第14話 招待状

 躾が出来てないとか礼儀がなってないとか、細々気になる部分はありつつも、陽夏には同情すべき点があると思う。帰国したての頃はカルチャーショックも山ほどあっただろうし、真帆さんはずっとあんな調子だし……。


『それ典型的な放置子だよ。放っておくと、どんどんエスカレートするから、迷惑だと思ったら、すぐに児相か学校に連絡するんだよ』


 と、俺の甘い考えをぶった斬り、感傷を一切排除したアドバイスをくれたのは、久しぶりに連絡をくれた友人だった。最近引越した友人は近況報告がてら、飲みの誘いをかけてきたのだが、会話の流れで陽夏のことを話したら本気で心配して件の対処法を教えてくれたのだ。ネグレクトはその通りだと思うが、児童相談所への通報はさすがに……と、連絡をためらった結果、彼の予言は現実のものとなった。


 陽夏は週三ペースで店や俺のアパートに姿を現し、やれ宿題だ、ピアノだご飯だと騒ぎたてるようになった。

 夏休中ということもあって、多忙な社会人に自分の都合を合わせることも厭わず、何度理由をつけて断ってもその度に再調整リスケしてやってくる。

 次の約束をとりつけるまで、頑として引かず、時には泣き真似、そしてまたある時は、未成年の主張弱者救済を繰り返し、こちらが折れるまで駄々を捏ね続けるのだ。

 出会った時の、手負いの獣ような態度が嘘のように、一度心を許すとべったりと張り付いて離れない。こちらが離れようとすると途端にそれを察知して、阻止する行動に出る。

 調律の引継ぎのゴタゴタも、きっとこの辺がネックになっていたのだろうな、と噛みつき事件の背景を、今更ながら理解できたのである。それが分かった所で、拒絶されるか付き纏われるかの違いがあるだけで面倒くさいことに変わりはないのだが……。


 夏休みが明けてもこの状態が続くのは困るので、児相や学校よりもまずは真帆さんと話をしようと思ったのだが、復帰公演の準備で多忙な時期に、あまつさえ、世界的ヴァイオリニストに『ヴァイオリン売れ』発言をしてしまった手前、お宅の息子さんがこんな状態で……と電話で苦情を伝えることも躊躇われた。

 次に会った時に直接話をしようと決意して目的は果たせぬまま、とうとう二学期が始まってしまった。そして、そこから二週間が経過した今現在も、真帆さんとすれ違ったまま陽夏の週三ペースの訪問は続いていた。


 今日は休日で、突撃訪問を躱すために下校時刻であろう時間帯狙って、大型スーパーに行ったはずなのに、買い物をしている最中に陽夏から着信があった。

 通学路とは全く違う方向なのに電車とバスを乗り継いでスーパーまで俺を迎えに行くと言いだした陽夏に、さすがにそれはないと何だかんだ言い合いをしているうちに根負けして、俺が陽夏をピックアップする、いつもの流れに乗っかってしまった。


「創平、早くー」


 ドアの前で俺を呼ぶ陽夏を無視して、ポストに投げ込まれたチラシを鷲掴みにする。もはや常態化しつつあるこの状況に、危機感や焦りも一周してしまった。親身になってアドバイスをくれた友人には申し訳ないが、あの親子に屈服してしまった……否、悟りの境地に達した……そんな気分だ。


 陽夏が俺に懐いているのを良いことに真帆さんは正々堂々育児放棄して、海外に行ったきり帰ってこない。一度はファンの前から姿を消してしまった人なので知名度はあってもその信頼を取り返すのは並大抵の努力では済まないのだろう。それがわかるだけに、こちらもあまり無理は言えないし、陽夏の面倒を見ることで真帆さんが復活するのであれば、それも仕方ないと思う自分もいる。


 平日休みでリア充でもないし、休み毎に予定があるわけでもないので、陽夏に付き合うこと自体は構わないのだが、来たら来たでちゃっかり飯は食っていくわ、宿題が終わらないと嘆くわで、俺の手数は増える一方だ。


 そもそも最初にきちんとピアノ奏者と調律師という関係が構築できないまま世話を続けてしまったことが敗因だった。

 最近ではこちらも開き直って、陽夏がいても俺は俺の日常を送るようになっていた。

 飯は食わせるし、百歩……否、千歩譲って家庭教師も引き受けているが、陽夏がピアノを弾いてようがいまいが、部屋が汚れていれば掃除機もかけるし、洗濯だってする。どんな雑音がしようと俺が何をしていようと陽夏が気にする様子もないので、俺も来客モードを廃止したまでだ。

 

「ねぇねぇ、今日の夕飯何?」


「……唐揚げ」


 でも、ニンニク醤油に付け込んで云々、なんて面倒なことはしない。塩コショウでぱぱっと味付けをして片栗粉をまぶして揚げるだけ。いつもと変わらない、食べられたら良いだけの男飯だ。


「やったー! 俺の好物!」


 陽夏は両手を高く上げ、そのままの勢いで俺に抱き着いてきた。興奮しまくった犬さなが、その衝撃はなかなかのものだった。


「うわぁっ! やめろ!」


 よろけた拍子に手に掴んでいたチラシが廊下に落ちた。


「お前なぁ……」


 陽夏を睨んで、共用廊下に落ちた郵便物に手を伸ばそうとしたところで時が止まった。

 宅配ピザや不要品回収のチラシが散乱する中、一際きらびやかな封筒が混ざっている。フリーズした俺の代わりに、陽夏が散らばったチラシと郵便物を拾い上げた。


「お、結婚式の招待状じゃん。めでたいね」


「…………」


 ポン、と手の上に置かれたアイボリーの封筒には箔押しされたレースの模様があり、封蝋を模した金色のシールが貼ってあった。

 荘厳さが漂う封筒に印字された差出人は、西村先輩と浜田典子。併記された名前を見ただけで、息が苦しくなるぐらい内臓がぎゅと縮まったような気がした。


「創平……?」


「……あ……うん」


 心臓がバクバクと音を立てて、気分が悪くなった。鍵を差し込む手が微かに震える。


 どうして今更こんなものを?


 ……四年前のことを忘れたわけではないだろうに。それとも、二人にとってはとっくに過去の出来事なのだろうか。

 靴を脱いでさっさとピアノに向かった陽夏に続いてリビングに入る。残暑で部屋は相変わらず蒸し暑かったのに、暑さとは別の冷たい汗が浮かんできた。

 チラシはゴミ箱に捨てて、残った招待状はラックの上に置く。


「あのさ、陽夏……」


 ダメだ。声も震えている。胃のあたりがぎゅっと縮こまって、どうやって息をしたら良いのかもわからなくなる。

 泣きたいのか、怒りたいのか、呆れすぎて笑いたいのか……それすらもよく分からず、感情の処理も上手くできない。

 今ここで泣いてしまったら、きっと今度はもう自分では止められないだろう。

 陽夏にそんな姿を見せるわけにはいかない。


 今日は帰ってもらおう。


 そう決めた瞬間、陽夏が静かに鍵盤に手を置いた。体育館で弾いたのあの時とは違い、今度は、第一楽章から……でも、今はこの曲を聴きたくなかった。


「……やめろ」


 やんわりと腕を掴んで演奏を止めた。

 陽夏は俺の静止を批判することもなく、こちらを振り返った。

 淡い茶色の瞳が労わるようにまっすぐに俺を見ていた。


「あの時さ、レナのこと思い出したんだよ。体育館で創平が調律したピアノ弾いた時……」


 何の脈絡もなく、突然そんなことを言って、陽夏は俺の手を握った。

 温かくて、大きな手だった。

 

「俺、本当はヴァイオリンやってて……母さんがそうだったから。でも、どんだけ頑張って練習しても怒られるばっかりで、段々嫌になってきて……」


 一体、いくつの時の話だろう。

 黙って聞いていると、陽夏はポツポツと当時のことを話し始めた。


「そしたら、レナが母さんに勝てる方法あるよって。真帆はピアノが下手だからって。……ピアノのことは全部レナが教えてくれたよ」


「陽夏……」

 

 もう帰ってくれ。そう思ったのに、陽夏は応じる気がないらしい。

 今はそうやって俺の手を取ってくれるけど、陽夏だって本当のことを知ったら、気味悪がってこんなことは出来ないはずだ。


「ねぇ、創平。何聴きたい?」


「…………」


 何も答えられずに立ち尽くしていたら、陽夏は俺の答えを待たずに鍵盤に手を伸ばした。

 部屋にゴーンと十度の和音が響く。ラフマニノフのピアノ協奏曲二番だ。先日工房で話していていた、Cフラットの恋のあり得ない場面を再現しているのだ。陽夏が何を意図してこの曲を選んだのか理解した。

 ふっと肩の力が抜けた。


「お前やっぱり手が大きいな」


「そこについては、父さんと母さんに感謝してる。これ絶対遺伝だもん」


「きっと背も高くなるんだろうな」


「多分ね。創平のご飯も食べてるし」


 陽夏が俺を見上げて笑う。


「ねぇ、お腹空いた」


 あーあ……。もう仕方がないか。

 俺は、ふわふわの陽夏の頭をポンポンと撫でた。


「練習もいいけど、宿題もやれよ」


「はいはーい……」


 陽夏の返事に促されるようにキッチンへと向かった。リビングとキッチンを隔てるドアを閉め、料理の準備に取り掛かると僅かな沈黙の後、フランツ・リストのコンソレーション第3番が流れてきた。先ほどの重たいラフマニノフとは打って変わって、題名通りの静かな音色に包み込まれる。

 ただ黙って寄り添うような旋律の中に、陽夏の優しさを感じた。

 招待状を見て動揺してしまったことを陽夏に悟られてしまった。失敗だったとは思うが、一人で受け止めるよりはマシだったのかもしれない。少なくとも、こうやって、陽夏がワーワー騒いでいる間は、招待状のことを棚上げできる。僅かな時間でも、今はその猶予が出来たことが有り難かった。


 ピアノを修理しながら、俺はいつの間にか廃棄寸前のピアノと自分の姿を重ねて見ていた。あの時、ピアノを引き取ろうと決意した気持ちが同情だったのか、自己憐憫だったのかはよくわからない。どんなに取り繕っても粗が目立ち、到底普通にはなれないピアノは自分の境遇そのものだった。

 あと数年もすれば、友達もどんどん結婚して、祝福とは程遠い自分をより強く意識するようになるだろう。この先のどこかで、独りで生きることを覚悟する日が来ることもわかっている。どのコミュニティに属し、どうやって生きていくべきなのか。家族に打ち明けるのか、墓場まで持っていくのか。考えるべきことは山ほどあるのに、何一つ結論を出せないままでいる。

 ピアノと語り、音に触れている瞬間だけが、そういった杞憂から解放される唯一の時間だった。

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