第12話 俺は家庭教師ではありません

「お帰り!」


 午後五時過ぎ。

 職場に戻ってきたら、陽夏がいた。

 何故工房に? ここは学校の帰り道でもないはずだ。


「何でお前がここにいるんだよ?」


「母さんのお使い」


 陽夏は椅子に置かれたリュックを指さす。


「用事が済んだなら帰れよ。ってゆーか、何で制服着てんの? 夏休みじゃないのか?」


「登校日だってさ。今時そんな学校もあるんだな。珍しい」


 奥から出てきた芝さんが、陽夏の代わりに答える。登校日と言ったって、午前中ちょこっと話があって、すぐ終わるようなやつではないのか? 家に帰って着替える時間ぐらいいくらでもあったはずだ。


「さっきまで、そこでピアノ弾いてもらってたんだけど、宿題溜まってるらしくて、高槻が戻るまで勉強してろって言ったんだよ」


「お前な、ここ遊び場じゃないんだぞ?」


 工房は関係者以外立ち入り禁止というわけではないが、中学生が勉強のために立ち寄る場所でもない。

 ましてや、今日は至る所に解体されたピアノの部品が置かれているし、埃が舞って空気も良くない。


「まぁまぁ。こっちも、音の感想聞かせてもらって色々参考になったから」


 今日は先週引き取ったピアノのオーバーホール全部品交換に着手する予定なのだ。既に作業に取り掛かっている芝さんのエプロンには木屑が沢山付いている。奥の作業台で響板割れの修理をしていたのだろう。陽夏に構っている場合ではない。


 陽夏が占領する机の上には、ノートと教科書、それにタブレットが広げてられていたが書きかけの数式は途中で途切れ、解まで辿り着けてはいなかった。


「タブレット使えばすぐに分かるだろ?」


 俺や芝さんに頼らずとも、ボタンを押せば答えを見つけてくれる心強い味方がいる。


「うわ。いきなりそれ、どうなの?」


「いいんですよ、芝さん。俺が教えているのは処世術なんですから」


 勉強を習いたいのであれば、学校で聞け、という話である。


「日本語読むの時間かかり過ぎて無理だよ」


「ドイツ語に切り替えろよ」


「先生がやっちゃだめだって……俺の動画勝手に撮る子いるのに、そっちは注意しないんだよ。あの担任」


 うんざりしたようにそう言って、タブレットをツンツン突いている陽夏を見る。


「モテるんだな、お前。


 俺の言葉を受けて、ピクッと反応した陽夏が「余計なことは言うな」と牽制するように目を細める。何のことを言っているのか、本人も察知したのだろう。


「そういうのじゃなくて、Cフラ目当てだよ。あのドラマがあると次の日クラスの女子から絶対頼まれるの。同じ曲弾ける? って……」


「あー、ドラマ流行ってるらしいな。ウチも娘と嫁がハマってるわ。お前も見てるのか?」


 芝さんが納得したように頷く。

 Cフラットの恋は職場でも現場でもちょこちょこ耳にするドラマだった。確か、陽夏と行った焼きそば屋でもCMを見た。

 俺はドラマを見てないので、聞きかじった程度のことしか知らないが、家庭の事情で音楽から離れざるを得なかった主人公が、ヒロインである幼馴染と再会し、苦境の中再び音楽に向かい合うという恋愛ドラマらしい。

 主人公を演じる俳優はドラマの影響でメディアへの露出が増え、謙虚で知的な彼の一面を見た女性たちが新たなファンとなり、俳優自身もドラマも、相乗効果で人気は鰻上りらしい。

 動画サイトでも『Cフラ弾いてみた』というタイトルを見かけるようになったし、店舗では、Cフラ関係の楽譜の問い合わせが増えていると聞く。


「見てないけど、動画見せられてるから何となくストーリーは知ってるよ。今、コンクールの練習してるんでしょ? コンチェルト弾いてたもん」


「へぇ、もう最終審査まで行ってるんだな。ちょっと前にCM見た時は、コンクールに出る出ないって話してたのに意外と展開早いんだな」


「そんなわけないじゃん」


 協奏曲コンチェルトの練習という話を聞いて、てっきり主人公がファイナリストに残っているのだと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。陽夏が呆れかえったような顔で俺を仰ぎ見る。


「まだ、予備審査だもん」


「は? それで何でコンチェルト?」


「だから、あのドラマいろいろおかしいんだって。コンクール始まる前からいきなりラフマニノフの2番だよ? 予備選にどれだけ時間かかるの? 本選始まるの何年後?」


 至極もっともな陽夏のボヤキに、芝さんが吹き出す。

 

「女子にもこれオーケストラと一緒に演奏する曲だよ、三十分以上かかるよって説明したのに、いいからお願いって言われて、第三楽章の途中から……しかも、勝手に動画撮られるわ、オケパートで待ち状態になったら、演奏終わったと思われてどっかに行っちゃうわ、本当なんなのって感じでさ」


「ぶっ…はははは!!」


 不満たらたらな陽夏の言葉に、当時の状況がありありと想像出来てしまって、俺も芝さんも爆笑してしまった。

 この先、ラフマニノフのコンチェルトが聴けなくなってしまったらどうしてくれるんだ。


「ねぇ、タブレットのドイツ語切り替えダメなのに、俺の動画撮影はオッケーっておかしくない? しかも、その動画見て担任も一緒になって盛り上がってるんだよ? どうかしてるよね、日本のガッコウ」


 陽夏は、全てを諦めたようにべちゃっと机の上に突っ伏した。タブレットの言語設定の切り替えが出来ないことには同情するが、日本で生活しているのだから、あとは努力で乗り越えるしかない。


「担任の先生も、ドイツ語に切り替えて、生徒が何やってるか分からなくなるのが不安なんだろうな」


 充分すぎるほどの社会経験に加え、子育ても経験しているせいか、芝さんはおおらかな心で陽夏を受け止める。調律を蹴られたという過去などなかったかのように、陽夏とも打ち解けているあたりはさすがだ。近藤さんといい芝さんといい、人間が出来過ぎていて陽夏の一挙一動にピリピリしている自分が恥ずかしくなってくる。


「とにかく、勉強の方は日本語でも丁寧に解説すれば問題ないんだよな?」


「うん……」


「わかった。高槻。今日もう直帰ってことにしとくから」


 隣でそんな会話が聞こえ、芝さんの方を見たらガシッと肩を掴まれた。


「はぁっ?」


「こんな所にいて、こいつが怪我しても困るだろ」


 陽夏のバカ話から、いきなり現実に引き戻される。


「ブッシングの交換は!?」


 俺に割り当てられた作業を叫んで抗議してみるが、芝さんは僅かに口角を持ち上げて、何も言うなと諭すように首を振った。


「明日でいい」


 仏の様な穏やかな表情で深々と頷き、陽夏に語りかける。


「高槻は頭いいから、送ってもらうついでに勉強も教えてもらえ」


「やったー! じゃ、行こう」


 陽夏は言うが早いか、勉強道具一式をリュックの中に乱雑に放り込んだ。


 ちょっと待て。俺はまだ承諾した覚えはないぞ。しかも、終業時間までまだ一時間ほどある。


「ねぇ、創平の家、ピアノあるって本当?」


 まさか、今度は子守りをすることになるのか? と疑心暗鬼に陥っていた俺の隣で、嬉々とした声がした。嫌な予感がしてそちらをみると、陽夏が好奇心いっぱいの瞳で俺を見ていた。

 まずい。すっかりその気になっている。

 しかも、俺の家のピアノのことなんて誰から聞いたのか。


「そうそう。自分で材料集めてオーバーホールしたんだよな?」


「芝さん……!」


 これ以上、陽夏に余計なことを吹き込まないでください。


「ここに入る時、面接で言ってたじゃん」


「言いましたけど……!」


「えー! 見てみたい」


 案の定、陽夏は目をキラキラさせてそう言いだした。


「いや、大したピアノじゃないし……」


 お宅には立派なピアノがあるじゃないですか。そいつに比べたら鍵盤ハーモニカとコンサートグランドぐらいの違いはありますよ。


「創平が作ったんでしょ?」


「作ったわけじゃない。修理しただけ」


 前の職場で、廃棄するピアノを引き取って勉強がてら一から十まで自分の手で修理をした。苦労はしたが、その分知識も技術も身に付いたと思う。どうにかこうにか音が出るところまでは持って行けたし、その分愛着も沸いたが、元が廃棄予定のピアノなので、どんなに頑張っても音には限界がある。


「弾いてみたーい」


「おう、思う存分弾いて来い。ほら。帰った帰った」


 芝さんが両手を広げて、俺たちを出口の方へと追いやる。くそっ。直帰なんて言いながら、体よく厄介払いする気だな。しかし、役職が上の芝居さんに逆らうことは出来ない。陽夏にとって工房が危険というのも一理ある。


 仕方なく、陽夏を家まで送るとことにした。

 既に夕方のラッシュが始まった大通りを何とか抜けて、陽夏の自宅の方向へと車を走らせる。


「なんか、ウチの方に向かってない?」


 それまでぼんやりと車窓の風景を見ていた陽夏がこちらを見た。


「…………」


「え? 創平のピアノは?」


 俺の沈黙をYESと受け取ったのか、陽夏は不安気な様子で尋ねてきた。


「普通のアップライトだよ。わざわざ見に来るほどのものじゃないし、弾いてもそんなにいい音出ないから」


「じゃ、宿題は?」


「自分でやれよ。宿題ってそういうものだろ」


「ええっ……じゃぁ、じゃぁ、俺の飯は?」


「お前、飯まで食うつもりだったのか?」


 まさか、それが目的で工房に居座っていたのか?


「だーってさぁ……。創平は毎日毎日スーパーの総菜ばっか食える? 育ちざかりの子供が総菜と弁当とカップラーメンって不健康だと思わない? 親はネグレクト、クラスメイトにはハブられて、先生にはセクハラされるし、担任にはドイツ語拒否されるし……あれ? 自分で言ってて何か可哀想になってきた。え? 俺って、自分で思うよりずっと不幸なんじゃ……」


 確かに同情すべき点はいくつかある。それは認める。しかし、それでも本当に、本っっっ当にウチに連れて行くのは嫌なのだ。


「このまま頼りの調律師にまで拒否られたら……」


「……総菜と弁当とカップラーメンがあれば生きて行けるんだろ? 今そう言ったよな」


「酷いっっっ!」


 叫ぶや否や、顔を覆って泣き真似を始めた陽夏。

 ウソ泣きだと分かってはいるが、育ち盛りの子供が独居老人のような食生活を送っている現実を目の当りにすると、人道的措置と自己保身が天秤の上で揺れ始める。


 今日はカレーにしようと思って出勤前に仕込みだけは終えている。二人で食べても、万が一おかわりされても十分な量は確保できるはずだ。野宮家のすっからかんの冷蔵庫を思い出すと、お前の分の飯なんてないぞと嘘をつくのも気が引ける。

 タッパーに入れて、持たせるか? ……いやいや、一旦ウチに寄るなら結局は一緒のことだ。やっぱりこのまま……


「ねぇ、何考えてる?」


「えっ?」


「このままこっそり俺んちに行こうとか思ってないよね?」


 マズイ。バレたか!?

 自分を突き放そうとする気配を敏感に察したのか、陽夏が猜疑心いっぱいの表情で俺を見ている。何なんだろこの勘の良さ。


「ファミレス行こう。奢ってやるから、お前の好きな物食っていい……」


「お・れ・は! 創平の家に行きたいの! 飯は後でいい。まずはピアノ弾きたい」


「だから、いい音出ないんだって」


 頼む。お願いだから諦めてくれ……! ってゆーか、結局ピアノも飯もどっちも試す気満々じゃないか。


「でも、創平が作ったんでしょ?」


「作ったんじゃない。自分の勉強用にフルオーバーしただけだ。材料ちょこちょこ集めたり買ったりして」


 確かに、自宅のマンションにピアノはあるが売り物にするつもりも、誰かに譲渡する気もなく、ピッチを変えたりいろいろな調律を試したり、たまには自分で弾いたりして楽しんでいる。でもそれは、単なる興味……もっと言ってしまえばただの趣味だ。


「違う。音!」


 陽夏は首を振って、こちらを見た。


「一から創平が作ったんでしょ? 創平の音、聴いてみたい。体育館のピアノ直してくれたじゃん。あの音、俺が入学した時からずっとああだったんだよ」


「あれは……ウチの調律師なら誰でも直せるよ」


 一本唸りの原因はチューニングピンにあった。唸りの原因を一つずつ地道に潰していけば、前担当者でも、気付くことは出来たはずだ。ただの手抜きだ。


「でも、創平って近藤さんからヘッドハンティングされたんでしょ?」


 思いがけない言葉に、思わず吹き出してしまった。一体どこからそんな話が出てきたのだろう。


「ないない。普通に面接受けたよ。メーカーに居た時も一番下っ端だったし、ヘッドハンティングとかあるわけない」


「そうなの?」


「そうだよ。短大卒業してメーカーに務めたけど、大橋楽器店が募集してたから、一年で転職したんだよ。ピアノのオーバーホールしたのはメーカーに居る時」


 卒業したての頃は、本当に酷い生活を送っていた。先輩と別れたことが引き金になって、今思い出しても、かなり自暴自棄になっていたように思う。

 あのまま自分を投げ出していたら、今頃どうなっていたのだろう。ピアノの修理や、友人との出会い、大橋楽器店への転職、様々な出来事が切っ掛けとなり、暗い過去から距離を置くことができるようになったのだ。それなのにあの時、体育館で陽夏の演奏を聴いて思い知らされた。先輩のことは単に思い出さなくなかっただけで、忘れたわけではなかったのだと。なんの解決にも至らないまま、ただ心の奥にしまって平気な顔をすることができるようになっただけなのだ。この先もずっとこんな気持ちを抱えて生きていくのかと思うとぞっとする。それとも、こんなことを繰り返しているうちに、平気になっていくものなのだろうか。

 

「倍率高かったからな。今の店で採用されたのは本当にラッキーだったと思うよ」


「じゃぁ、俺もラッキーだね。創平に会えたもん」


 陽夏は無邪気に笑いながら言う。

 そんな風に思ってくれる人間がいるのかと……不覚にも感動してしまった。

 バカだけど、こういうところは憎めないんだよなぁ。ご飯だって、美味しそうに食べてくれるし、残さないし、いただきますとご馳走様はちゃんと言える子だもんな……。


「ってゆーか、創平」


「何?」


「本当に、本気で俺のこと、連れて帰ろうとか思ってないよね?」


「あっ!」


「えっ? どうしたの?」


 ぼんやりと考えごとをしていたせいで、いつものように交差点で左折専用レーンに並んでしまった。前も後ろも、右側も車の列が連なっている。ファミレスは直進して少し行った場所にあるのに、帰宅ラッシュのこの状況で今更車線変更するのは気が引ける。


「…………いや、何でもない……」


 どうする? 迂回してまた元の道に戻るか?

 それともこの先のコンビニで適当なものを買って強制送還させる?


「ってゆーか、これ、俺の家の方向じゃない?」


 そうだよ。その通りだよ! この道進んで突き当りを右折して道なりに進んだらお前の家だ。

 だから嫌だったんだよ!!!


「創平、俺のこと騙そうとしてる? 困ってる中学生、放置したりしないよね? ピアノ見せてくれなかったら、夏休み中、毎日店に突撃するよ?」


 ただでさえ焦っている中、陽夏がとんでもないことを言い出す。そして、有言実行しかねない数々の過去の経験が、更なる不安を呼び起こす。

 あと十分もしないうちに、アパートが見えてくる。

 仕方がないか……。


「……連れていくから、マホさんに連絡しとけよ」


「母さん、今日打ち合わせで帰ってこないよ」


「じゃ、野宮さん」


「じいちゃん、こっちの家にはノータッチだから」


「ダメ。連絡しないと連れていかない」


 そこは絶対に譲れない。


「連絡すればいいの? 本当に創平の家、連れて行ってくれるの?」


「…………約束する」


めーっちゃ嫌だけど、もうここまで来たら仕方ない。

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