第10話 ピアノ売る前にやることあるだろ!
もうあの親子の前で食べ物の話をするのはやめよう。
固く心に誓いながら迎えた、三度目の訪問。
「君が陽夏君と打ち解けてくれて安心したよ」
弦の張替えから一週間後。メンテナンスとしては妥当な時期だが、俺は再び両手に食材をぶら下げていた。
結局あの日は、素麺は次の調律で高槻君が作ってくれるから、今日はスーパーの惣菜で済ませましょう、という話で決着したらしい。何故最初からそういう方向で話が出来ないのだろう? もはや、嫌がらせのためにあんな喧嘩をしているとしか思えない。
素麺はあるという話だったので、担々麺の具材と足りない調味料を買ってきた。担々麺だけでは、陽夏が文句を言いそうだったので、蒸し鶏のサラダと餃子も添えることにした。
ピアノ部屋よりもキッチンが馴染みの場所になるってどうなんだろう、と思わなくはない。しかし、近藤さんは喜んでくれているし、会社もこの不毛な訪問を黙認してくれているので、仕事の一環と割り切るより他ない。
いつもの駐車場に車を止めて、野宮邸のインターホンを押す。
マホさんは今日も相変わらずな恰好で玄関で俺たちを迎えたのだが……。
「ごめんなさい。今ちょっと陽夏と話してて……とにかく上がって」
険しい表情で俺たちを迎えるマホさんの背後から陽夏の声がする。またドイツ語だ。と思った瞬間、マホさんが振り向いてドイツ語で応戦した。
その剣幕と、あまりにも流暢な発音に俺は一瞬たじろいた。
陽夏に対しては、隠し持った音楽の才能に驚きはしたものの、出会った時の印象自体はそれほど変わってない。しかし、マホさんに関しては出会う度に印象がアップグレードされて、次々に上塗りされている感じがする。ダイエットをして若返っただとか、実はドイツ語を理解して話せる人だったとか……。
陽夏のことに気を取られて失念していたが、彼女も陽夏と一緒にドイツで生活をしていたわけだから、ドイツ語が出来て当たり前なのだ。陽夏にピアノを教えた育てのババに自分も世話になったと言っていたではないか。
……ってことは、マホさんもドイツで音楽をやっていたということか?
その時、心のどこかに何かが引っ掛かった。しかし、その正体を突き止めることは出来ず、二人のドイツ語の応酬に圧倒されながら、俺は玄関の靴を揃えた。
「また献立で揉めているんでしょうか?」
「いや。仕事の話みたいだよ」
そうだ。もう一人。ここにドイツ語を理解できる人がいた。近藤さんも若かりし頃ドイツで調律の修業を積んでいた経歴を持っている。二年ほど前、近藤さんの仕事を見学させてもらった時に、世界的音楽家と通訳なしで話している姿を見たことがあった。
ここでドイツ語が理解できないのは俺だけなのだ。あまりにもハイレベルなバイリンガルっぷりに劣等感を抱くことすらできない。
底辺にいる俺ではあるが、今、この家で何が起こっているのかは気になって仕方がなかった。
「高槻君も荷物を置いたら、ピアノ部屋に来てくれるかい?」
「分かりました」
そんなに深刻な内容なのか?
俺は袋ごと食材を冷蔵庫に突っ込んでピアノ部屋へと急いだ。部屋の中に入ると、嵐のようなやり取りが繰り広げられていた。お互いに手を出すことはなかったが、激しい言葉の応酬は殴り合いの喧嘩をしているようだ。
「あの……」
二人は何を喋っているのだろう?
隣の近藤さんをそっと窺う。
「陽夏君が演奏の依頼を断ろうとしている」
演奏依頼?
……マホさんの音楽教室で発表会でもあるのか? それにしては、喧嘩が派手過ぎるし、成り行きを見守っている近藤さんの険しい表情も気になる。
ひとしきり言い合いが続いた後、マホさんは深いため息を吐いた。
「中学卒業したらどうするつもりなのよ? これ以上、あんたの遊びに付き合ってる時間はないの。栗原君も福尾さんもあんたのために一肌脱ごうって言ってくれてるんだからね」
「そんなこと言って、毎度毎度騙してんの、そっちじゃん! どうせまた何か企んでるんでしょ?」
「はっ。不良債権のあんたにそんな口叩ける権利あると思ってんの?」
マホさんは母親とは思えない辛辣な言葉を吐いた。
「香奈子さんがどれだけ頑張ってくれたか、知らないわけじゃないわよね? あんた以外はもう全部準備が整ってるの。この道で生きてく気がないなら、すっぱりピアノを諦めなさい」
マホさんの迫力に気圧されたのか、陽夏は何も言えずに黙り込んでしまった。
知らない名前が次々に出てくる。詳しい事情は分からないが、以前、マホさんが言っていたグダグダの演奏という話にも関係があるのかもしれない。
「高校行けばいいんだろ? 青城なら寮に入らなくてもここから通えるし」
「はぁ? 青城?」
マホさんが失笑する。
「話にならないわね……」
地球の反対側まで届きそうなため息を一つ吐いて、マホさんは、俺たちの方を見た。
その目に、すっと冷たい感情が走った。
「近藤さん、ピアノの査定して頂戴」
「えっ!?」
「だめっっ!!」
驚愕する俺の声に被さるように、陽夏が叫ぶ。
しかし、マホさんはそんな陽夏に冷たい視線を送り、
「音高くんだりで三年間もフラフラされるぐらいなら、ピアノ売ったお金を学費に充ててあげるわよ。ピアノなら学校にあるでしょ。青城でもどこでも好きなとこ行って、好きなだけ好きなように弾いたらいいわ」
あろうことか、マホさんはあの素晴らしいピアノを……シュタイングレーバーを売ろうとしている。父親との思い出のピアノを売るなんて、そんなこと許されるはずがない!
当然、陽夏は抗議するだろうと思った。
日本語でもドイツ語でも何だって構わない。とにかく抗議してこの暴挙を止めて、何としてでもピアノを死守しなければ……!
しかし、悲痛な様子で眉を寄せる陽夏は、反論することなく顔を伏せた。
マジか?
こいつ、諦めるつもりなのか……?
ピアノを? 音楽を!?
「近藤さんっ!!」
昔から二人と親交のある近藤さんなら何とかしてくれるのでは、と一縷の望みをかけて視線を送るが、あろうことか頼みの上司もこれ以上何も言えないというように首を振った。
あり得ない。
こんなこと、許されていいはずない!!
どうしてこんなに簡単にピアノを諦めるのだ!?
陽夏も……先輩も…………!
ふつふつと怒りが沸いてきた。最低限の礼儀だとか、自分の立場だとか……そんな言葉がほんの一瞬だけ頭を過った気がしたが、メラメラと燃え上がる感情の前では、一ミリの抑制力にもならなかった。
「ちょっと待ってください……!」
言い放った俺に、全員の視線が集まる。
「ピアノの査定なんて絶対にしませんよ!! 少し落ち着いて考え直してください!」
「高槻君…………」
近藤さんが狼狽えた様子で俺を引き留めようとしたが、俺はその手を振り払ってマホさんの前に出た。
「部外者が口を出さないで」
マホさんが剣呑な光を帯びた目で俺を睨む。
気のせいか、その鋭い眼光を以前にも見たことがあるような気がした。
背中がゾクリとして一瞬、怯みそうになったが、気合を入れて足を踏ん張る。
それもこれも、亡くなった父親のため……そして、何より陽夏のためだ。
「確かに、俺は部外者ですけど、このままピアノが売られて行くのを黙って見過ごすわけにはいきません! 息子さんにはあのピアノが必要なんです! 貴方だって分かっているはずです。これだけ弾けるのに、今更音高行って何するんだって気持ちはわかりますけど、陽夏は陽夏なりに考えて結論出そうとしているんです! もう少し静かに見守ることはできないんですか?」
「あのさ……そうへ……」
陽夏がスーツの裾を引っ張って止めようとしていたが、俺はその手を振り切って、マホさんの前に立ちはだかった。背後のピアノと陽夏をマホさんから守るような構図だ。
「お金の問題があるっていうのは分かります! でも、ずっとピアノのメンテナンス続けて……大事にしてきたのはこの子のためなんじゃないですか!? このピアノ、亡くなったご主人の形見なんですよね? こんな形で手放してしまっていいんですか……!? 本当に後悔しないんですか!?」
「……形見?」
マホさんが消えそうな声で呟いた。
家庭の事情を陽夏が赤の他人に話をしていたことが気にいらなかったのだろう。眉間に皺を寄せて不快感を示し、俺の肩越しに陽夏を睨んだ。
「あーっと、だから……えーっと…………ソーヘーサン……」
陽夏は途端に落ち着きを失い、愛想笑いと共に俺たちの間に割って入った。
「いいから、お前は黙ってろ」
俺は、陽夏の身体を押しのけ、難しい顔をしたマホさんと再び対峙した。
今度こそ出禁確定だろう。
それでもここで誰かが抗議しなければ、陽夏はピアノを失い、ピアノを託した父親の想いも消えてしまう。
そんなこと許せるはずがなかった。
てゆーか……
「そもそも借金作ったの、マホさんですよね?」
以前見た時と同じ場所に鎮座するヴァイオリンケース。
ピアノが査定の危機に瀕しているのに、キャビネットの上で、他人事のように悠然とこの争い見ている姿に腹が立つ。楽器に罪はないが、当たり前のようにこの問題の外側に置かれているのは間違っている。
野宮家の問題だと言うのであれば、あのヴァイオリンだって当事者だ。
「子供がこんなに大事にしているのに……。形見のピアノ売る前に、あなたのヴァイオリン売ればいいじゃないですか!」
ヴァイオリンを指さして言ってやった。
失礼は百も承知だ。
もし俺が、あの時陽夏のピアノを聴いていなければ……きっとここまで言うことはなかった。でも、俺はもう野宮陽夏の音楽を知ってしまった。他の誰にも奏でることができない音楽が陽夏の中にはしっかりと根付いている。
言いたいことは全て言い尽くした。出禁でも、土下座要求でも、会社に抗議でも何でもすればいい。このピアノを守れるなら――陽夏の音楽を守れるのなら、どんな処罰を受けようと、俺の中には一抹の後悔もない。
しかし……マホさんと近藤さんのお叱りの言葉は、十秒経っても訪れることはなかった。
何かがおかしい。
……気のせいか……部屋に薄ら寒い空気が漂っていた。
近藤さんは額に手を当てて困り果てているし、マホさんはこれ以上ないほど冷たい表情をしてはいたが、怒りというよりは一周回って呆れの境地といった様子で、長い長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「一応確認するけど……あの男いつ死んだの?」
絶対零度の冷たい視線が陽夏を射抜く。
陽夏は、ブルブルと首を左右に振って、
「俺、そんなこと言ってないよ」
縋るような目を俺に向けてきたが、パニックに陥っているのは俺の方だ。
死んでないのか? 生きてるのか? じゃ、形見だなんだって話は何なんだ!?
「言ってないよね? 死んだとか、一言も言ってないよね……!」
「言ってないけど……二度と会えないとか、ピアノの話したかったとか……てゆーか、あの会話の流れで形見って言われたら九割九分九厘死んだ人間の話をしていると思うだろ!」
「えーっっ俺!? ……俺の所為なのっっ!? だって、母さんがお別れする時ピアノ貰ったって……そういうの形見って言うんじゃないの?」
「賠償金の間違いでしょ! ……日本じゃ慰謝料って言うのかしら。分かる? Schmerzensgeld」
陽夏の言葉を、マホさんが訂正する。
慰謝料!?
となると、話が随分違ってくる。
「あー……なるほどSchmerzensgeld?」
「あーじゃねーよ! 納得すんな!! お前のために父親が必死でピアノを探したって言うのは何だったんだ!?」
「それは事実よ。こっちが納得するピアノ調達しないと訴えるって言ったら、あの男血相変えて探してたわ」
マホさんは当時を思い出したかのように鼻を鳴らして嘲笑った。
決して愛しい男を思う態度ではない。短く吐き捨てた言葉尻からも、二人の別れが決して円満なものではなかったことが伺える。
「あのね、高槻君…………」
状況が飲み込めず呆然としている俺に、近藤さんが申し訳なさそうに声をかけてくる。
「一つ君に、説明しておかないといけないことが……」
「何……ですか?」
まだ何かあるのだろうか? この訳アリ顧客。あの秘密ファイルに記載されてない、トップシークレットがあるってことなのか?
「芝君はすぐに気づいたから、君はどうかなってタイミングを見計らっているうちに料理だ何だって訳の分からない状況になってしまったから……」
「何ですか?」
口から零れた俺の問いは、ポトンと五十センチ先の床に転がった……そんな気がした。
皆が哀れみの目で俺を見ていた。
何これ?
一体、何なんですかぁぁぁ……!?
縋るように近藤さんの元に駆け寄った俺の背後で、マホさんが不敵な笑みを浮かべた――ように感じた。
「あー、そういうこと……? 誰も説明してなかったってわけね」
第六感、と言うのだろうか。ものすごく嫌な予感がした。
背中に突き刺さるような視線を感じる。
「そうねぇ。貴方が言うように、確かに、売るには惜しいピアノだわ。現金も貰ったのに、借金返済に回してしまったのは私の落ち度だし…………仰る通り億単位の借金作ったのは私だし」
億単位!?
何をしたらそんな借金作れるんだ!?
マホさんは言いながら踵を返し、キャビネットに向かって歩き出した。
例のヴァイオリンの前までやってくると、彼女は手櫛で髪を整えて手首に嵌めていたゴムでキュッと結ぶ。
背中から、怒りとも嘲笑ともつかない毒々しいオーラが発せられる。
「高槻君、誰も説明してないようだから教えてあげるけど、陽夏は父方の籍に入っているの」
「え…………?」
ということは…………つまり…………
「苗字が違うのよ。私とこの子」
マホさんは眼鏡を外し、ケースから取り出したヴァイオリンの調弦を始めた。
弓を弾いた瞬間、部屋全体の空気が震えた。深みのある重厚な音色が腹の底にまで響いてくる。
圧迫されるような低音部の驚きに声が出なかった。
いくらヴァイオリンが専門外の楽器であったとしても、楽器の音の違いぐらいは判る。
この楽器、普通の楽器ではない。
おそらく……作られた時代が違う。最高の素材があった時代、最高の製作者によって作られ、年月を重ねた楽器しか作ることのできない音。
そこまできて、何かが繋がった。
そうだよ。どうして今まで気づかなかったのか……。
近藤さん保管になっていた顧客ファイル。あの家なら仕方がないと言った芝さんの言葉……そして『母さんと言えばヴァイオリン』と世界の常識を語っていた陽夏…………答えを導き出すヒントは沢山出されていたのに。
ヤバイ。ヤバすぎる。
とんでもない人間に喧嘩を売ってしまった。
すべてを悟った途端、どっと背中に冷や汗が浮かんだ。クーラーがやけに冷たく感じられて、ガタガタと足が震える。
「陽夏。高槻君の情熱に免じて、ピアノは売らないでいてあげる。でも、栗原君の依頼はもう一度よく考えて回答しなさい。あの人、あんたのことずっと待ってるんだからね」
「……はい」
マホさんの迫力に気圧されたのか、陽夏は飼い猫のように小さくなって素直に頷いた。
「モーツァルトやるんだっけ? 丁度いいわ。一回合わせてみましょう」
「あの。俺…………帰っても…………」
じりじりと出口の方へ後退する。
お願いだから、このままフェードアウトさせてください。
「あら。この後、フリーなんでしょ? 遠慮しないでゆっくりしていきなさいよ」
さぁっと血の気が失せる。叶うことならこのまま気絶して、今度こそ病院行きになってしまいたかった。
「私の演奏じゃ物足りないかしら?」
振り向いた――青柳真帆は底意地の悪い笑顔を浮かべて持っていた弓でソファーを指したのだった。
「さぁ、二人ともこちらへどうぞ」
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