第9話 俺は調理師ではありません
学校調律から二日後、俺は約束通り近藤さんと共に野宮邸を訪れていた。
「いらっしゃい。高槻君、ようこそ」
玄関先に出てきた女主人は、前回とは打って変わり満面の笑みで俺を招き入れた。前回は名刺を渡してもこれといった反応はなかったのに、調理師としての訪問であれば人並みの対応を受けられるんだなと妙なところで感心してしまう。
「キッチン適当に使っていいから」
ダイエットでもしたのだろうか。軽やかな足取りでピアノ室へと向かう後姿は以前より随分引き締まっていた。彼女がイメージチェンジしたせいか、この家全体もなんだか明るい雰囲気に包まれているようだ――と思ったのは早計だった。
キッチンに一歩足を踏み入れた途端、俺はここがあの野宮邸であることを思い知らされた。以前片付けられていなかった鍋もフライパンもそのまま。埃の厚みが増しただけで、位置はまったく変わってない。救急箱は今しがたまで使われていたかのようにテーブルの上にあったが、おそらくあの時のまま放置されているのだろう。
「…………何故?」
どんなに陽夏の演奏が素晴らしかろうと、彼女がダイエットに励んでいようと、これが野宮家の実情だ。夢を見てはいけない。
このままでは料理どころではないので、まずは片付けから取り掛かる。
食器類は簡単に洗って空っぽの水切りカゴに伏せ、調理器具もざっと洗った後、必要なものだけガスコンロに置いた。他は次回活躍する時まで、流しの下の収納で待機だ……永遠にその時は来ないかもしれないが。テーブルの上の書類はまとめて壁のレターラックに突っ込み、救急箱は部屋の隅っこにあった三段ボックスに置いた。これなら、次にやって来る調律師が噛みつかれてもすぐに手当できるだろう。
続いて冷蔵庫を開けてみる。目も当てられない惨状を思い浮かべていたが、ビールが数本とスーパーの総菜があるだけで、清々しいほど何も入ってなかった。この家の中で整頓出来てる場所ランキングがあったら間違いなく優勝候補だ。まぁ、片付けが出来ているというよりは、片付けるべき物が入ってないだけという話ではあるが。
万一のことも考えて、食材だけではなく調味料一式も買ってきて正解だった。
三十分ほど片付けをした後、俺は調理に取り掛かった……と言っても、魚肉ソーセージを一口大に切って、分量の牛乳で溶いたホットケーキミックスに浸せば下ごしらえは完了である。下ごしらえをしているうちに温めておいた油にミニアメリカンドッグを落とし、アメリカンドッグが揚がるまでの間にソースを作って小皿に入れる。
「お、できてるじゃん。すごーい」
アメリカンドッグがこんがりと色づき、もう少しで完成という時、マホさんがタイミング良く顔を出した。台所に充満した甘い香りを嗅ぎつけてきたらしい。
「食べていい?」
「どうぞ」
「フォーク頂戴」
言われるがまま引き出しのフォークを差し出すと、マホさんはクスっと笑った。
「私より台所に詳しくなってる」
「おかげさまで」
嫌味をたっぷり含んで答えたつもりだがマホさんは意にも介さない。服装に頓着しない性格なのか、何だか微妙なネコの絵がプリントされたTシャツに、何だか微妙な色合いのジャージのズボンを履いている。俺の実家の母親と瓜二つのコーディネートだ。
ボサボサ頭と黒縁眼鏡はそのままに、しかし、顎のラインはスッキリして、目鼻立ちもはっきりしてきたマホさんは、美人の部類に入る顔の造作をしていた。前回は四十後半にも見えたのだが、実年齢は多分もっと若い。四十代前半……いや、三十代後半ぐらいだろうか。
「ピアノの方はどうですか?」
「もう少しかかるみたい」
「まだ終わってないんですか?」
驚いて、思わず二度見してしまった。
だった一音だけの張り替えだ。もうとっくに終わっているのだと思っていた。
「いや、他にもちょこちょこね……」
「えっ……? ひょっとして前回の調律ですか? あの、すみません。俺……」
何か不手際があったのだろうか。
自分では全く気付けなかった。驚いて、マホさんの方を振り返る。
「いいのいいの。気にしないで。大したことないから」
その言葉を証明するように、顔の前でヒラヒラと手を振る。
「最初に紹介された時、随分若い子連れてきたなって思ってたの。秘蔵っ子がいるって言うから期待してたのに、新卒連れてきたのかしら、と思って」
マホさんはクスクス笑いながら俺を見る。
陽夏もよく主語がわからない喋り方をするが、マホさんも似たところがある。どうやら俺の事を言っているらしいが、童顔はともかく、秘蔵っ子って……確かに、ピアノのために調理師まで引き受ける調律師は俺ぐらいなものですよ。
不貞腐れながら、バットに残りのアメリカンドッグをうち上げてガスを止めると、
「あなた、陽夏の学校のピアノ調律したんだって?」
「はい。息子さんから聞いたんですか?」
秘伝のソースを作れる秘蔵っ子がいるよって?
「褒めてたわよ、あなたのこと。ずっと変な音がしてたけど、消えたって」
意外にも、マホさんの口からそんな言葉が飛び出した。調律師未満の調理師だと、バカにしていたわけではなく?
思わずキョトンとして、振り返ると、マホさんは右手で眼鏡を押し上げて、二つ目を口に運んだ。
あいつ、一本唸りのこと気付いていたのか……。
やっぱり耳がいい。
そして、あの問題児が俺の仕事を認めてくれていたとは驚きだった。陽夏が調律師にあんな態度を取るのは父親の形見であるシュタイングレーバーに対する時だけなのだと改めて思う。調律師を片っ端から目の敵にしているわけではなく、きちんと仕事をすれば相応の評価をする用意はあるということだ。
「……息子さん、ピアノ上手ですよね」
「陽夏の演奏聞いた?」
「はい。凄すぎて言葉にならないって言うか……。コンクールには出ないんですか?」
一昨日、改めて家に帰ってから国内の主要コンクールを検索してみたが、野宮陽夏の名前を見つけることはできなかった。あれだけの演奏が出来るなら本選進出くらい余裕だろう。既に国際コンクールに出場しているかもしれないと、そちらも確認してみたが、やはり野宮陽夏の名前はなかった。
「あー……コンクールはね……」
マホさんは何か思うところがあるのか、そう言ったきり口を噤み、やがて、
「それ以前の問題なのよ。あの子グダグダの演奏しかできないし」
グダグダ?
そんな筈は…………
「……お祖母さんが教えたんですよね、ピアノ」
「お祖母さんって言うか、育てのババね」
「育てのババ?」
「血のつながりはないけど、私の代わりに面倒見てくれた人がいたの。音大で教授やってた人。私も随分前からお世話になっててね……」
学校って……音大だったのか。
軽い口調で話をするものだがから、てっきり、小学校とか、せいぜい高校みたいな場所だとばかり思っていた。どうやら俺はまた陽夏ロジックに嵌っていたらしい。
どこの音大かは知らないが、クラシック本場のヨーロッパで、音大教授から直々にレクチャーを受けていたのれあれば、あの演奏も納得できる。
当然と言えば当然か。何の予備知識もない状態であそこまで弾けるはずがない。
「後期のソナタって、ちょっと変わってるなって思ったんです。試し弾きならショパンとか……まぁ、ベートーヴェン弾くにしても小品だろうって思っていたので」
しかも、あの演奏。
何となくで弾いているのとも違う。若さだけに任せた演奏というわけでもなかった。陽夏のベートーヴェンは、独創的でありながら熟考を重ねて作り上げられた裏打ちを感じた。それこそ中学生の所業でなはない。
「ベートーヴェンの後期のソナタ……?」
呟いたマホさんが手を止めた。
「……あの子何弾いたの?」
「31番ですよ。マホさんも聞いたことあるんでしょう?」
「もちろん、あるけど…………」
けど?
マホさんは、右手にフォークを持ったまま固まっている。一口分だけ欠けたアメリカンドッグからポタリとソースが零れた。
「あなたがリクエストしたの?」
「いいえ。料理を作る代わりに試弾を頼んだんです。息子さんの演奏を聞いたことがなかったので」
「じゃ、陽夏はこれと引き換えにピアノソナタを弾いたってこと?」
と、マホさんは皿に盛られたアメリカンドッグを指し示す。
「最終楽章の途中まででしたけどね」
頭から全部を聴いたわけではない。それでも、陽夏の力量は十分すぎるほど理解できた。
「よほど好きだったんじゃないんですか? 店で食べた時もめちゃくちゃ喜んでいましたから」
マホさんは更に難しい顔をして黙り込んでしまった。食べ物に釣られてピアノの演奏なんて、いかにも陽夏らしいと思うが、そんなに不思議なことなのだろうか。
マホさんの様子は気になったものの、アメリカンドッグを皿に盛っている間にピアノ室の方から「こっち終わったよ」と欠食児の催促がかかった。
ピアノ室にアメリカンドッグを持っていくと、陽夏もマホさんも、色んな意味でいつも通りで、二人で奪い合うようにしてペロリと平らげてしまった。以前と違ったのは、食後に陽夏が一曲披露してくれたことと、壁際のキャビネットの上にマホさんのヴァイオリンのケースが置かれていたことぐらいだろうか。
ピアノが復活して腹も膨れたせいか、陽夏は終始ご機嫌でショパンのエチュードを披露してくれた。10の練習曲から2番。難しい曲なのに、ハノンで指慣らしをするかの如くスイスイと弾きこなしてしまう。ベートーヴェンのみならず、こちらも文句のつけようがないほどに上手い。
これがあの狂犬中学生でなければ……或いは野宮陽夏がクラシック界の期待通り品行方正な少年であったら、俺もこんな複雑な気分にはならなかっただろう。何しろ、平常時の破天荒っぷりとピアノを弾いている時のギャップが凄まじ過ぎる。
案の定、試弾を終えた五分後には夕飯のメニューのことでマホさんと口喧嘩を始めた。
もう少し演奏の余韻に浸らせてほしかったのに……。
アメリカンドッグを食べたから夕飯はあっさり素麺でと言うマホさんに、素麺じゃ物足りないと抗議する陽夏。どちらかが折れるか、妥協するか、それぞれ別々の物を食べればいいのにさっきからぐるぐると同じ主張ばかり繰り返している。
食い物のことで必死過ぎないか? この親子。
「だったら、腹に溜まる素麺作ってあげればいいんじゃないですか? 挽肉痛めて担々麺風にするとか、ベーコン混ぜてチャンプルにするとか……ネット調べればいくらでもレシピ出てきますよ」
帰りの準備をしている近藤さんの隣で繰り広げられる、くだらなすぎる喧嘩にため息を吐きながら口出ししたら、二人はピタと喧嘩をやめて俺を見た。
『え!? そんなの作れるの?』
あんなに喧嘩していたくせに、こんな時だけ見事にシンクロする。しかも、ハモる二人の声は綺麗なユニゾンに仕上がっている。
完全に墓穴だったと気付いた時にはもう遅かった。
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