第6話 魔王


 一本唸りの原因解明と対処が終わり、一息ついた時には既に十一時を回っていた。

 とてもではないが、午前中には整音まで手が行き届かない。

 いずれにせよ、追加作業が必要なので、学校側に許可をもらう必要があった。少し早い時間ではあったが、このまま昼食に出かけようと、財布をポケットに入れて体育館を後にする。

 校舎の二階にある職員室に向かってみたが音楽教師の姿はなく、代わりに応対してくれた男性教諭が音楽室までの道順を教えてくれた。

 階段の踊り場に貼ってある掲示物に懐かしさを覚えながら三階に向かった。男性教員に教わった通り、階段を登って、右に曲がった先に音楽室はあった。


「失礼します」


 ノックをして、引き戸を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に頭の中が真っ白になった。


「…………え?」


 野宮陽夏…………と、音楽教諭?

 私室ではなかったのですっかり油断していた。どうやら、ドアを開けるタイミングが少し早すぎたようだ。

 自分の見間違いか、何か事情があったのか、音楽教師が黒板を背にした野宮陽夏の胸にピタリと抱きついていた……ように見えた。


「すっ、すみません!」


 慌てて扉を閉めようとしたのだが、こんな時に限って、建て付けの悪い扉が引っかかって手間取ってしまう。


「あ、いえいえ。大丈夫です……。な、何でしょうか?」


 慌てて身体を引きはがしたのか、離れた反動で、教師はピアノにぶつかった。「キャッ」と小さな悲鳴をあげながらも体勢を戦え、四苦八苦している俺の元までやってきた。

 教師の方もかなり動揺しているらしく、緩やかにウェーブした髪を何度も掻きあげながら、解けかけた胸元のリボンはそのままに、ぎこちない笑顔をこちらに向ける。


「すみません。ゴキブリが出ちゃって、ビックリして……」


「あ、あはは、そうだったんですね」


 リボンが解けたのもゴキブリのせいなんですね。なるほどなるほど。

 教え子さんは、ゴキブリがうじゃうじゃいそうな汚部屋で生活していて、そういう害虫には耐性ありそうなんですけど、追い詰められたウサギみたいに黒板に張り付いているのもゴキブリのせいなんですね。

 なるほどなるほど。

 全て納得……できるはずがない!


「あ、え…………っと、体育館のピアノなんですけど、追加作業しても良いですか?」


「へ? 追加……あ、追加の作業ですか?」


 教師はスイッチを切り替えたように、キリリと居住まいを正し、笑顔を作った。胸元のリボンはこの際見なかったことにする。


「はい。ハンマーを確認したんですけど、弦跡が深いので、ファイリングを……あ、えーっと、ハンマーのフェルトを削って平にする作業を行いたいのですが……」


「それは費用が掛かるんですか?」


「はい」


 具体的な金額を伝えてみたが、限られた予算の枠があるのだろう。教師の反応は芳しくない。

 年数回しか活躍しないピアノにどれだけ税金をつぎ込むのか、と問われるとこちらも何も言えない。一本唸りは改修できたことだし、あとは定期調律の範囲で作業するか……

と、諦めかけた時、


「え? もちろんやるでしょ」


 思わぬところから援軍がやってきた。

 左袖に校章の刺繍が入ったカッターシャツを着た野宮陽夏がとことこ歩いてくる。


「やるよね?」


 教師の顔を覗き込みながら、もう一度訊ねる。


「あんな酷い音なのに、放置とかあり得ないから」


 ピアノの弦を切って放置している男とは思えない発言だ。


「でも前任の先生も何もしてないし……」


「いやいやいや、じゃ何で調律頼んだわけ? いい店知らないかって、わざわざ俺に聞いてきたわけ?」


「ええー……だってぇ、それは…………」


 教師はもじもじしながら、意味ありげに陽夏を上目遣いで見る。

 何だこれ?

 俺は何を見せられているんだ?

 非常識人間野宮 陽夏だからと思ってスルーするところだったが、よくよく考えてみれば教師に対してタメ口はおかしいし、どうやら生徒の推薦でウチの店を選んだらしい経緯にも違和感がある。

 こいつらデキてるのか?


「あの……」


 結局どうします?


「野宮君がそこまで言うならやっちゃおうかな」


 フフフと笑って女教師が陽夏を見る。

 絶妙な角度で上がった口角にピンクのグロスが光る。意味深な視線を陽夏がどう受け止めたのかは知らないが、


「だって。よろしくね」


 陽夏はそう言って、ガシッと俺の肩に手を置いてきた。

 どうでもいいけど、どっちかっつーと、お前の家のピアノの方が先だからな。

 もちろんそんな本心はおくびにも出さなかったが、昨日、犯罪者呼ばわりされた恨みが消えたわけではなかった。

 さりげなく陽夏の手を叩き落として、


「わかりました……では、今から休憩行って、午後から作業に取り掛かります。後で確認書を持ってきますのでサインをお願いします」


 あとはご自由にどうぞ。

 失礼します、と頭を下げようと思ったら、


「じゃ、俺も一緒に行く。丁度良かった。一緒にご飯食べよう。ね! タカツキさん!」

 

 陽夏が俺の腕を握ってきた。ぎゅっと掴まれた腕に更に力が籠り、笑顔を浮かべた陽夏の顔は、淡い色合いのふわふわした雰囲気とは裏腹に鬼気迫るものがあった。その目が必死に何かを訴えようとしている。


「ちょっと、のみやく…………」


 眉をハの字に顰めて縋るように擦り近寄ってくる教師を避けるように、陽夏は俺の手を引っ張った。


「焼きそばでいい? 近くにおすすめの店があるんだ。はやく行こう」


 グイグイ引っ張られながら、階段を降りて二階の踊り場までやってきたところで、陽夏はようやく手を離した。


「はぁー……助かった」


「何だよ、これ?」


 どういうことか説明しろ。

 今日の調律は、運動部の遠征と、他の教師の研修が重なる日というので決まった日程だ。青春真っ只中の学生たちには申し訳ないが、運動部の元気な掛け声は調律の現場では邪魔になる。ただでさえ、セミの声にも悩まされる季節なのだ。

 人が出払った、まさに今日がうってつけの日なのだが、まさかそれを良いことに校内で不純異性交遊が行われているなんて考えもしなかった。


「や、あの先生ちょっと変なんだよ」


「その割には随分仲良さそうだったけど? ってゆーか、お前夏休みじゃないのか? 何で学校にいるんだよ?」


 そこまで言って、ハタと気づいた。

 あの先生の、コンパでもあるのかと問いたくなるような教師らしからぬブリブリの格好。


「……デートか?」


「ちーがーうー! 色々あるんだよ」


「はぁ………………」


 教師と生徒が付き合うなんて小説か漫画の中だけのことだと思っていたが、まさかこんな近場で……しかも、相手が中学生がなんて世も末だ。


「もぉー! タカツキさんっ!」


「調子のいい時だけさん付けするな」


 昨日は不審者呼ばわりしていたくせに。


「じゃ、これからは創平って呼ぶね」


 いや。それもどうなんだ?


「あーあ。ピアノの練習したいだけなのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ」


「だから張替えするって言ったんだろ」


 すぐに音が下がるのは仕方ない。でも、最低限、応急処置だけしていればピアノは弾けるわけで、練習のために陽夏がわざわざ学校に来ることはなのだ。

 弦は切れる時には切れてしまうので仕方ないが、それを除けば九十九パーセント自業自得じゃないか。


「だって…………」


「近藤さん明日も出張だぞ」


 俺の言葉に陽夏は押し黙ってしまった。


「まぁ、でもピアノ弾きたいなら学校に来ればいいんだもんな? 良かったな、何でも言うこと聞いてくれるカノジョがいて」


 これまでの意趣返しも込めてそう言うと、陽夏は心底嫌そうに眉を顰めた。


「だから、それ違うんだってば! CDが聞けなくてさ……音楽室の」


「CD?」


「そうだよ。あの先生来たばっかで全然馴染めてないし、そもそも音楽の授業なんて休憩時間ぐらいにしか思ってない連中ばっかだし、CDの音が出ないってギャーギャーうるさかったから、俺が代わりにピアノ弾いたの!」


 主語がはっきりしない、たどたどしい説明ではあるが概要はなんとなくわかった。

あの教師は今年この学校にやってきた新任で、授業中CDが壊れて騒ぎになったところを陽夏がピアノを弾いて助けた、ということなのだろう。


「そのあと、先生から呼び出されて、ついて行ったら音楽準備室で…………」


 つまり、助け舟を出した陽夏自体に女教師が興味示し、そういう関係へ発展したということか?

 まぁ、陽夏ぐらいの顔をしていれば目を付けられることもあるだろう。顔立ちがはっきりしていて金と茶が混ざったような印象的な色の瞳もクリックリしている。瞳と同色の髪は美容院で整えられたようにウェーブがかかっていて、白い肌にもよく似合っていた。

 以前の調律の際、外国語を喋っていたし、きっと純粋な日本人ではないのだろう。

 背は俺より低いので、恐らく160センチ後半。しかし、まだまだ伸びしろのある中学生。青田刈りには格好の人材かもしれない。


「で? ヤったのか?」


 状況的に、女教師が陽夏に感謝していることは理解できるが、一線を越えるかどうかは、職業云々以前に大人として何としても自制しなければならない部分ではないのだろうか?


「しょうがないじゃん! わけわからないうちに押し倒されて。上に乗っかってこられたんだもん」


「嫌なら断れ。未成年に手出してる時点で、あの先生懲戒免職だろ」


「チョーカイ……?」


「懲戒免職。クビってこと! どんな理由だろうと、そうなった以上成人の方が悪いんだよ。男か女かじゃなくて、判断能力がどれだけあるかって話なんだから」


「え? そうなの? 一応断ったけど、殴るわけにもいかないし、色々されてたら……男だから……ほら、創平もわかるでしょ?」


「……………」


 何だかんだ言いながら、自分もそれに甘んじてるんじゃないか。とはいえ、生徒に手を出すなんてあの教員は完全アウトだ。実名報道されるレベルだし、懲戒免職は免れない。


「困ってるなら教育委員会に言うなり、担任に相談するなりしろ。未成年に手を出してる時点で先生は言い訳の余地もないからな。お前が言えないなら、俺が密告してやってもいいけど?」


「えー……そんなことしたら内申書が……」


「内申書? 五教科じゃないなら影響ないだろ」


「音高行くなら相談に乗るって……」


 呆れた。


「……お前音高志望なの?」


「まだ決めてないけど、それもアリかなって……」


「お前はバカか。実力で行けないならやめとけ。入っても苦労するだけだぞ」


「うーん……そこは多分大丈夫だと思うんだけど……」


 人の忠告を何だと思っているのか。話にならない。陽夏は俺の言葉など気にする様子もなく、スタスタと階段を下りた。東西に延びた廊下の窓から、職員用の駐車場と、柔剣道場と思われる建物が見える。


「ねぇ、正門で待っててよすぐ行くから」


来客用の入り口までやってきた時、陽夏が声をかけてきた。


「何で?」


「ご飯。一緒に行くでしょ? 俺の靴あっちだから」


 右に曲がった廊下の先を親指で示しながら言う。

 あれは女教師から逃げるための出まかせじゃなかったのか。

 陽夏と一緒に食事というのも余計に疲れそうだが、食事ができる場所を探すのも何だか面倒臭い。


「……分かった」


 頷くと、陽夏は小走りで生徒用昇降口の方に向かう。黒板に背中を押し付けられた時についたのだろう。シャツに何色とも判別出来ないチョークの粉がついていた。


 それにしても、シュタイングレーバーが不憫すぎる。あんなに素晴らしいピアノを、世界屈指の調律師が面倒を見ているのに、その理由が、音高狙いで内申書の優遇を受けるためだなんて……完全に宝の持ち腐れだ。

 とっとと売り払って然るべき人の手に渡った方がピアノだって幸せなんじゃ……


「あのさ」


「ん?」


 俺が声を掛けると、まだ何かあるの? と不思議そうな顔で陽夏が振り向いた。


「何弾いたんだ?」


「え?」


「その、音楽の授業で」


「ああ……シューベルト」


「シューベルト? 子守唄でも弾いたのか?」


 内心小馬鹿にした俺の言葉を冗談と受け止めたのか、陽夏はクスっと笑って何でもないことのように言った。


「違う。魔王だよ」

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