第8話 A flat major, op 110
陽夏との約束を取り付けた後、俺は体育館に戻って作業を再開した。午後になって気温はますます高くなり、ハンマーを削って出てきたゴミが手にくっついて不快で仕方がない。
それでも丁寧に、弦の接触面の凹凸がなくなるよう、確認しながらヤスリをかけていく。
全ての作業が完了し、約束通り電話をすると、五分もしないうちに体育館のドアが開いて陽夏が現れた。
「あつぅぅぅ! 暑過ぎるっっっ!」
服の裾をバタバタさせながら文句を言って、陽夏はこちらに向かって歩きながらボタンを外し始めた。我慢の限界だと言うように途中でカッターシャツを脱ぎ捨てて、速度を落とすこともなく、大股でこちらへ近づいて来る。
男同士だと思って安心しきっているのか、突拍子もない中学生の行動に焦ったのは俺の方だった。
「何やってんだよ……!?」
「無理。この暑さ、死ぬっっ!」
ガタガタと椅子を引き寄せ、高さを調節しながら陽夏がこちらを見る。
「よくこんなところで作業してたね。熱中症とか大丈夫?」
ノースリーブのアンダーシャツを引っ張って汗を拭いた陽夏の腹筋がチラリと覗く。服の上からは分からなかったが、意外にもしっかりした筋肉がついていた。指先だけではなく、楽器を演奏するためのトレーニングを他にもやっているのかもしれない。
「え? ひょっとしてもうヤバイ? 水買って来ようか?」
ぼうっとしていたら、柄にもなく心配してくれたらしい陽夏が顔を覗き込んできた。
その近さに思わず顎を引く。
今後の成長を見越してか、陽夏はワンサイズ大きな肌着を着ていた。前屈みになったVネックの襟ぐりから鎖骨が顕になって、慌てて視線を逸らす。
同性なら意識しないであろう何気ない場面に、一々引っ掛かってしまう自分が嫌になる。
「大丈夫。水なら持ってる」
道具を片付けながら背を向けると、俺の動揺には全く気付いた様子もなく、陽夏は椅子に座って確認を始めた。
「創平はまだ仕事残ってるんだよね?」
「次は音楽室だな」
何となくホッとして、俺はピアノの音が良く聞こえる場所まで移動することにした。
途中、陽夏が脱ぎ捨てたシャツがあったので、ついでに拾い上げる。
また歩き出そうとしたら、背後でジャンジャンと鳴っていたピアノがピタと止まった。
「どうかした?」
ピアノに何か問題でもあったのだろうか?
気になって声を掛けると、陽夏は神妙な顔でピアノを見つめていた。
「……曲、途中からでもいいんでしょ?」
陽夏が、静かな声で……遠目ではあったが、今まで一度も見たことのない真剣な表情で俺を見た。
「それは構わないけど……」
一体何を弾くつもりなのだろう。
そう思った瞬間、静かな和音が響いた。
何の前触れもなく、息をするようにごく自然に鳴らされた音に時が止まる。
胸の辺りがギュッとなった。
もう何年も避けてきたのに、初音だけで何の曲のどの楽章か分かってしまった。
先輩の音とは違う……
否、それは今まで聴いてきた、どんな演奏とも全く違うものだった。
空気が重く伸し掛かって、肺と胸を圧迫する。闇の中を手探りで這いずり回るような悲しみと虚しさ。底の見えない絶望、ただそれだけだ。
背中にじっとりと汗が浮かび、心臓が慌ただしく鼓動を刻み始める。
「やめろ」と叫んで、腕にしがみ付いて演奏を止めてしまいたかったのに、陽夏の音がそれを押し留めた。
ピアノにはできる限りのことをした。それに関しては間違いない。しかし、陽夏が奏でる音は調律だとかピアノの性能だけでは到底説明できるものではなかった。
音の粒が揃っている。
和音も限りなく美しい。
そこから生まれるのは、空間さえも塗り替えてしまうほどの色彩と情景を持った野宮陽夏の世界そのものだった。圧倒的なパワーを持って聴衆を引き込み語り掛けてくる。
……何なんだ、これ?
こんな演奏、今まで一度も耳にしたことはない。
世界を一瞬で塗り替えた演奏に引きずられて、過去の記憶がありありと蘇ってくる。
ベートーヴェン。後期のソナタ31番。
西村先輩が、コンクールで弾いた最後の曲。
――これ、あげるよ――
帰りの車の中で、先輩に灰青色の楽譜を渡された。
入賞は果たせなかったものの、先輩は三次審査まで進み爪痕を残した。次のコンクールにも挑戦するのだと、俺は当たり前のように信じていた。
――簡単に言うね――
励ます俺の隣で苦笑した先輩。
あの時、彼は何を考えていたのだろう。
そして、また世界の色が変わる。
ベートーヴェンの曲の中で最も美しいと言われる嘆きの歌。哀愁を漂わせた美しいメロディーの前では、体育館に充満する煩わしいほどの暑さも蝉の喧騒も問題にはならなかった。
陽夏の演奏が容赦なく心に染みこんできて、記憶を浸食する。
きっと、あの時先輩は励ましなど期待していなかったのだ。自分が犯した最大のミスを、悔やまずにはいられない。
『簡単に言うね』
先輩の瞳に浮かんだ軽蔑の色に、当時の俺は気付けなかった。
ほんの僅かなすれ違いは、浜田典子が現れて騒ぎを起こす度に大きくなっていった。
そして、冬を迎える頃、全てが終わった。
――ごめん。別れよう――
先輩は浜田を選び、俺を捨てた。
予感していたこととは言え、どこにも、何にも納得できる説明はなかった。
浜田が俺を排除するためにやってきたことを、西村先輩も知っていたはずなのに。
何故?
そんな疑問と悔しさだけが心に残った。
そして、第三楽章、二十七小節目から始まるフーガ。
音が立体的にならないと、西村先輩も繰り返し練習していた。
何度も、何度も……寝食を忘れる程、自分の音楽に向き合っていたのに、どうして大事な楽譜を俺なんかに渡したのだろう。
浜田と過ごす時間は、そんなに心地よいものだったのだろうか?
次々に引き起こされるトラブルの原因が浜田だと知りながら、それに便乗してまで俺との関係を断ちたかったのだろうか?
――彼女も反省してただろ? 冗談のつもりだったって。もう許してあげなよ――
冗談って何?
あの時、あの場所で言ってやれば良かった。失うものなどなかったはずなのに、一体何に遠慮したのだろう?
ピアノの色が熱を増し、ぼんやりと視界が滲んだ。
希望へと向かう美しい旋律が聞こえる。
力尽きても立ち上がり、ただひたすらに信じて前へ進む。そんな力強さがヒシヒシと伝わってくる。
光が降り注ぐ。
そこに向かって色とりどりの音の粒が昇って行く。喜びも悲しみも絶望すらも巻き込んで、世界を変え、昇華しながら、空へ空へと浮かんでいく。
圧倒的な質量と、眩暈がするほどの美しい音色に、息苦しさを覚えた。
陽夏が見せる景色。
それは、西村先輩が描きたくて、できなかった世界なのかもしれない……俺が求めて、辿り着けなかった場所なのかもしれない。
ダメだ、と思うのに、一度決壊してしまった心を押しとどめることはできなかった。
堪えきれず零れた涙が頬を伝う。
好きだったのに……
無理やり押し込んでいた想いが、四年分の利子をつけたように溢れ出してきた。
耐えきれず、顔を伏せる。
先輩はこちら側の人間ではないと最初から分かっていた。どんな終わり方をしても、一方的に別れを切り出されても、それは当然で仕方のないことだと諦める自分がいた。本心とは裏腹に、どんな不条理があっても自分が異質なのだから仕方がないと、いつももう一人の自分が首を振る。
それなのに、別れてみて初めて気づいた。
失恋の痛みには、こちら側とあちら側の区別はなかった。
男でも女でも、マジョリティでもマイノリティでも同じように傷つくのに、誰かの前で泣くことも、打ち明けることもできない窮屈さが、滑稽な自分の姿を象徴しているようでやり切れなかった。
先輩、今、何してる?
「うっ…………!?」
驚きの声と共に、演奏がプツリと途切れた。
降り注ぐ光の景色が一瞬で消え失せ、放り出されてしまった俺の元に、ゆっくりと蝉の声が戻ってきた。今は夏。そんな当たり前のことすら忘れていた。
「うわぁぁぁ! 何で泣いてんのっ!?」
驚愕の表情で叫んだ陽夏は、バタバタと俺の元に駆け寄って顔を覗き込んできた。勢いが余りすぎて、キスするような近さに思わずのけ反った。
「俺何か悪いことした? 泣くほど酷い演奏だった? ひょっとして俺が調律拒否ったから、会社で怒られてる? 手の怪我、実は痛まだ痛かったりする?」
「いや、ちが…………」
酷く狼狽えた様子で、離れたら離れた分だけグイグイと近づいてくる。
心配そうにこちらを見る瞳に、胸がジクっと痛んだ。
そうだよ。一言ぐらい、先輩にもちゃんと心配して声を掛けてほしかった……こんな風に。
つい先ほどの気持ちがリンクして、またじわっと涙が出てきた。
「わー……ちょっと待って。マジ泣かないで……俺、会社に謝りに行くからさぁ……」
陽夏はますます狼狽えて、自分が脱ぎ捨てたシャツでゴシゴシと俺の涙をぬぐった。シャツからほんのりと柔軟剤の匂いがした。涙も鼻水も一緒くたになったが、本人は気にする様子もない。
「違う……お前の所為じゃない」
そう言って、更に近づいてこようとする陽夏を押し戻した。緩やかにウェーブした茶色の前髪がうっすらと汗に濡れていた。
泣き顔を見られて、ただでさえばつが悪い状況なのに、こんなに心配されたら気まずさが倍増してしまう。
「…………誰に教えてもらったんだ?」
ズズッと鼻を啜って陽夏を見る。
「は? 何を?」
「対位法を理解してないと、フーガなんて弾けないだろ……ってゆーか、あんな演奏今まで一度も聴いたことがない」
フーガは同じメロディーが複数のパート、異なるタイミングで次々に現れる楽曲の形態だ。簡単に言ってしまえば、合唱のアルト、ソプラノ、バスを一台のピアノで演奏するようなものだった。
各パートの意味を理解し、独立させながらそれぞれを組み合わせることで初めて成立する。演奏技術はもちろんだが、そもそも、それぞれのパートを聞き分ける力がなければ、理解もできないし演奏することもできない。
陽夏の演奏はずば抜けていた。
基礎ががっちり固まっていて、ベートーヴェンが何かも熟知している。演奏は独創的であるにもかかわらず破綻しているわけでもない。ちゃんと分かった上で自分の演奏をしているのだ。間違いなくそれは陽夏にしか表現できない陽夏だけの音楽だった。
もはや、音高どころか、音大レベルですらない。ジュニア向けコンクールの上位入賞者の中にも、こんな演奏ができる中学生はいなかった。
一体何なんだ、こいつは?
陽夏の才能に、恐怖と興奮を覚えた。
「マホさんに習ったのか?」
「まさか! 母さんと言えばヴァイオリンじゃん」
知らないの? と陽夏が眉間に皺を寄せる。
「知るわけないだろ。お前の家の常識をこの世の常識レベルで語るな」
陽夏の母は、市内の音楽教室でヴァイオリン講師をやっている。人気の講師という話ではあるが、言っても一音楽教室の講師である。青柳真帆レベルならいざ知らず、○○と言えばというレベルには程遠い存在だ。
つくづく日本語の肌感覚がおかしい中学生だ。こちらが注意しなければ、知らないうちに妙な世界に足を突っ込んでしまうかもしれない。
陽夏は神妙な顔で「そっかぁ……」と頷いて、
「まぁ、いろんな人が来たりしてたから……母さんの友達とか」
音楽教室の同僚ってことか?
確かに、講師であれば音楽理論は理解しているだろうが、それだけであの演奏ができるとは思えない。
「そういうんじゃなくて、師事してた先生がいたんだろ? 家を行き来したり、付ききりでピアノ教えてくれたり」
「あぁ。ピアノの先生ってことなら、ばあちゃんかな。ドイツにいる時」
なるほど。祖母が隣で教えてくれたのか。
祖母ちゃんってことは陽夏の遺伝子の四分の一を授けてくれた人物だろう。
ピアノの屋根を閉じながら考える。
「そのドイツ人のお祖母さんもピアノやっていたのか?」
「うん。学校で先生やってたよ」
なるほど。それで合点がいった。
身内から直接指導を受けていたのなら、時間も気にせず心行くまでレッスンを受けることができただろう。
「ねぇ、調律終わったら一緒に帰ろうよ。創平車でしょう?」
「え?」
近藤さんが陽夏に肩入れしている理由を知ることができたが、そうは言っても非常識中学生の陽夏である。
俺をタクシー替わりに使おうなんて言語道断。
「絶対嫌だ」
「あ、ちょっと、創平!」
「通学定期あるだろ。自力で帰れよ」
俺はキャリーバッグの持ち手を握り、縋ってくる陽夏を振り切った。
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