第7話 父の形見

 魔王は1815年、フランツ・シューベルトがゲーテの詩を元に作りあげた歌曲だ。

 熱にうなされる子供と、子供を助けようと馬を走らせる父親。そして、子供を連れ去ろうとする魔王との駆け引きが描かれている。

 シューベルトが作ったのは歌曲で、通常はピアノ伴奏による独唱の形をとるのだが、フランツ・リストがそれをピアノ用に編曲した。

 独唱版とは違い、ピアノ版はオクターブの高速連打に、広範囲に渡るアルペジオと難易度はすこぶる高い。中学生が笑いながら「弾いた」と言えるような曲ではなかった。


 陽夏と女教師の馴れ初めは今年の五月、音楽の授業に遡る。

 授業で魔王を取り上げた際、CDデッキが壊れて音楽がかからず、調子に乗った一部の生徒が声楽科出身の教師にアカペラで歌うよう要求したのだ。歌えないと教師が答えると、騒ぎは更に大きくなった。『お父さん、お父さん』というあの有名なフレーズを真似して歌う生徒も出てきて教室がお祭り状態になった時、陽夏がキレた。


――声楽出身だからって、準備なしでどんな歌でもホイホイ歌えるわけないだろ。ド素人がギャーギャーピーピー煩せぇんだよ!――


――そんなに聴きたいなら、俺がピアノ弾いてやるから、黙って座ってろ!――


 陽夏の話に、頭が混乱していた。


「…………で、どうなったわけ?」


「授業はできたけど、俺はハブられた……主に男子から」


 ま、仲良い友達いるわけじゃないからどうでもいいんだけどさ、と言って陽夏は皿に残った焼きそばを集めて口に運ぶ。

 その日の放課後、陽夏は音楽教師から呼び出され、あれよあれよという間に関係を結んでしまったらしい。しかも、壊れたCDというのもただレンズにゴミがついていただけで、用務員がエアダスターで掃除をしたら秒で直ったそうだ。


 陽夏に連れられてやってきたのは、中学校の最寄りバス停付近にあるスーパーだった。店の中には肉屋があり、そこに焼きそば屋が併設されていた。四人掛けのテーブルが一つと、二人掛けの席が3つという狭さながら、じっくりと麺を焼いた焼きそばは、独特のパリパリ感があって、一味違う物だった。確かに、陽夏が推すだけのことはある。

 部活があるとすぐに席が埋まってしまうという話だったが、その運動部も今日は遠征に出払っているので、俺たちは店内でゆっくり食事を摂ることができた。


「ハブられてるのは昔からなんだよ。俺一年ダブりだし」


「ダブり? 中学校でそんなことあるのか?」


「ううん。ダブったのは小学校の時。日本語全然分からなくて…………てかさ、ひらがな、カタカナ、漢字、でもってわけわかんない和製何ちゃらも入ってくるじゃん。日本語って。難しすぎるよ」


 すっかり食事を平らげ、コップの中の水まで飲み干して陽夏は両手を合わせた。


「お前帰国子女なの?」


 日本語への不満をつらつらと並べる陽夏に訊ねる。

 あの時叫んでいた言葉といい、ふわふわした茶色の頭も、スラリとした体格や顔立ちも単純な『個人差』で済むようなレベルではないと思ってはいたが……。

 

「そうだよ。ドイツで生まれて、こっちに来たのは十歳の時。祖母ちゃんがドイツ人」


 やはりそうなのか。ドイツ出身ということであれば、シュタイングレーバーを所有していたことも納得できる。きっと日本で買ったのではなく、ドイツで購入したものをそのまま日本に持ち込んだのだ。

 ピアノをやっているというのも、ただのはったりではないらしく、陽夏の手をじっくり観察してみると、爪はしっかり手入れているし、小指や親指の付け根の筋肉も発達していた。音楽室で腕を掴まれた感触やら何やらを思い出してみても、ハンドスパンがかなり大きいことは間違いなかった。


 当然ながら一オクターブは余裕。

 ……本当に弾けるのだろうか。魔王を。


 グルグルとこれまでの出来事が頭を駆け巡る。

 調律師拒否に続く、弦の張替え拒否。ピアノ愛なんてこれっぽっちもないのかと思っていたら、学校ピアノの不調に気づいて音楽教師に直談判。音高進学を有利にするため教師に媚びているのかと思うと、何でもないことのように魔王を弾いたと言う。

 支離滅裂にもほどがある。

 一体どれが本当の野宮陽夏なのだろう。


「ねぇ、体育館のピアノってあとどれぐらいかかるの?」


 陽夏に問いかけられ、俺は店内の隅っこにあるテレビに視線をやる。一昔前の漫画が並ぶ三段ボックスの上、ワイドショーが流れるテレビで時刻を確認しようとしたら、丁度画面が切り替わってしまった。

 画面右上の時刻は消え、代わりに今月から始まったドラマのCMが流れ始めた。ピアノを弾く青年が映し出され、そこに被せるように『走り出した想い。美しいユニゾンが、今響く』というモノローグが重なる。

 CMはまだ続きそうなので、俺はポケットからスマホを取り出した。


「まぁ……二時間ぐらいかな」


 どんなに遅くても二時過ぎには仕上がるはずだ。


「じゃ、終わったら電話してよ。俺、音楽室で練習してるから」


 陽夏が色褪せたテーブルクロスの上に手の平に収まるほど小さな端末を差し出した。


「…………キッズ携帯?」


 嘘だろ……? ってか、中学生でもキッズ携帯使えるのか?? それとも、あの制度は実年齢ではなくて精神年齢で判定されているのだろうか。


「ああ、ウチ母さんの借金で超貧乏なの。もー、ヤバイぐらい借金あって、マジでパンの耳とか食ってた時期あってさ。携帯なんてとりあえず電話が使えればそれでいいし」


 驚きのあまり、声を出せずに固まってしまった俺に、陽夏は深刻な家庭環境をあっけらかんと打ち明ける。

 借金があるのに、ピアノのメンテナンスにお金をかけてくれていたという事か? しかも、年二回?

 混沌と非常識を寄せ集めたような家庭ではあるが、その点については少しだけ見直した。


「てか、こういうのいまいち使い方がわからないんだよね。これどうやって電話番号登録するの?」


 今時この手の電子機器を使いこなせない中学生なんて致命的だ。SNSに頼らず、主な通信手段が電話だなんて、これでは陽夏に興味を持っている子がいてもおいそれと繋がることも出来ないだろう。

 陽夏は音楽教師を助けたことでクラスの男子にハブられたと言っているが、単純に陽夏が宇宙人過ぎて皆どう接していいか分からないだけではないのだろうか。そんな気がする。


「貸して」


 陽夏からキッズ携帯を受け取り、会社用携帯の番号を押す。そこから新規の電話帳を作成し、大橋楽器店 高槻と名前を打ち込んで陽夏に返却した。


「ねぇねぇ、この後アメリカンドッグ食べようよ」


「今飯食ったばっかだろ」


「ここのアメリカンドッグめちゃくちゃ美味いんだよ。秘伝のタレ使ってんの」


 そう言いながら、陽夏は肉が並ぶショーケースの端っこに積まれたアメリカンドッグを指差した。焼肉でもあるまいし、秘伝のタレって何だよ。とは思ったものの、少しだけ物足りなさを感じていた俺は、アメリカンドッグを二つ注文し、陽夏の焼きそば代もまとめてショーケースの向こうにいる主人に精算を依頼した。


「え、いいの? 俺、母ちゃんから昼飯代貰ってるよ?」


「いいよ。自分の小遣いにしろよ」


 自分もそんなに給料が高いわけではないが、社会人の端くれである。貧乏中学生に割り勘を提案するなんて、そんな恥ずかしいことができるわけない。しかも、たった今陽夏の口から母親が借金をしていることと、キッズ携帯を持ち続けている理由を聞いたばかりなのだ。


***


 帰り道、少し打ち解けた陽夏と炎天下を歩きながら、出来たてのアメリカンドッグをかじっていた。まんま、自分も学生になってしまった気分だ。


「それにしても、ピアノのメンテナンス大変だろうに、理解があるよな、マホさん」


 非常識を具現化したような人ではあるが、借金を抱えながらもピアノのメンテナンスを怠らない姿勢は見上げたものである。それだけ子供に対しても音楽に対しても理解と愛情があるということだ。

 ピアノを放置してして生徒を食い物にしている音楽教師に比べたら、マホさんの非常識など可愛いものである。


「あのピアノ父ちゃんの形見なんだって」


 秘伝のソースをべったりと纏ったアメリカンドッグを咀嚼しながら陽夏が言った。

 ズドンと更なる重みが心にのしかかった。

 そうか野宮家は母子家庭だったのか……。

 別に片親でも悲壮感や負い目を感じる必要はないとは思うが、前触れもなくそんなことを打ち明けられたこちらは咄嗟の返答に困ってしまう。

 深刻な顔で受け止めれば良いのか、へー、そうなんだと他人事のように受け流すべきなのか……。


「父ちゃん、すっごい必死になってあのピアノ見つけくれたんだって」


「そうだったのか……。あれ、本当にいいピアノだよ」


「まぁ、父ちゃんもピアノ弾いてたし……って言っても、もう二度と会えないけど……」


 そこで初めて、陽夏の表情に翳りが浮かんだ。これまでの陽夏からは想像もできなかった一面に、見てはいけないものを見てしまったような気がして、俺は顔を伏せた。

 頬張ったアメリカンドッグからツンとソースの匂いがする。


 頭でっかちのアメリカンドッグは、ベージュ色の微妙な色合いのソースが全面についていた。陽夏が言う秘伝のソースは、ケチャップとマヨネーズにソースを混ぜたものらしかった。税別120円のいかにも中学生が好きそうなスナックフードだ。

 たったこれだけのことなのに、目を輝かせて喜んでいた先ほどの陽夏を思い出す。

 こいつも悪い奴じゃないんだよなぁ……。

 きっと、音楽教師に学校ピアノの調律を訴えたのも、陽夏の本心からなのだろう。家のピアノがああだから、学校ピアノの酷さが我慢出来なかったのだ。


 数々の非礼も蛮行もその理由を知ってしまうと、何だか憎み切れなくなってくる。

 たった一度きりではあったが、俺は調律師としてあのピアノに触れたのだ。趣味でちょっと弾いていますというようなピアノには見えなかった。魔王を弾いたというのもきっと嘘ではないのだろう。

 陽夏の父親はどんな気持ちであのピアノを見つけてきたのだろう。二人を残して旅立ったことはさぞかし無念だったに違いない。


「俺がこんな調子だから、母ちゃんに『モトガトレナイ』って良く言われるもん」


 思わず、何もない場所で転びそうになった。


「元が取れない? それを言うなら、バチが当たるだろ?」


「え? そうなの?」


「そうだろ」


 いくら何でも、亡くなった父親の形見に対して『元が取れない』はない。

 言葉が分からず留年しただけあって、陽夏の日本語はまだまだおかしな部分が沢山ある。


「本当、日本語難しいよね。古文とかマジでわかんないし。何あのガイコク語」


「はは。でも何年かでここまで使いこなせてるんだから、すごいよお前」


 笑って、最後の一口を食べると、陽夏が手を差し出した。


「ゴミ。俺が捨てるから」


 じゃぁ、とアメリカンドッグが入っていた袋に串を入れて陽夏に渡すと、殊勝にも「今日はごちそう様でした」というお礼の言葉が返ってきた。

 ちゃんと礼も言える子なのだ。


「美味かったでしょ? 秘伝のソース」


「秘伝のソースって言うか……。要するに、ソースとケチャップとマヨネーズを混ぜればいいんだろ?」


 品物が出来るまでの工程を店の前で見ていたが、揚げたてのアメリカンドッグをソースが入った缶にドボンと漬けて、袋に突っ込むという豪快なものだった。

 しかし、インスタ映えもカロリーも一切気にしない姿勢に好感が持てた。

 間違いなく、この学校を卒業した人間であれば『思い出の味』になること必至の一品だ。

 そういえば、自分も学生時代によく買い食いしていたなぁ……と地元で食べていたスナックフードを思い出していたら、驚いた様子でこちらをみている陽夏と目が合った。

 

「……そんなことわかるの?」


 訝しむように訊ねてくる。


「ん?」


「ケチャップとマヨネーズと……」


「ああ、ソースのことか……いや、てゆーか、見た目と味からしてもそのままだろ」


 風変りではあるが、秘伝というほどでもない気がする。


「え? ひょっとして、創平って、料理作れたりする人?」


「まぁ……学生時代から自炊はしてるけど……」


「アメリカンドッグ作れるの?」


「あれぐらい、ホットケーキミックス使えば誰でも作れるよ」


「マジで!? 母さんここでしか食えないって言ってたのに!?」


 茶色の瞳が驚きに見開かれる。

 そんなに驚かれたことに、逆にこちらが驚いてしまう。


「それ、マホさんに担がれてるぞ。作るの面倒だからそう言ってるだけだろ」


 笑って否定する俺に、陽夏は真顔でブンブンと首を振る。


「あの人料理ド下手だもん。家でも年何回かしか作らないし、作ったら作ったで大惨事になるから、俺も作って欲しいとか思わないし」


「大惨事って……」


 しかし、あの台所を思い出すと、陽夏の言葉には信ぴょう性があった。

 これは俺の予測だが、あの家にはハウスキーパーが存在しない。陽夏でもマホさんでもどちらかが片づけをしていれば、あんな台所にはならないはずだ。そして、人間が生きて行く中でもっとも身近であるはずの台所があの状態ということは、他の生活空間も似たり寄ったりということではないのだろうか。断言はできないが、何となくそんな気がする。


「母さんがまともに作れるのって、トーストぐらいだよ」


 いや、それは料理とは言わない。パンを入れて時間を設定するだけだ。


「ねぇ、今度作ってよ」


「は?」


「弦の張替えやるんでしょ?」


「それは近藤さんが……」


「うん。だから、創平も一緒に来ればいいじゃん」


「…………」


 何か変な方向に話が進んでいるぞ。第一、俺は調律師であって、調理師ではない。


「調律の予定入っているから無理」


「何件回るの? 一日中無理なの? 夕方からでも?」


 矢次早に質問されて言葉に詰まった。

 調律の予定は午後に一件だけ。移動時間を含めても、夕方には余裕で野宮家を訪問できる。本業であれば多少時間がずれ込んでも断ることはないが、アメリカンドッグを作るためとなると話は別だ。


「近藤さんが許すわけないし……」


「わかった。じゃ、今から電話する」


 言うが早いか、陽夏は携帯電話を取り出し、慣れた手つきでボタンを押した。近藤さんの携帯電話は既に登録されているのだろう。時間帯も丁度良かったのか、すぐに電話は繋がった。


「創平が納得すればOKだって」


 嘘だろ……。近藤さんまで、俺を調理師にしたいのか。


「興味あるって言ってたよ。近藤さんも食べたいんだって」


 全く予期しなかった回答に密かにショックを受けていた俺に、彼の問題児はあっけらかんと笑って両手を上げる。


「明後日だからね。ちゃんと予定書いといてよ」


「ちょっと待て!」


 近藤さんの了解も取り付けてしまった以上、同行しないわけにはいかない。しかし、調理師としての要請をこのまま承諾してしまうのも癪だった。


「アメリカンドッグは作ってやるから、お前のピアノ聴かせろよ」


「え?」


 授業で魔王を弾いたなんて話を聞いて、興味が沸かないわけがない。近藤さんは当然、陽夏の演奏を聴いているだろう――であるからこその訳アリなのか、ただのクレーマーなのか、演奏を聴けば一発でわかる。


「えぇーー…………」


「食いたくないならそれでいい」


「ちょっと待って! ずるい!」


「ずるくない。今までお前にされたこと考えたら、これでもお釣りが来るぐらいだぞ」


 どうする? と訊ねると、陽夏は心底面倒くさそうに、深いため息を吐いた。それでも食べ物への執着は捨てきれない様子で、不貞腐れながらも最終的には顔を上げる。


「何聴きたいの?」


「お前が弾きたい曲でいいよ」


「じゃ、エリーゼのために……」


「却下。魔王弾けるんだろ? 適当に済ませたら許さないからな」

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