第13話 だから嫌だったんだ

 ――えー! マジでここなの?――


 ――ウチからチャリ圏内じゃん――


 ――ひょっとして、創平もファミリー行ったりしてる?――


 アパートにたどり着いた瞬間の陽夏の言葉だった。

 ちなみにファミリーとは市内にいくつか支店を持つ地元密着型のスーパーだ。総菜の味に定評がある主婦御用達の店で、先日陽夏の家で見た惣菜がまさにファミリーで購入されたものだった。俺は、通勤途中にある大型スーパーをよく利用するので、休日ぐらいしか利用することはなかったが、たった今陽夏の言葉を聞いて、休日でもファミリーに行くのはやめようと心に誓った次第である。


「ねぇ、どこなの? 創平の部屋」


「待て。落ち着け」


 後部座席から調律道具を引っ張り出し、車にロックをかけている間に、陽夏はリュックを背負って集合ポストの前に立っていた。

 俺が住むアパートは鉄骨造二階建ての1K、駐車場込み五万円の楽器可物件だった。


 建物の真ん中を割る形で階段と集合ポストがあるため、全戸角部屋扱いで生活音はほとんど気にならないし、住宅街の外れにあるため、楽器も心行くまで演奏することができた。実際、全八戸のうち半数ぐらいは音大生が利用しているようで、休日になるとどこからか楽器の音が聞こえてくることもある。最寄り駅まで遠いという難点はあるものの、車通勤の俺には全く問題にはならなかった。

 催促をかけてくる陽夏を後目に、ポストダイヤルに手を伸ばすと、そこから部屋番号を読み取った陽夏はプレートを確認しながら廊下の奥へと行ってしまった。


「勝手に行くな……」


 どうせ部屋の中には入れないだろう。

 ドアの前で今か今かと待っている陽夏とは裏腹に、テンションダダ下がりの俺は手に持った宅配ピザのチラシを一旦脇に挟み、ポケットの中から部屋の鍵を取り出した。


「飯食ったら帰れよ」


「え? 宿題手伝ってくれるんじゃないの?」


「教えるとは言ったけど、手伝うとは言ってない」


 できないならできないまま学校に持って行けば良いのだ。

 渋々部屋の鍵を開けると、


「おっ、今日のご飯カレーだ! お邪魔しまーす」


 早くも匂いで夕飯のネタバレをしてしまった。

 そして、リビングに入るや否やその場にリュックを下ろすと、陽夏はさっそくアップライトピアノの椅子を引きながら嬉々としてこちらを振り返った。


「弾いてもいい?」


「どうぞ」


 熱がこもった部屋は蒸し風呂状態だったが、そんなことを気にする様子もなく、陽夏は椅子に座って鍵盤蓋を開ける。パランと音を鳴らして陽夏が弾き始めたのは、いつぞや冗談で弾くと言っていたエリーゼのためにだ。小学生でも弾けるような簡単な曲だが、ムカつくほど上手い。自分も小学校時代から幾度となく演奏してきたので、何気なく弾いている陽夏の技術の高さが手に取るように分かってしまう。


「いい音」


「お世辞はいいって」

 

「ううん。そういうんじゃなくて、創平の音、めっちゃいいなって思う」


「そりゃどうも」


 陽夏の見え透いたお世辞に笑ってしまった。どれだけ整調しても整音しても、ピアノ自体がそれなりの物なので、陽夏が褒める程の音は出ない。学生上がりの調律師一年生が見様見真似で修理したピアノは、所詮その程度のピアノでしかない。

 俺に取り入ろうとしているのか本心なのか、手放しで褒められるとちょっと照れくさい。


「飯準備するから、宿題もちゃんとやれよ」


「はーい」


 暑さでダレていたクーラーがゆるゆると動き始め、俺は、陽夏の軽快な演奏を聴きながらスーツをハンガーに掛けた後、キッチンへと向かった。

 夕飯の準備と言っても、カレーを温めるだけなので時間はかからない。サラダは、スーパーでカットされた野菜にトマトとレタスを添えただけのものだ。一人ならこれでも十分なのだが、カレーには目玉焼きとチーズのトッピングを追加した。残り物の玉ねぎでコンソメスープを作り、これで完成だ。

 カレーを持ってリビングに戻ると、本棚の前に座り込む陽夏がいた。途中からピアノの音が聞こえなくなったので、勉強でも始めたのかと思っていたが、そうではなかった。


「何見てるんだよ……」


 陽夏が膝の上に広げて覗き込む視線の先に、灰青色の表紙が見えた。

 ヘンレ社の楽譜……原典版。


「人の物勝手に触るな」


 足早に窓際のローテーブルまで行ってカレーを置き、楽譜を奪い取る。

 別に何を言われたわけでもないのに、心臓が激しく鼓動していた。


「ニシムラって誰? めっちゃ勉強してるじゃん」


 取り上げた楽譜の背表紙に書かれた筆記体のサインを見上げて、陽夏は不思議そうに首を傾げる。


「…………学校の先輩」


 開いたページの中はに、懐かしい文字が並んでいた。頭の中に陽夏が弾いた31番とは違う演奏が蘇る。平静を装って答えてはみるものの、楽譜を握った指先が細かく震えているのが分かった。


「いいから早く食えよ。冷めるぞ」


 楽譜をラックに戻し、やっとの思いで、それだけ答える。

 これ以上質問されたら面倒だと警戒していたが、陽夏の視線はテーブルの上のカレーにくぎ付けになっていた。

 チーズが程良い具合に溶けて食欲を刺激してくるのに、さっきのショックが尾を引いて食事をする気が失せてしまった。そんな俺とは裏腹に、ローテーブルの前に陣取った陽夏のはカレーを見て目を輝かせる。


「うわぁぁぁ! 目玉焼きが乗ってる!! チーズも! 何これすげぇ!!」


 食事にちょっと手を加えただけなのにこのテンション。

 能天気すぎる中学生の姿に肩の力が抜けた。陽夏といい、真帆さんといい、食事をしている最中ですら『食べることは生きること!』みたいな情熱が伝わってくる。

 調律のために訪問して、料理を作るという不遇には見舞われたが、食べさせ甲斐のある親子であることは間違いない。

 サラダとスープをテーブルに並べ、食事の準備ができると挨拶もそこそこに陽夏はカレーを口に頬張った。


「創平って料理上手だよね」


「野菜と肉を煮て市販のルウを溶かしただけ。コンソメススープも同じ」


「だって、料理できない人もいるじゃん」


 誰とは言わないけど、と陽夏が続ける。

 恐らく、陽夏が想像したのと同じ人物を、俺は思い浮かべているはずだ。あの人が握っていいのは、箸とヴァイオリンの弓ぐらいだ。包丁なんて言語道断。だから、陽夏が異常なまでに手作り料理に興味を示すのも理解できる。


「学生時代から自炊してたし、調律師ってそもそも給料安いんだよ」


 俺自身に関しては、マメとか、料理男子とかそんなものでもなんでもなく、ただただ必要に迫られて自炊しているだけの話だ。

 ネットを検索すればレシピは無限にあるが、日々の料理にそこまで手はかけられない。帰宅はいつも二十時前になるので、食事を作る時は通勤前にある程度の仕込みを終わらせておく。適度にやって、適度に手を抜き、面倒な時はスーパーの総菜に頼る。

 長く続けるコツはただ一つ。無理をしないことだ。


「えっ、そうなの?」


「そうだよ。貯金したいけど車の維持費だの何だので、ちょこちょこかかるし……とか考えてたら削れるの食費だからな」


「ふーん……偉いね」


 夢のない話をして申し訳ないが、昨今の住宅事情か電子ピアノの影響なのか、本物のピアノを保有する家庭は年々少なくなっている。一定数の需要はあるにせよ、調律師自体も飽和状態で重労働の割に安月給という現実に直面して辞めていく調律師も少なくない。

 昼は時間が読めないので、外食かコンビニで済ませることが多いが、朝晩の食事を自炊するだけで、かなり出費は抑えられる。


「お前が羨ましいよ」


「何で?」


「ドイツに住んでたんだろ? どんなところだった? 日本とは音楽に対する考え方も違うだろう?」


「創平はドイツに行きたいの?」


「うん……まぁ、いつかは」


 昔、西村先輩とそんな計画を立てていた。

 西村先輩の卒業旅行は、二人でドイツ行く。俺はそれまでに働いて資金を貯める。本場のクラシックを聴いて、美味しい料理をたくさん食べて、ピアノ工房にも足を運ぶ。

 二人で立てた計画は一年も経たないうちに反故にされてしまったが、本場の空気に触れてみたいという俺の気持ちに変わりはない。食費を節約して、少しずつ貯金を続けているのもそのためだ。


「俺、全然余裕で連れて行ってあげるよ」


 綿菓子よりも軽く言ってのける陽夏に思わず笑ってしまった。

 西村先輩のことを思い出して、沈みかけた気持ちが少し軽くなる。


「隣の庭みたいに言うなよ」


 陽夏にはそれだけ近い国、ということなのだろうけど、余裕で連れて行ってもらえるような距離ではない。


「え、でもいろいろ案内できるし、通訳もできるよ。あ、地元の人しか知らないような美味い店も知ってる。まだあればの話だけど……」


「はいはい。じゃ、その時はよろしくな……どうせなら、旅費出してくれるのが一番助かるんだけど」


「いやー、それはさすがに…………」


 無理無理と顔の前で手を振る陽夏を見て、また笑ってしまった。


「お前が真帆さんみたいに世界で活躍するようになったら、俺のこと指名してくれよ」


「……うん、そうだね」


 陽夏は、一瞬驚いたような顔をしたが、俺がそちらを見ると「なんでもない」と首を振って曖昧な笑みを浮かべた。

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