第16話 陽夏の秘密
十一月上旬。
銀杏の木もすっかり黄金色に染まり、秋の気配が色濃く感じられる季節になった。
歩道に積もる落ち葉が厚みを増す中、あろうことか俺は県境を跨いで母校に足を踏み入れていた。
四年前と何も変わらない校内のレイアウト。この敷地には短大と大学それぞれの校舎と関連施設が林立していたが、案内無しで目的地までたどり着ける程度には記憶が残っている。
そして、学園祭期間中の今日、正面入り口の門柱をくぐって、真っ先に目に付いたのは巨大看板だった。
今回の学園祭のテーマは『日進月歩』で、それをイメージした宇宙の絵が六メートル四方の板に描かれていた。今年の学実メンバーも頑張ったんだなぁと、後輩たちの苦労を思ってしみじみしている自分と、今すぐここから逃げ出したい自分が心の中にいた。
いつの年代のどのパートでも大なり小なり何かの事件は勃発するものだが、OB、OGを巻き込んで騒ぎを起こした事例は自分たちの代以外で聞いたことがない。
そもそも二年間で任期を終えた学生は、短大生なら就職するし、大学に残るメンバーも就職活動を見据えて次の行動に移るので、OB、OGにここまで依存するサークルは情宣以外にはないのだ。
構内に足を踏み入れただけで過去のあれこれが思い出された。浜田とのすったもんだだけではない。西村先輩との思い出だってそこかしこに残っている。正門からは見えないが、情宣の部室と言われた雑用倉庫の中で、何度人目を盗んでキスしたことか……。
更に、あの二人の結婚式も今月だったなぁ……と、はがきに書かれた挙式の日取りを思い出したらより一層心が重くなって地面にめり込んでしまいそうだった。
「はぁ……」
そして、もう一人。さっきから俺の隣でため息を吐き続けている人物がいた。今回の主役はいつものテンションには程遠い様子でとぼとぼと歩いている。しょぼくれた様子で歩く陽夏の横顔は、心なしかいつもより少し青白く見えた。
七月に勃発したピアノ売却未遂時間の際、真帆さんが陽夏に命令した依頼というのが、この音大で開催される栗原輝之のヴァイオリン演奏会だった。
栗原輝之は今現在、第一線で活躍しているプロのヴァイオリニストの一人だ。真帆さんと同年代ではあるが芸歴的には後輩に当たる人物である。
フランス留学中に国際コンクールで入賞を果たし、その後プロデビューした栗原さんは、洗練された演奏のみならず、軽妙なトークにも定評があり、バラエティー番組にもよく出演していた。知名度とファン層の厚さは抜群で、日本で最も売れているヴァイオリニストと言われている彼には、この業界を盛り上げるという強い使命があるようで、若手の育成やクラシック普及にも力を入れていて、そんな事情もあって、今回陽夏に声がかかったのだ。
周囲の期待とは裏腹に当の陽夏は合わせの段階から徐々にテンションを下げ始め、本番を迎えた今日は、朝からほとんど会話をすることもないまま、ここまでやってきた。出迎えてくれた実行委員の学生に案内されて控室へとやってくると、そこで待ち構えていた栗原さんは、良くも悪くもいつもと変わらない様子で、熱烈な抱擁で陽夏を歓迎したのだが、愛想笑いの一つも浮かべない陽夏の様子に学園祭スタッフが慌ててフォローに入ったほどだった。
二人を残し、俺たちはピアノのある音楽ホールへと向かう。
「調律師ならいっぱいいると思うんですけどね……」
ここには俺に調律のいろはを教えてくれた講師陣だっている。学校側からその申し出はあったはずなのに、わざわざ俺たちを派遣する理由が分からない。調律費用は別途負担となり、その部分に関しては近藤さんと栗原さんが折半してくれているということだが、陽夏の拘り対策にしては費用対効果が悪すぎる。
「母校での調律はやり辛い?」
近藤さんがクスクス笑いながら声をかけてくる。
「試験受けてるみたいで夢に出てきそうですよ」
他にも色々と懸念材料はあるのだが、さすがに詳細までは口にできない……。
あの招待状を受け取ってから、毎日とまではいかないが、ちょこちょこあの二人が夢に出て来るようになっていた。
西村先輩の背中に縋って泣きながら引き留めるだとか、やりたい放題の浜田にキレて言い返すだとか。当時も散々夢に見て、それが嫌で嫌で仕方なくて必死に封印してきたはずなのに、あの、悪意しか感じない招待状にこれまでの努力を全て台無しにされた気分だった。
唯一四年前と違うのは、たまにその夢の中に陽夏が出てくることだった。例えば、俺の方が上手く弾けるもんねーと笑いながら西村先輩の前でベートーヴェンを弾いたり、悪霊退散と叫びながら『呪』と書かれた札を浜田に投げつけたり、孤立する俺に今日のご飯何? と話しかけてくれたり……。
支離滅裂でやることなすこと全部子供染みているのだが、陽夏の夢を見た日は、ほんの少しだけ寝起きが良いような気もするし、実際に陽夏に会って他愛のない話をするだけで何となく気が紛れている。陽夏がいると、否が応でも世話をしないといけないので二人のことを考える時間がないのだ。
きっと、ペットを飼っている人はこんな気分なのだろう、と思った。
「あらあら。試験なんてスラスラ解いてるイメージがあるけどね」
「そんなことないですよ。特別厳しい先生がいて、皆苦労したんですよ」
「まぁ、そのお蔭でウチはいい人材を獲得できたけどね」
「そう言ってもらえて光栄です」
ペコリと頭を下げたら近藤さんが再び笑った。
会場は大学の西側にある音楽ホールだった。もともとあった音楽ホールの老朽化に伴い十年ほど前に建設されたこの建物は、九百人の収容が可能で、学校関係者のみならず、式典や、地域のコンサート会場としても利用されていた。建物自体の設計はもちろん施設内にはパイプオルガンまで設置されていて、内装も洒落ていた。
裏口から中に入ると、廊下の奥からスタッフの元気な声が聞こえてきた。演奏会の準備は着々と進んでいるようだ。
当時は何も感じなかったが一旦社会に出て振り返ってみると、成人しているとは言っても学生はやっぱり学生だと感じた。活気があって元気だし、それなりに悩みは抱えていても皆キラキラ輝いて見える。こんなに沢山の仲間に恵まれることも、こんな風にバカをやって、騒げるのもこの時期であればこそだ。
自分とは随分距離が開いてしまった懐かしい光景にノスタルジーを感じながら歩いていると、学生たちの会話が聞こえてきた。
「ねぇねぇ、見た? あの子」
「見た見た! めっちゃ若かったよね? 野宮陽夏って名前聞いたことある?」
「いやー、私結構チェックしてるけど、聞いたことないんだよね……」
「でも、栗原輝之ってよく若手を採用するから、今回もそれでしょう?」
「えー、だったら和田先輩でも良くない? わざわざ外部の人間連れて来る必要ないのに……」
「まぁね。そこは色々あるんじゃない? 大人の事情ってやつが。さっき、後輩から写メ貰ったんだけどさ、めっちゃいい感じだったよ。ノミヤハルカ」
「え? マジで?」
「わー。将来有望。ビジュアル的には和田先輩より断然売れる」
やっだ失礼ーー。きゃはははは。
先で屯っている三人が一斉に笑った。
下世話な話に、俺と近藤さんは足を止めた。
「えー、まさかこの学園祭ってその子の宣伝なの? 私、栗原さんの演奏楽しみにしてたんだけどなぁ……」
噂話に花を咲かせる学生たち。
栗原さんと野宮家の事情を知らないので仕方がないとは思うが、随分好き勝手なことを言ってくれる。
陽夏は今のところ芸能事務所には所属してない。顔が可愛いから伴奏に選ばれたわけでもない。
何の楽器を専攻しているかは知らないが、一度陽夏の演奏を聴いてみればいいのだ。そして、自分に同じことができるか、考えてみたら良い。
仕事中なので、思ったままを口にすることはなかったが、無責任な話をしている学生たちに、多少なりとも怒りを覚えた。
「こんにちはー。大橋楽器です! 調律に来ました!」
ムカついて、廊下の奥に声を掛けると、ばっちりメイクの女性二人と男子学生が駆けてきた。
「どうも。こんにちは。あ、ピアノですね。こちらです」
「すみません。今から調律を行いますので、できるだけ静かにお願いします。立ち合いは不要ですので、皆さんそれぞれのお仕事をされてください」
「えーっと、でもこちらは……」
「実は私もここの卒業生なんです。調律は雑音が少ない方が助かりますし、実行委員の皆さんはいろいろと大変でしょうから」
「あ! OBの方なんですね!」
俺の嫌味が通じたのかは知らないが、ばっちりメイクの一人が驚いたように瞬きした。綺麗にカールされた睫毛が上下に揺れて存在感を主張する。
「では、お言葉に甘えて……これから受付の準備があるので……」
「はい。早めに終わったら声をかけますので」
笑顔で会釈する俺の隣で、笑いを堪えた近藤さんが肩を震わせていた。
人払いに成功した俺たちは、早速仕事に取り掛かる。今日は伴奏ということもあって、ピアノはステージの奥の方に配置されていたが、それでも会場全体の響きや、人が入った場合の音の広がり具合を予測して位置を決めなければならない。
キャリーバッグをステージの上に開いて準備をしていたら、近藤さんがポツンと口を開いた。
「あの子ね、ステージに立てないんだよ」
耳から入った情報が言語として脳まで届いたのに意味が理解できなかった。
聞き間違いかとそちらを振り返ると、いつもの柔和な表情に少しだけ憂いを帯びた近藤さんと目が合った。近藤さんは困ったように、でも、視線を反らすことなく俺を見たままもう一度言った。
「陽夏君は、ステージで演奏できない」
頭の上に両手でも足りないほどのクエスチョンマークが浮かぶ。
演奏ができない? そんな筈はない。俺は今まで何度も陽夏の演奏を聴いている。音楽の授業中にクラスメイト前で魔王を披露したと本人も話していた。
「驚くよね……無理もない」
「いや……だって、いつも普通に弾いてるじゃないですか? 昼休みもクラスメイトのリクエストに応えているって……」
「そのまま場所を移せばコンサートもできるだろうって? そうだよね。毎日あんな調子だし、ドイツ時代の彼を知っている人間なら尚更……ピアノがあればどこであろうと遊び場にしてしまうような子だったからね。この子はプロになるんだろうって皆がそう思っていた」
混乱している俺を宥めるように背中をポンポンと叩いて、近藤さんはピアノの屋根に手をかけた。
「日本に帰ってきた頃、内輪で演奏会をやったことがあったんだ。栗原君も居たし、他にも何人か集まってね。前半は問題なく終わって、後半、ソロの演奏が始まった時、演奏が止まった。陽夏君が泣きだして、演奏会はそのままお開きになった」
「…………何があったんですか?」
「陽夏君にも聞いたけど、結局理由は教えてもらえなかった。……それ以来人が変わってしまったみたいにふさぎ込んでしまって、頃合いを見て、ある日ステージに立たせたらそこで嘔吐した」
嘔吐?
……そんなに酷いのか?
陽夏がナーバスになっていたことには気づいていた。今日も何となく顔色が悪いと思っていたが、気のせいではなかったようだ。
「高槻君、学校で陽夏君のベートーヴェンを聴いたんだって?」
「……はい」
「演奏会で中断した曲っていうのが、31番のピアノソナタだったんだよ。演奏会以来、誰もあのソナタを聴いてない。一緒に生活している真帆君ですらね。だから君の話を聞いて皆驚いた」
あの日の、陽夏の演奏が脳裏に浮かんだ。音の一つ一つが光の結晶のように輝き、それが幾重にも折り重なって空へと昇っていく、陽夏にしか演奏のできない見事なフーガ。あの演奏にそんな重大な意味があるだなんて思ってもみなかった。
「…………レナさんを思い出したって言っていましたけど……」
あの時、なぜあの曲を体育館で弾いたのか。
陽夏は確かにそう言った。
あのピアノのどこにそんな要素があったのかは分からない。それに、俺は自分のことに必死になりすぎて、陽夏にまで気が回る状態ではなかった。
あの時、陽夏は陽夏で何かを感じて自分自身と向き合っていのかもしれない。そして、結婚式の招待状を受け取ったあの日も、陽夏は31番のソナタを弾こうとしていた。あの曲が俺にとっても特別なものだということに気付いて、自身の姿を重ねていたのだろうか?
「他には何か言ってた?」
「ピアノを始めた理由は真帆さんに勝つためだって言っていました……レナさんがピアノなら勝てるって陽夏に教えたんだって……」
俺が言うと、近藤さんは「陽夏君らしいね」と言ってクスクス笑った。
「レナさんは家族同然の人だったからね。赤の他人なのに真帆君が不在の間ずっと陽夏君の面倒を見ていてね、レナさんも孫だって周りに公言するぐらいあの三人の親交は深かったんだよ。彼女の病気が見つかって一年足らずで亡くなってしまったから、陽夏君の中で気持ちの整理ができなかったんだろうって、真帆君がカウンセリングにも連れて行ったけど、言葉の問題もあってなかなかうまくいかなくて……。日本での生活が落ち着いて、彼もいつものようにピアノを弾いているのに、ステージに立たせると調子を崩していつもの演奏が出来ない……もう何年もそんなことを繰り返している」
「…………」
そうか……。そうだったのか。
いつぞや、真帆さんが言っていた『グダグダ』の理由はこれだったのか。
近藤さんの話を聞いて理解した。
「今日はどうだろうね……」
こればっかりは、実際にやってみないと分からない、と近藤さんは複雑そうな表情を浮かべた。どんなに大きな演奏会でも淡々と仕事をこなす上司なのに、こっちまで不安になってくる。
「高槻君、君には迷惑をかけてしまって本当に申し訳ないと思ってる」
近藤さんは頭を下げて、改めて俺に言った。
「でも、皆があの演奏を聴きたくて陽夏君を支えようとしている。栗原君もそうだし、海外にも陽夏君との共演を楽しみに待っている人たちがいるんだよ。君も協力してくれるかな?」
「もちろんです。俺ができることなら何でもします」
それが、クラシック界のために……陽夏のためになるのであれば。
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