第11話 陽夏君のことよろしくね

 野宮陽夏の正体――それは、世界的ヴァイオリニスト青柳真帆の隠し子だった。


 真帆さんは、十六年前のある日、仕事先で知り合ったジャズピアニストと意気投合し、関係を持ってしまった。その相手が陽夏の遺伝子上の父親になるのだが、数々の女性と浮名を流し、妻子と離婚調停中の問題児だったらしい。

 公演で世界中を飛び回っていた真帆さんは、ドイツのワイドショーネタなど知る由もなく、酒の勢いもあって男の嘘にまんまと騙されてしまった。確かに、男性と妻の関係は破綻していた。別居期間は有に一年を超え、離婚調停もあと少しという状況ではあった。

 しかし、正式な手続きは終えておらず、二人の婚姻関係は継続していたのだ。


「それ知ってたら、そもそもそんな関係にはならないでしょ。離婚したばかりで寂しいって泣いていたから同情したのよ…………まぁ、顔は好みだったけど」


 とは騙された真帆さんの偽らざる本音であるが、真実が明るみに出てからも平然と言い寄ってくる男と何とか手を切り、ホッとしたのもつかの間、真帆さんは自分の体調の変化に気付いた。

 真帆さんが当時所有していたのは、フランスの貴族から貸与されたストラディヴァリウスだった。本当ならシングルマザーになる事を決意したその時点で、所有者に返却すべき名器ではあったが、既に体の一部のようになってしまったヴァイオリンを彼女はどうしても手放すことができなかった。

 交渉の結果、億単位の楽器の購入に踏み切ることになったのだが……。

 普通は、子育てを控えている時点で大借金を作ったりはしない。

 美貌の天才ヴァイオリニストから、大借金持ちのシングルマザーへと転落した真帆さんは、実家とも疎遠となり、世界中に散らばった友人の助けを受けながら子育てを始める。

 そこで一番の協力者となったのが、育てのババことレナ・ルプレヒトその人だった。


 レナ・ルプレヒトは世界的ヴィルトオーゾでありながら、ベートーヴェン研究の第一人者でもある。五十台半ばまで積極的に演奏活動を続けていたが、ある年を境に演奏活動を控えるようになり、大学講師としての活動にシフトした。音楽家の中でも彼女を慕う人間は数多く、彼女に師事したいと申し出た学生も数えきれないほどいたそうだが『自分も勉強中だ』と生涯に渡って、誰かと師弟関係を結ぶことはなかった。

 彼女の手によって作られたCDは今尚ベートーヴェンの名盤としてその名を轟かせ、世界中の愛好家を虜にしているのに、彼女の音楽を継承する人間はこの世にいない。


 まさに奇跡の人……というのがレナ・ルプレヒトに対する世間の評価だ。

 レナと真帆さんは、音楽大学で出会い、そこから公私に渡って親交が続いていた。演奏活動を続ける女性音楽家という境遇にも、互いにシンパシーを感じていたのかもしれない。世界中を飛び回り、トップを走り続ける二人だからこそ、言葉にせずとも通じ合う何かがあったのだろう。


 真帆さんはバッシングにも負けず、当時のマネージャーだった大城香奈子さんとレナさんのサポートを受けながら舞台に立ち続けた。

 そして、青柳真帆の子供である陽夏も母親の背中を見ながら成長した。時には真帆さんの、そしてレナさんの演奏会にくっ付いて世界を旅し、ドイツに居る時はレナさんの手ほどきを受ける。更には家にやって来る真帆さんの友人知人の遊びという名の直接指導……彼らが扱う楽器も様々で、弦楽器やピアノはもちろん、木管、金管、時には指揮者や舞台演出家、第一線で活躍する様々な人間が陽夏に音楽を教えていった。

 英才教育などとい生易しいものではない。やることなすこと全ての手解きがプロ直伝なのだ。陽夏にとって音楽は生活であり、世界の全てである。超絶技巧もフーガも弾けて当たり前。


 ところが、そんな生活が続いたある日、レナさんの病気が発覚した。気づいた時には手の施しようがなく、一年間の闘病生活の後、レナさんは還らぬ人となってしまった。

 頼る術を失った真帆さんは香奈子さんと相談の結果、日本への帰国を決意する。


 帰国後の真帆さんを支えたのは、陽夏の祖父に当たる人だった。慰謝料代りに母子にこのアトリエを提供し、陽夏の学費を負担してくれている。

 そして、プロヴァイオリニストの栗原輝之。

 真帆さんは、同業者である栗原さんが紹介してくれた音楽教室で素性を隠してヴァイオリン講師を続けながら、帰国前後のゴタゴタですっかり鈍ってしまった指の感覚を取り戻すための訓練を続け、再復帰の準備を進めていた。デビュー当時から真帆さんのマネージャーを担当していた大城香奈子と二人三脚で環境を整え、今年の秋にはフランスでの復帰公演も決まり、さぁ、これから、と言う時になって、陽夏の進路問題が勃発したのだ。


 この道で生きて行く気がないならすっぱりと諦めろ、という真帆さんの言葉はもっともで、音高に進学したところで陽夏が今更学ぶことはない。更に高度な音楽教育を受けるのであれば、ドイツに戻って音楽の道を究めるのが妥当だが、その資金は真帆さんが借金返済に回してしまった。

 そりゃ揉めるわな……。

 揉めるのは分かるけど…………。


「タカツキ創平さん」


 食事を終えて、四人分の食器を台所で洗っていたら、ひょっこりと陽夏が顔を出した。言いにくいと言っていた苗字付きで、しかも敬称付き。こんな媚びた呼び方をしてくるのは、俺に対しての負い目故だろう。


「お前なぁ……何でもっと早く……」


 母親が青柳真帆だって、ちゃんと説明しろ!!

 絶対に、絶っっっっ対にこれだけは文句を言ってやろうと食器を洗う手を止めて振り向いたら、ズカズカやってきた陽夏にガバっと抱きしめられた。

 Tシャツ越しに体温が伝わる。


「母さんに言ってくれてありがとう。めちゃくちゃ嬉しかった」


 真っ白になった頭に、陽夏の声がした。


「今度は創平が調律やって。俺のピアノ……よろしくお願いします!」


 ガバっと頭を下げて、陽夏はあっという間に離れていったが、Tシャツ越しの体温と、力強い腕の感触が残っていた。


***


 体育館で、アンダーシャツ一枚になった時から感じてはいたが、陽夏の身体は均整が取れていてとても綺麗だ。箸の持ち方は汚いのに、指の形や鍛えられた手や腕の筋肉が芸術品のようで気付いたら目で追っている時があった。

 美術品を見ている感覚に近いのだと思っていた。でも、女性の身体をそんな風に眺めたことは一度もない。音楽家の手というのであれば、真帆さんだって同じように、鍛えられた体、綺麗な手をしているのに、骨格が違うというだけで目に留まるのは陽夏の方なのだ。


 陽夏に対する申し訳なさと、罪悪感でいっぱいになった。

 調理師から晴れて調律師に昇格し、手放しで喜んで良い状況のはずなのに、キッチンでの出来事を反芻してしまう。

 何の躊躇もなくハグしてくるあの気軽さや感情表現は、海外生活が長かった陽夏にとっては日常なのだろう。

 体育館で泣いた時も距離が近いと思った。きっと、この先もこんなことが続くのだろう。野宮陽夏とはこんな生物だと常に心の中で準備をしておかないと、今日みたいな不意打ちを食らうたびにドギマギするのは嫌だった。


「本当に申し訳なかった」


 そして、この騒動の原因を作ったもう一人の人物。

 車に乗り込むや否や、近藤さんが謝ってきた。


「本当ですよ。最初に教えておいてくれれば、俺だってあそこまでは言わなかったのに」


 涙目になりながら、この時ばかりは雲の上の存在である上司に苦情を言わずにいられなかった。

 あれで、真帆さんが折れてくれたから良かったようなものの、会社が訴えられるようなことになっていたらどうするつもりだったのだろう。


「事情が事情なだけに、話すタイミングを計っていたっていうのはあったんだけど……彼女の演奏会に行ったことは?」


「ないです。残念ながら」


 ついさっき、直に演奏を聴きましたけど。


「実物を見てたとしても、スエット着てヴァイオリン講師しているなんて想像できませんからね」


「ははは。そうだよね」


「笑いごとじゃないですよ」


「ごめん、ごめん、でもまさか君があそこまで言うとは思ってなかったな……」


 その瞬間を思い出したのか、クスクスと笑った。


「近藤さんっ! ひょっとしたら会社が訴えられていたかもしれないんですよ!? ……俺がこんなこと言える立場じゃないですけど」


「その時は私が辞めるつもりだったよ」


 シャラっとすごいことを言われて、もう何も言えなくなってしまった。近藤さんが俺の所為で辞めるなんて、想像しただけで背筋が寒くなる。


「…………すみませんでした。お客様に暴言を吐いたことは謝ります」


「まぁ、まぁ、結果オーライだよ」


 近藤さんは運転席に座る俺の肩をポンポンと叩いた。


「陽夏君のことよろしく頼むね」



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