俺も一緒に戦ってきたつもりだった。でも、結局のところ、本当に戦っていたのは先輩だけだったのかもしれない。

 何となくそう思った。


「がっかりしたでしょう?」


 どれぐらいそうしていたのだろう。

 ゆっくりと体を離すと、そこには落ち着きを取り戻した陽夏がいた。


「……近藤さんから俺のこと何か聞いた?」


 陽夏の問いに無言のまま頷いた。

 あの時、何て言えば良かったのだろう?

 目の前で、傷ついているピアニストを見て俺はもう一度考える。

 違う。

 言葉など必要なかったのだ。

 ただ寄り添って、傍にいるだけで良かった。

 励ましも、労いも先輩は何一つ望んではいなかった。


 ――簡単に言うね――


 その言葉がリフレインする。

 罪悪感と、後悔が胸に押し寄せてきた。


「あの演奏会の時さ、祖母ちゃんが居たの」


 そう言って、陽夏ははぁ、と大きくため息を吐いた。


「休憩時間に母さんと喧嘩してるとこ見ちゃって……このまま放っておいたら殴り合いが始まるんじゃないかってぐらい酷いの。その時まだ日本語よく分かってなかったけど、知ってる単語とか……あと雰囲気で、俺のこと言ってるんだなって分かった」


 青柳家は日本有数の芸能事務所を経営している。関連会社がいくつも存在し、その中心にいるのが真帆さんの実家……つまり、陽夏の祖父母だった。真帆さんは社長令嬢。陽夏だってこんな出自でなければ御曹司になるはずの人間だった。


「祖母ちゃんって、レナみたいな人なんだろうって勝手に思ってた。会えるの楽しみにしてたしいっぱい練習したんだよ。どの曲も。でも、休憩が終わっても祖母ちゃんだけ戻って来なくて…………そしたら指が止まって弾けなくなった」


「そうか……」


「……それからは散々だよ。母さん仕事干されてクビになるし……母さんを庇ったせいでマネージャーだった香奈子さんも会社にはいられなくなるし」


 親子なのにそこまでするのか?

 陽夏の言葉に驚きを隠せなかった。確かに、真帆さんは迂闊だったかもしれない。世間から後ろ指をさされるようなことをしてしまったのも事実だろう。しかし、社会的制裁を受け、レナさんの手を借りながら陽夏をここまで育ててきたのだ。

 その努力を分かっていて、実の親が追い打ちをかけるような仕打ちをするなんて……。


「……体育館で創平が泣いてるの見て、すごくびっくりした……俺が創平のこと拒否したから、会社から叱られたのかなって……」


「あれは…………違うよ」


 たまたま偶然、あの曲だっただけ。

 あの時ピアノを弾いたのが別の誰かでも、俺はきっと泣いていた。もし、陽夏が別の曲を選んでいたら、俺は泣かなかった。……ただ、それだけのこと。

 国際コンクールを終えた先輩の言葉に、渡された楽譜の中に、どんな意味が込められていたのかは知らない。でも、西村先輩の心を救うことができなかったのは事実で、ただその後悔を認めたくなかっただけなのだ。


 俺ではダメだった。


 ピアノのことが分かっても、いつも隣にいても、先輩のことを理解してあげられなかった。

 逃げていいよって言えば良かったのだろうか?

 もういいよ。って言ってあげれば安心できたのだろうか。

 あの時の先輩に、そして、出演を渋っていた陽夏にも。

 結局俺は陽夏に対しても同じことをしてしまったのだ。


「今日、一緒に居てくれて嬉しかった。大丈夫、俺、また弾けるって初めて思えた……まさかのヴァイオリン譜だったけど」


 しかし、陽夏は俺を責めたりはしなかった。真顔でそんなことを言われて、笑った瞬間に涙が零れた。


 違うよ、陽夏。


 俺はとても利己的な人間で、ピアノが好きってだけで奏者お前たちの気持ちに寄り添えない、ダメな調律なんだよ。

 ただ綺麗な音のために、ピアノが持てる性能を余すことなく引き出すことが出来たとしても、あの舞台で戦うのはお前たちなんだよ。そこで何が起こっても、何を感じてもどれだけ傷ついても、本当の意味で寄り添えることなんて出来はしないのだ。

 不甲斐ない自分が嫌になる。

 情けなくて、悔しくて涙が止まらない。

 不本意な演奏しか出来なくて、本当に悔しかったのは陽夏の方なのに。


「創平……」


 呼びかけに顔を上げると、普段とは全く違う、真剣な表情で陽夏がこちらを見ていた。


 高窓から入ってくる光が当たって、色素の薄い髪が黄金色の光を反射する。淡い色の瞳。温かくて優しい陽夏のピアノの音を思い出した。


「俺、創平のこと好きだよ……」


 その瞬間、世界中が呼吸を止めた。

 そして、目を閉じる間もなく唇に陽夏の吐息を感じた。


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