第17話 第三のバアちゃん

 その後、準備は着々と進み、二人は何事もなく午前中にリハーサルを終えた。

 なんだやっぱり弾けるじゃないかとその瞬間は安心したものの、陽夏のテンションは依然として低く、リハーサルの後の控室では幽霊のように一番端の椅子に座り、出された弁当も残してしまう有様を見て、それが単なる上司の杞憂でなかったことを実感した。

 いつもの陽夏を知っているだけに、弁当を残すということがどれほど深刻で異常なことなのかがよく分かる。

 一方の栗原さんは、いつもと変わらない様子で、気さくに実行委員のスタッフに話しかけていた。


「栗原さん本番前なのに、緊張とかしないんですかね?」


 テレビで見たまんますぎてびっくりしてしまう。


「場慣れしてるのもあると思うけど、昔からああだったから、あれが彼なりのリラックス方法なんじゃないかな」


「陽夏は…………」


 栗原さんの陽気な声とは裏腹に、俯いてトボトボと歩く陽夏は、絞首刑にかけられる囚人の様だ。


「……こっちもいつも通りだね」


 そう言って、近藤さんは小さなため息を漏らした。

 近藤さんの言う『いつも通り』ってどういうことなのだろう? ステージに立つ陽夏を見たことがない俺には、その普通がわからない。そもそも、何らかのトラウマを抱えているであろう陽夏を、無理やり舞台に立たせるのはどうなのだろう? ただ、仕事を受ける受けないの最終判断は陽夏が決めたことで、今日も不承不承ながらここまでやってきた。多少なりとも栗原さんの期待に応えようという気持ちが陽夏の中にもあるのかもしれない。


 陽夏の様子に多大な不安を抱えながら迎えた午後二時。運命の幕は上がった。


 会場は八割ほどの席が埋まっていて、学園祭の演奏会でここまで集客できるのはとても珍しいことだった。これも栗原さんの影響力の賜物だろう。一階席は満席状態。空席が目立つ二階席にも、開演五分前を知らせるアナウンスが流れた後、学園祭スタッフと思しき学生たちが静々と入ってくる姿が見えた。

 通常のクラシックコンサートに比べて若者の比率が高いのは学園祭特有のものだ。プロの演奏が破格の値段で聴けるのだから、音楽を目指す人間としてこれに便乗しない手はない。単なる賑やかしではなく、自分のチケットを確保しておいてわざわざ駆け付けたスタッフもきっといるだろう。

 在学中の二年間、事あるごとに足を運んだ音楽ホールに、こうしてよそ行き顔のお客さんがひしめき合っている姿を見ると、内装の荘厳さがより鮮明に伝わってきて、気分が引き締まる思いがした。

 陽夏はこんな場所で演奏するのか……そう思ったらこちらまで胃が痛くなってくる。

 アマチュアと言えど、ここにいる学生は音楽を学ぶために集まった人間ばかりである。日々楽器に触れて耳は肥えているだろうし、演奏技術についても誤魔化しは利かない。むしろ、この機会だがら栗原輝之の演奏会に行ってみようと軽い気持ちできている一般客の方が相手にするのは楽かもしれない。


「もうすぐだな」


 開演前、それとなく声を掛けると陽夏は「うん」と頷いた。ずっと喋ってなかったせいで陽夏の声は少し掠れていた。ゲロを吐くなら今のうちだぞ、と思ってその顔を注意して確認してみたが、嘔吐するような気配は見られない。しかし、抱えている不安が大きいのか陽夏はちょんと指先で摘まむように俺の指に触れてきた。甘やかすつもりはなかったがそれで陽夏が安心できるなら、とその指先を握ってやると陽夏がポツンと口を開いた。


「創平、こんなとこで勉強してたんだね」


 いやまぁ、それはそうなのだが、今はそこじゃない。俺のことより自分の心配をすべきだ。


「ここのピアノどう?」


 そして、ぼんやりとした表情のまま頓珍漢な質問をしてくる。俺に訊くまでもなく、さっきお前が確かめたばかりだろう、と心の中で盛大に突っ込みを入れつつ、近藤さんの話が現実味を帯びてきたことに不安が増した。

 本当にどうしてしまったのだろう。まさか、ここへきてあれが悪い、これが弾き難いなんてピアノにいちゃもんを付けて、逃げ出すつもりじゃないだろうな……。

 さすがにそれはないと信じたいが、そもそもが何をしでかすか分からない男である。しかも陽夏には俺たち社会人のように守るべき立場もない。この演奏会でやらかしたところで、周りの大人は激怒するだろうが、社会的な制裁を加えられるわけでもないのだ。


「ちゃんと管理されてるに決まってるだろ。俺に調律を教えた先生だっているんだぞ?」


 お蔭でピアノの方はほとんど手をつけないまま、予定していた時間よりも随分早く仕事を終えた。調律科を抱えている音大なのだから、当然と言えば当然だった。ピアノに何かあれば業者に電話を入れるまでもなく、担当科の講師が道具を持って即座に駆け付ける。

 当然、メンテナンスも定期的に行われているし、どこぞの中学校のように何年も不調を放置されることもない。こうなることが分かっていたのか、近藤さんはピアノの配置だけを確認して指示を出した後、ピアノには触れないまま陽夏の元へと行ってしまったぐらいだ。


「そうだね」


 俺の言葉に、陽夏がふっと笑みを浮かべた。その表情に少しだけ安心した。

 開演のブザーがなり、陽夏は一度だけ俺の手をぎゅっと握って栗原さんと共に舞台へと出て行った。

 温かい拍手に包まれながらライトに照らされた舞台へと向かう陽夏を見守る。

 栗原さんの登場で一際大きくなる拍手の中、俺はピアノの椅子に腰かける陽夏の背中を祈るような気持ちで見守った。

 挨拶もそこそこに、準備が出来た直後、演奏が始まった。

 一曲目はモーツァルトのヴァイオリンソナタだ。どうなることかと恐々見守っていたが、何のことはない。リハーサルと遜色のない演奏が出来ている。

 俺は隣にいた近藤さんの方を見た。近藤さんは俺に目配せして頷いた。

 陽夏は終始落ち着いた様子で大きく崩れることもなく伴奏を続けることが出来た。そして、最後のフランク。第四楽章まで全体で三十分程度かかる曲も皆が危惧するような事態は訪れないまま、演奏は無事に終わった。

 大きな拍手の中、二人が舞台袖に戻って来た。


「お疲れさまでした」


 戻って来た二人に、実行委員のメンバーが水の入ったペットボトルを渡す。遠目には分からなかったが、二人とも汗をかいていた。


「よし、じゃ、陽夏行ってみようか?」


 安堵に胸を撫でおろし、陽夏に労いの言葉を掛けようとした俺の横から手が伸びてきた。陽夏が顔を顰めると同時に、その手に握られていたボトルがひょいと奪われた。


 えっ?


 まさか、と思って声の主を振り返ると、陽夏のペットボトルにキャップを付ける栗原さんがいた。


「嫌だ……」


 陽夏顔を引き攣らせ、反射的に後ずさった。逃げる素振りを見せた陽夏を栗原さんが一瞬早く腕を掴んで引き留める。


「ちゃんと弾けてたじゃん」


「リハーサル通りに演奏しただけだよ……」


「リハーサル通りね。まぁ、確かに、百点満点ではないけど、落第点でもないよな」


 栗原さんの言葉に、学園祭実行委員がギョッとした様子で顔を見合わせた。

 さっきの演奏そんなに悪かった?

 いやいや。そんなことないよ。

 チラチラを視線を行き来して、周囲のスタッフに確認を取っているようだ。

 何も知らない人間ならこの反応も仕方がない。栗原さんの言葉を真の意味で実感できるのは、本当の陽夏の演奏を聞いた人間だけだ。実際俺も、近藤さんから話を聞かされていなければ、今日の陽夏の演奏に物足りなさを感じていただろう。

 栗原さんは一つため息を吐いて、


「それこそ、いつも通りに弾けばいいだけだろ?」


「出来ない! 本当は今日だって来たくなかったの、俺は!」


「じゃ、断れよ。何でこのオファー受けたわけ? お前が受けてくれて俺は嬉しかったんだけどなぁ……」


 栗原さんの言葉に、陽夏は口を噤んで助けを求めるように俺の方を見た。

 いやいや、そんなことされたって俺が陽夏を助けられるわけではない。


「真帆から色々話聞いてるけど、お前もそろそろ覚悟決めろって」


 栗原さんはそう言って、陽夏をグイっとステージの方に押し返した。


「や……嫌だっっ!! 約束と違うっ!!」

 

 陽夏が叫んで栗原さんに抵抗する。


「いいからいいから。お前がこけても俺がちゃんと責任取るから行ってこい」


「嘘つきっっっっ! こういのうやんないって言った!」


「そうだよ。いつもいつも嘘つかれてるんだから、最初にオファー断れば良かったんだって」


「無理だよっ……! ちょっと……栗原さんっっ!」


 どうすればいいのか分からず、オロオロしながら成り行きを見ているうちに、陽夏はステージに押し戻されてしまった。

 まさかの、ここからが本番!?

 飛び出してきた陽夏を見た客席のざわめきが聞こえてきた。

 ライトの当たるステージからこちらの方を睨んでいた陽夏は、しかし諦めたように踵を返し、ピアノの方へと歩き出した。


「大丈夫なんですか!? あんなことして……」


 無理やりステージ押し出すなんて、正気の沙汰とは思えない一体何を考えているのか。

 栗原さんは最初からこれが目的だったのか? 陽夏がコケても自分が責任を取ると言っていたが、これでは栗原さんの名も傷付き兼ねない。

 こんなリスクを冒してまで陽夏をステージに上げたかったということなのだろうか?

 しかも、


「大丈夫なはずないでしょ。何回もこれで失敗してるんだから」


 あっけらかんと言い放った。

 マジか。あり得ない……陽夏のトラウマが酷くなったらどうするつもりなんだ!?


「だから、えーっと……はい、これ」


 キョロキョロとあたりを見回した栗原さんは、パイプ椅子の上にあった楽譜を手に取り、ポン、と俺に渡してきた。


「はい?」


「君、譜捲りお願いね」


 反射的に受け取ってしまった瞬間、栗原さんがグッと力を入れて俺の肩を押してきた。

 先ほどの陽夏と全く同じ状況だ。でも、俺は裏方であって、本番の舞台に上がれるような人間ではない。


「君の前で31番弾いたらしいね。あいつ」


 またその話か!? 陽夏があのピアノソナタを弾いたことが彼らにとってはそれほど重大な出来事なのだろうか。でも、あれはただの偶然だ。あのピアノを修理できたのが俺でなくても、陽夏はあの曲を弾いたはずなのだ。

 俺は必死に踏ん張って栗原さんに抵抗する。


「そうですけど! ちょっと待ってください! こんなの無謀すぎですよ!!」


「いやね、あれから皆で話してみたんだけど、結局何が切っ掛けなのか分からなくてさ。君にやらせてみたら、って真帆が。あいつ君のこと第三の祖母ちゃんって呼んでたよ」


「何ですかそれ!? 初耳ですよ! 俺はそんな年齢じゃないし、歳取ったとしてもバアちゃんにはなりませんよっっ!!」


「ははは。それ、面白い」


 いや、全然面白くないっ!

 ましてや、俺をステージに上げようなんて、言語道断だ。舞台袖の学実スタッフはどうしたものかと、この騒ぎを止められずにいる。俺は必死の思いで静観している近藤さんを呼んだ。

 

「近藤さんっ! 見てないで助けてくださいよっ!」


「すまない高槻君。陽夏君のためなんだよ」


「え……ちょっと、うわっっ!」


 しかし、願いも虚しく、あろうことか、尊敬する上司までもが一緒になって俺をステージに押し出しにかかった。

 たたらを踏んでどうにかこうにか転ぶのは回避したが、その瞬間、先ほどより大きい会場のどよめきが右の方から聞こえてきた。


 出てしまった…………ステージの上に。


 手にしたままの楽譜をぎゅっと握る。怖すぎて客席の方を見ることができなかった。

 ステージに立つなんて何年ぶりだろう。中学の頃、ピアノ教室の発表会に出て以来だからもう十年は経つ。しかも、身内ばかりが集まる発表会とは違い、今回はプロが出演するステージの上だ。栗原さんを見たくて集まったファンの前に陽夏が登場し、更に場違いな俺が姿を晒すなんて、アウェイ感が半端ない。

 無理、無理、無理……でも、もう舞台袖に引っ込むことはできない。俯いたまま、ピアノの方へと歩いて行く。


「創平? 何で?」


「分からないけど、譜捲りしろって……」


 完全にキャパオーバーだ。色々無理すぎる。自分が演奏するわけじゃないのに、足も手も緊張でガタガタ震えている。


「ったく…………」


 舞台袖を振り返って睨んでいた陽夏が呆れたように一つ息を吐いた。


「つか、これヴァイオリン譜じゃん」


「嘘!?」


 なんてことをしてくれるんだ!? どうしようとかとオロオロしていたら、陽夏はそのまま楽譜に手を伸ばした。


「まぁいいけどさ……」


 楽譜を受け取る指が触れて俺は、そこでようやく気付いた。陽夏の手は酷く冷たく、濡れていた。先ほど飲んだペットボトルの水滴がついたのだろう。

 パニックを起こしていた頭が一瞬だけ冷静になった。


 こいつ、こんな状態で弾こうとしていたのか?


 ハタと自分に託された使命を思い出し、現在の状況が見えてきた。

 違う。落ち着くのは俺じゃない。弾くのも俺じゃない。陽夏だ。陽夏を何とかしなければ。


「陽夏。手、拭いて」


 ハンカチを渡し、俺は譜面台に楽譜を広げる。

 楽譜は一応読めるが、ページを捲るタイミングはわからない。とにかく、陽夏の呼吸に集中することを念頭に、俺は腹を括る。

 どんな結果になっても、もうやるしかない。


「譜捲りなんてできないからな」


「大丈夫。暗譜してる」


 答えながら陽夏が少しだけ笑った……ような気がした。


「パニクってる創平見てたら、ちょっと楽になった」


 そう言って、ほい、とハンカチを手渡してくる。

 陽夏の指が一瞬手の平に触れた。その冷たい感触を確かめるように俺は手をぎゅっと握り締めた。陽夏は全然大丈夫じゃない。今だって顔色が悪い。俺の励ましなんて、きっと何の役にも立たないだろう。それもで、言わずにはいられなかった。


「大丈夫だ。俺も一緒にいるから」


 譜捲りのために準備されたピアノ椅子に座って、陽夏を見る。

 陽夏の口元にほんの僅か、今度は見間違いようのない笑みが浮かんで消えた。


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